第4話 過去の事件
信一は真帆乃に言う。
「もちろん他の刑事の前では、幼馴染だって隠しておくよ」
「そうね……。面倒なことになるから」
真帆乃は小声で言った。捜査会議を仕切っていたときは強気な自信家だったので、まるで別人だ。
「秋永さんがキャリア組の警察官僚をやっているなんて、驚いたよ」
「私もあなたが刑事をやっているとは知らなかったわ」
「それは話していないからね。警視庁の警察官は4万人はいるんだし、気づかなくてもおかしくはないさ」
「……もう八年も会っていなかったのね」
「正確には六年前の成人式のとき、会ったんじゃない?」
「あのときは一言も口を利かなかったでしょ?」
「そうだったっけ」
「覚えているくせに」
高校の最後の年、信一は真帆乃と仲違いした。一つの事件をきっかけに二人の関係は壊れてしまったのだ。
大喧嘩、だったと思う。真帆乃からはだいぶひどい言葉を投げつけられた。「あなたみたいな何もない人なんて、私の人生には必要ない!」とか言われた気がする。
それまではずっといっしょにいた幼馴染だった。付き合っているのではないかと勘違いされることもあるぐらい、二人は親しかった。
けれど、その喧嘩を最後に、信一は真帆乃と会話する機会はなかった。
「あんなことがなければ……」
真帆乃は窓の外を眺めながら、物憂げな表情を浮かべて言う。信一はちらりと真帆乃を見ると、青信号に変わったのを確認してアクセルを踏んだ。
曇り空に輝く夕日は、もうすぐ落ちてしまいそうだった。
「私はね、あなたにひどいことをしたと思ってるの」
真帆乃は静かに言う。
「ひどいこと? 秋永さんはひどいことなんてしていないよ」
「名字で呼ぶんだ。他人行儀ね」
「26歳にもなって、名前呼びは変だよ」
「……そうかもね」
真帆乃は一瞬、間を置いてから言う。
不思議なものだな、と思う。
地元の名古屋で、制服を着て、隣を歩いていた女の子が、今では自分の上司なのだから。
押上署のあるのは下町だが、警視庁本部は皇居近くの霞が関にある。いわゆる桜田門だ。
だから、徐々に車は都心部へと入っていく。
信一は迷ってから、口を開く。
「君の妹が誘拐されたのは、俺のせいだよ」
「梨香子のことで、八つ当たりしたのは、悪かったわ」
「一緒にいたのに、守れなかったのは俺だから」
二人が疎遠になったきっかけは、真帆乃の6歳年下妹の梨香子が誘拐された事件だった。
信一は真帆乃の家族とも親しかったし、小学生だった梨香子にも懐かれていた。
だから、ある日、信一は真帆乃と梨香子と遊園地に遊びに行った。楽しい時間だったと思う。
あの頃の信一は真帆乃のことが好きだった。美少女で、優しくて、ものすごく頭も良くて……。
真帆乃は信一以外の男を苦手としていたのか、寄せ付けもしなかった。
可愛い幼馴染が自分にだけ優しくしてくれたのだから、単純な男子高校生として好きにならないはずがなかった。
卒業する前に告白するつもりだった。
けれど、帰りの夜道で事件が起きる。真帆乃がトイレで離れた隙に、男たちが現れて、梨香子を連れ去った。
真帆乃と梨香子の家は、名古屋でも有名な大手食料品メーカーの経営者一家だった。だから、身代金目的で誘拐されたのだ。
信一は何もできなかった。車に梨香子が押し込まれ「信一お兄ちゃん」と助けを求め泣き叫ぶのを見ていることしかできなかった。
屈強な男たちを前にして、足が震えて信一は動けなかったのだ。
今なら、違う。信一は刑事だから。けれど、当時の信一は、ただの男子高校生だった。
その後、大騒動になり、当然、警察の捜査が行われた。ただ、県警の捜査は不手際が重なり、身代金の受け渡し現場で、犯人を取り逃すという失態まで犯した。
信一も真帆乃も起きたことを直視できなかった。自分たちのせいで幼い妹が誘拐された。
そうして、真帆乃は信一を激しく責めた。そうしなければ、自責の念を抑えることができなかったのだろう。
一週間後、梨香子は解放された。命があったのは奇跡だが、梨香子は心と体に消えない傷を負わされていた。
そして、信一と真帆乃は絶縁した。
「梨香子は元気にやってる。もう女子大生なのよ」
「そっか。八年も経てば当然か」
「だからね、信一は気にしないで。あのときのことは、信一には何も責任はないから」
「そうは思えないよ」
「だから、警察官になったの?」
「それは……」
警察官になろうとした直接のきっかけは、自転車を盗まれたときに知り合った刑事だった。
ただ、梨香子の誘拐の影響は、もちろんある。
「私が警察官になったのは、妹の誘拐が理由」
真帆乃ははっきりと言い切った。
「そうだろうね」
「あんなことさえなければ、梨香子はもっと幸せで、私と信一は……」
今でも仲の良い幼馴染でいられた。
真帆乃はそう言いたかったのかもしれない。
けれど、それは違う、と思う。
もともと信一と真帆乃は違う世界の人間だったのだ。
真帆乃は美人で、名家の令嬢で、東大に受かるぐらいの才女だ。平凡な信一とは違う。
振り返ってみると、真帆乃と疎遠になるのは必然だったと思う。
やがて桜田門についた。
「ここでいいわ。ありがとう」
「どういたしまして。……秋永管理官の捜査の手腕に期待していますよ」
信一は微笑んで言うと、真帆乃もくすりとした。
「またね」
真帆乃はそう言うと、パトカーを降りた。
偶然のおかげで、絶縁状態ではなくなった。ただ、相変わらず、真帆乃は遠い世界の人間だ。
数十人、数百人を統括する幹部である真帆乃。平刑事である自分。
二人の道が交わることは、もうないだろう、
そのはずだ。
偶然の出会いから、信一が真帆乃とルームシェアすることになるとは、そのときの信一は思いもしなかった。
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