第2話

 助手席に乗り込むや否やアマンダはデニムスカートのポケットからタバコを取り出して、鮮やかなほどの手つきで火を点ける。


「タバコは止めてくれと言っているだろう」


 運転席のキャットが軽く横目で睨んでもまるで堪えた様子はない。


「いつから車内禁煙になったの?」

「そうじゃない、健康に悪いって話をしてるんだ」

「あは、健康!」


 ふぅっとタバコの煙をキャットに吹きかけ、アマンダはにやりと笑う。目のクマにべったり塗られたコンシーラーが歪んだ。


「キャット、いいかい。あたしみたいなもんに喜びがあるとすれば、そいつは、あんたみたいな可愛い子が老いて乾いてみすぼらしくなるのを見ずに死ねるってことだ」

「……縁起でもない」

「死は何よりも身近なものだよ。あんたよりはあたしの方に近くあれと願ってるけどね。殺しの仲介なんてしてるくせに自分だけは死なないと思ってる方が滑稽さ」


 一理ある、と思ってしまうと何も言えなくなる。黙ってしまったキャットがアクセルを踏むと、アマンダはちらりと後ろを見やった。


「あの家ももう駄目だね」

「警察?」

「いや、麻薬カルテルの方だね。ドゥランゴのカルテルのお抱え弁護士殺しに人を貸したのがバレたらしい」

「危ないんじゃないのか」

「危ないねえ」


 タバコを咥えてアマンダは窓にもたれる。古い建物ばかりの街並みをキャットはわりあい気に入っているけれど、運転するには細い道が多くて面倒だ。もっと厄介な場所に住んでいたこともあるから、スーパーマーケットに車で行けるだけマシだけれども。


「次はもっと海が近い街にしようか。いっそ地中海あたりまで飛んで。この街はちょっと人も建物も混みあいすぎてるね」

「メキシコを出るならその前にグアダルーペに行こうって言ったじゃないか」

「グアダルーペ? ああ聖母のね。あんた教会なんて好きだっけ?」

「まあね、それにアマンダもベルトコンベアが見たいんだろう」

「どうしてもってわけじゃないよ、工場みたいに信者が流れてくのが愉快だよねってだけ」


 狭い車の中に、アマンダのタバコの匂いが充満する。世界中どこに行っても赤のマールボロが買えてしまうから、どれだけ名前を替えても痩せても太っても、彼女は同じ匂いをさせている。

 本当に違う人間になりたいのならまず真っ先にタバコをやめるべきだ、とキャットは思うけれど、それを、タバコを止めてほしい理由に挙げたことはない。







 スーパーに着いてからもぐだぐだと文句を言っていたアマンダは、ハムと乳製品のコーナーの前で急に声を潜めた。


「つけられてるね」


 落ち着いて、と囁いてから、何事も無かったかのようにヨーグルトをカートに放り込んでキャットの腕を引く。カートを押して大人しくそれに続きながら、首を動かさずにちらりと目だけで後方を伺うと、酒瓶をカートに積んだ男がいた。

 一見どこにでもいそうな男だが、まとう雰囲気が独特だ。仕事を求めてアマンダの元を訪れる側の人間つまり――人を殺す人間と同じ雰囲気。

 牛乳、パック詰めされた桃、缶詰スープ、袋詰めのロールパンと何食わぬ顔で次々放り込んでいくアマンダが、パプリカを見ながらごくごく小さな声で囁いた。


「店を出たら車とは逆の路地に誘い出す」


 目だけで頷いてレジへと進んでいく。手元を会計するアマンダの体で隠しながら、ジャケットの下のホルスターに手を伸ばし、銃の安全装置を外した。

 アマンダに買い物袋を任せ、べったり寄り添うようにいつでも庇える位置について、指示通り駐車場とは逆方向へと向かっていく。店を出ても男はきっちり一定の間隔を保って、後ろからついてくる。


「意外と大人しいな」

「連中の縄張りじゃないからね、そこで派手に暴れるほどじゃないんだろうね、今はまだ」

「まだ?」

「これからの身の振り方次第さ」


 アマンダがキャットの腿を軽く叩く。

 一回。

 角を曲がって一瞬、男からふたりの姿が隠される。

 二回。

 ホルスターから銃を抜く。

 

 三回。

 

 走り出て引き金を引く。サイレンサーつきの銃声はおもちゃじみた軽さで響いた。

 銃を撃つときはいつもなんとなく、頭と手先が乖離しているようにキャットは感じる。手元で感じる反動と、撃たれて倒れる対象が繋がっている感覚が無い。直接手で触れないものはどこか不気味だ。

 崩れ落ち動かなくなった男の体に近寄り、開ききった瞳孔を確認する。

 スーパーマーケットから出てすぐのところに死体があっては流石に騒がれるだろう。銃声だって周囲に聞かれていないわけがない。弛緩しきって重たい死体を担ぎ上げて、路地の、中身の溢れたゴミ箱の陰に放り込む。アマンダが「力持ちだねえ」と小さく拍手した。


