マテリアルキャット

ギヨラリョーコ

第1話

 フランカ・セベルはダブルベッドの上にタトゥー図案のカタログを広げて、手の爪を切っていた。

 ふたりのベッドルームにぱちん、ぱちんと響く音に合わせて、キャットはダンベルを振る。握ったダンベルを、肘を曲げて持ち上げる。上腕二頭筋と前腕のトレーニング。振るたびにぱさぱさと揺れる前髪が鬱陶しい。


 フランカが切った爪が、青いインクで女の背に描かれた聖母像の写真の上に落ちていく。「今年の夏こそはグアダルーペに行こう」と言ったことを、フランカは覚えているだろうか。メキシコに来てしばらく経つが、機会を逃し続けているのだ。


 グアダルーペ寺院には聖母の姿が映し出されたマントが飾られていて、その下を動く歩道で移動しながら見学するらしい。フランカもキャットも信仰に熱心な方ではないけれど、キャットは古くてきれいな建物を見るのが好きだったし、フランカは動く歩道を流されていく信徒を見たがっていた。


「改名するよ」


 それまでカタログの上でうつむいていたフランカが、顔を上げて唐突に言い放つ。

 伸びて傷んだ薄茶の前髪の隙間から見える目は、右目がヘーゼル、左目には冗談みたいなつくりもののピンク色のカラーコンタクトがはまっている。

 そこだけが妙に目立つから、フランカの頬や首に肉割れの線が走っていることや、髪の生え際が脱色前の黒を見せていることに人はなかなか気づけない。

 というよりもそもそも、彼女の顔をじっと見る機会がある人間がどれほどいるだろう。


「そうか。なんて名前に?」

「アマンダ・メイ・ロジャース」

「かわいいじゃないか」


 そんなわけでフランカはフランカではなくなった。


「スペルは?」


 問いかけると、フランカ、ではなくアマンダは立ち上がってカタログの上に散らばっていた爪を捨て、ペンを取ってカタログの余白にさらさらと書き込むと、ダンベルを振っている姿勢のままのキャットの目の前に差し出す。Amanda Mae Rogers.の文字列を目で追ってキャットは頷いた。


「エイ、エム、エイ、エヌ、ディー、エイ、エム、エイ、ワイ」

「イーだよ、MAYじゃなくてMAE」

「エム、エイ、イー、アール……」


 唱えながらダンベルを振っていると、アマンダがおもむろにヘアクリップを持って近づいてきた。そのまま続けて、と軽く手を振り、背後からキャットの額に手を回す。アマンダの方が、少し背が低いから、前髪を探る指に少し無理を感じる。


「しゃがもうか」

「いい、そのまま。ほら、これで邪魔じゃない」


 強引にキャットの前髪が留められる。軽く髪の毛を引っ張られる感触がして、後ろ髪もまとめられているのだとわかる。アマンダが蜂蜜色と呼ぶ濃い茶色の髪の毛がくくられて、褐色のうなじが晒された。


「また日に焼けたねえ」

「白い方が好きか?」

「いいや? キャットだったらなんだっていいよ」


 そのままうなじに軽いキスをして、アマンダは何もなかったようにベッドに寝転んでカタログをめくり始めた。


「新しいのでも彫るのか」

「どうしようかねえ……」


 首回りの伸びたTシャツから覗くアマンダの生白い肩口には、タトゥーを切除した痕が薄赤く残っている。手術は随分痛かったらしく、術後しばらくは「もう二度とタトゥーなんかいれるか」と言っていたが、もう忘れてしまったらしい。

 仕方あるまい。あれから名前は三度――今日で四度替わった。都度髪の色も変わったし、鎖骨が脂肪で埋まるほど太った後にあばらが浮くほど痩せた。顔にもそれ以外にも何度かメスが入っている。


 彼女の一種の病気のようなものだ。彼女は、いつだって彼女ではない人間になろうとしている。一年前ですらほとんど別人みたいに見えるだろう。せめて名前が替わるごとに写真でも撮って記録しておくべきだったと、キャットは思う。