「さっさと帰ろう」


 ホルスターに拳銃を仕舞いなおして何気なく振り向く。



 その先に、影と、殺気。



「ッ、もう一人!」


 咄嗟にアマンダがぶら下げていた袋をひったくって投げる。銃声と共に内容物をまき散らすそれには目もくれず、アマンダの細い腕を引っ張ると膝裏から思い切り抱え上げた。


「ちょっと!」

「あなたを走らせるより速い!」


 不意を打たれて、しかもまだ増援がいる可能性があるとなれば応戦は分が悪い。とにかく安全圏までアマンダを逃がさなければならない。 

 牛乳と潰れた桃とスープが混ざったまだら模様を踏み散らかし、曲がり角に再び飛び込む。

 銃弾が頬をかすめ、皮膚を裂く痛みに背筋が冷たくなる。銃弾が通ったのが頭の逆側なら、撃たれていたのはアマンダだった。

 走りながら、アマンダの頭を庇うように胸にぎゅっと抱き寄せると、「そうじゃないだろ」といううめき声と共にアマンダがもがいた。


「キャット、銃借りるよ!」

「ひゃっ」


 叫び、アマンダは無遠慮にキャットの脇に手を差し入れる。ホルスターの拳銃を引き抜き、キャットの肩越しに構えた。


「ああくそ、揺れる!」


 追手の足元を狙ってアマンダが銃弾を放つ。

 その体が固定されるようにがっちりと腕に力を込めて、キャットはますます強く地面を蹴る。

 この状態で当てるのは至難の業だ。威嚇にしかならない。一刻も早く安全を確保するために、死に物狂いで走って、走って、角を曲がってまだ走って、走って、人の多い表通りへと走り出る。

 ひとまず撒けたのではないかと思うが、うかうかしていると追いつかれる。足は止められない。

 アマンダは最後の一発を路地の方向へ叩き込むと素早くキャットのジャケットに銃をねじ込んだ。


「バス! 止まって!」


 突然高々と挙げられたアマンダの手がキャットの鼻先をかすめる。通りがかった市内バスの運転手は怪訝な顔を隠しもせずにブレーキを踏む。

 キャットはどこ行きかも確認せず、転がるように飛び乗った。

 座席に放り出されたアマンダが情けない悲鳴を上げる。

 窓越しに通りを、そして車内を見回して追手の影が無いことを確認し、ふたりでどっと息を吐く。

 車内ではボブ・マーリーの『アイ・ショット・ザ・シェリフ』が耳の割れるような音量で流れていて、大きく息を吸ったアマンダはその音に負けじと怒鳴った。


「何であんな真似するの! あそこまでしろって言ってないでしょ!」

「私はボディーガードだぞ!」

「だからあんたと一緒に出かけたくないんだってば! すぐに無茶して!」

「私がいなかったらどうなってたと思ってるんだ!」

「あんたなんか雇うんじゃなかった!」


 痩せた人差し指がキャットの頬に薄くついた傷を辿る。そしてその指を口元に運び、じっとりと二色の目でキャットを睨んだまま、薄い舌で指にこびりついた血を舐めとった。


「クビにするか」


 キャットが思わず弱々しい声で尋ねたのを、アマンダは聞き取れただろうか。閉じ切らない唇に舌をねじ込むようなキスをされて、キャットは自分の血の味を思い知らされる。かさついた唇の感触に栄養不足の文字が一瞬だけ頭をよぎった。ぐちゅりと甘く舌が擦れ合って、執拗に絡んでは吸い上げられるから、ただでさえ酸欠なのにいよいよ息が出来なくなってしまう。

 抗議の意を込めてアマンダの胸を軽く小突くと、倍の力で突き放される。たいして痛くない。


「あたしを長生きさせたいんなら、あんまり心配かけないで!」


 ピンクの左目が涙で潤んでいる。コンタクトが取れてしまう、と思って目元を拭ってやろうと指を伸ばすと、震える声でアマンダは「返事は」と硬く問いかけた。


「わかった。次は絶対油断しない」


 キャットが至極真面目に答えると、アマンダの唇がわなないて、でも息を吸い込んでもう一度怒鳴る前に周囲の視線に気づいたらしい。ゆっくりと重いため息を吐いて、座席に座りなおし、窓に頭を持たせかけてじっと視線だけをキャットに向けてみせた。

 キャットも隣に詰めて座りなおす。もう一度アマンダの指が優しく撫でた頬の傷がぴりぴりと痛む。また許してもらえたのだろうと嬉しさに口元を緩めると、アマンダが口の端を軽く上げて応えてくれた。


「しかし、これで連中もなりふり構わなくなるだろうね」

「いよいよ引っ越さないと危ないな。車も無しにこんな街には住めないし」

「新居の渡りは付けとくよ。来週の今頃には地中海だ」


 キャットはさほど思い入れは無いけれど、アマンダは海が好きだ。くたびれた顔をしているアマンダの頭を抱き寄せて、やはりくたびれているキャットは少しだけ目をつむる。次はきれいな海が見える家だといい。

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