 ダンベルを置いて床に寝そべり腹筋のトレーニングに移ったキャットに、カタログを脇にのけたアマンダが嬉々として声をかける。


「ね、上に乗ってあげようか」

「今は、そういう、やつじゃ、ないから」

「ふうん」


 手伝ってほしいときには大抵忙しくしているくせに、手がいらないときに限って興味が湧いたのだろうか。アマンダは断られた後もじっとキャットを眺めていた。



「あんたのそれがなんだかわかったよ」

 そろそろトレーニングが終盤に差し掛かったころ、アマンダがふいに口を開いた。

「腹直筋と、腹斜筋の、トレーニングだ」

「そうじゃなくて」


 カタログを腹に抱えてベッドにあおむけに転がり、そんなだらけた姿勢のくせに目をひどく鋭く細めてアマンダは言う。


「あんたのそれは祈りだよ、キャット。信念に対する従順さの表明としてのルーティーンだ」

「祈りって、そういうものでも、ないだろう」


 何かと小難しい話にしたがるのはアマンダの悪い癖だ。頭脳労働者の職業病だと彼女は言うが、世間の人がみんなそんなことを考えて生きているわけがないとキャットは思う。


「もっと、曖昧で、どうしようも、ないものに、対して、するものだ」

「そんな良いものかね。あれはただの手続きだよ。正しいことをしているから報われてしかるべきという幻覚に基づいた手続きだ」

「トレーニングは、トレーニングだ。したら、筋肉がつく、それだけだ」

「そういう上っ面の話がしたいんじゃないんだって。トレーニングと筋肉を通してあんたが何にアクセスしようとしてるのかって話。体を鍛えることが実際に何かを解決するんじゃなくて、設定されたガイドラインに沿っていることで安心したいんだよ」


 少なくともキャットには体を動かしながら難しい話は出来ないし、今はそういう話をしたいわけでもない。体を起こして手を降参の形にする。


「わかった、わかったよアマンダ」


 初めて呼んだ名前はまだ舌に馴染まないが、あと三度も呼べば慣れるだろう。


「あなたが何かに煮詰まってることがわかった。買い物に行こう。牛乳も切らしてるし」

「一人で行けばいいじゃないか」

「一緒にいないと仕事にならないだろう」


 アマンダはベッドを降りるとキャットの頬をつまんで顔をぐっと寄せる。


「キャァーット、ケイトリン、ケイトリン・ギアード、あんたの仕事はあたしの助手だろう。あたしの仕事の効率を上げるためにいるんだから、のんきに二人で買い物行ってちゃ駄目だろう」


 まるで子供をたしなめるような口ぶりだが、さっきまでぐだぐだとキャットに絡んでいた人の言い草ではない。その手を掴んで降ろさせる。


「私の仕事はあなたの助手兼家政婦兼ボディーガードだ。一緒にいないとボディーガードの仕事にならない」

「ボディーガードはあんたが勝手に言ってるだけだろうに」


 アマンダはキャットの反論に露骨に顔をしかめた。要するに出かけるのが嫌で駄々をこねているだけなのだ。引きこもり気質な上に、キャットと一緒にいるところを人に見られるのをやたらと嫌がる。家にいるとやたらにくっつきたがるくせに。


「頼むよアマンダ、あなたと一緒に出かけたいんだ」


 だからキャットは体をかがめて擦り寄り、胸を押し付けるように、腕をアマンダの細いそれに絡ませる。甘い声を出すと、アマンダは大きなため息をついた。これは拒否ではなくOKの合図だ。

 アマンダはなんだかんだとキャットのおねだりに弱い。『いかにも無理してやってるんだなあってのが可愛いんだよ』と以前言っていたけれど、キャットに無理をしているつもりはない――似合わないなとは思っているけれど。


「五時に客が来るんだよ、それまでには帰るからね」

「この間言ってたサン・マルコスの?」

「腕のいい狙撃手が欲しいとさ……『腕がいい』たって簡単に言ってくれるよ」


 べったりくっついたまま靴をひっかけて財布を拾ってガレージまで降りていく。アマンダが文句を言わないのをいいことにぐっと体重を掛けてみると「今日は一段と甘えたじゃないか」と細い指が耳をくすぐった。二人分のジャケットをまとめて抱えてくれているのが嬉しい。

 二人が住んでいる家のドアには日焼けして色褪せたヨガ教室のビラが貼ってある。でもヨガに興味を持ってドアを叩いた客は今まで一人もいない。

 やってくるのは人殺しを斡旋してほしい連中と、殺しの現場に斡旋されたい人殺しだけだ。

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