第209話 ボロアパートです! その一

 二月の冷たい風に晒されながら黒乃達は空地の前に立ち尽くしていた。

 目の前には真っ平らな地面。本来ここに我らがボロアパートがあるはずである。今はなにもない。建物、駐車場、倉庫、メル子のプランター畑、車。全てが消え失せていた。

 黒乃はプルプルと震える手でニコラ・テス乱太郎のスーツの襟首を掴んだ。


「貴様の仕業かァーーーーッ!」


 黒乃はニコラ・テス乱太郎の頭を激しく揺さぶった。


「こら〜、やめたまえ〜」


 黒乃の手を引き離すと優雅にスーツを整え直した。


「私にもわからないのだよ」

「しらばっくれるとさば折りでナノボーンを粉砕するからな!」


 メル子と黒メル子は慌てて黒乃を宥めにかかった。


「今朝わたくし達は確かにボロアパートを出発しましたわよ」

「浅草寺の断髪式が終わるまで六時間も経っておりませんわ」


 この短い時間でボロアパートを更地にするなど二十二世紀の技術をもってしても難しい。建物を解体するだけならまだしも、敷地内のものが全て綺麗に消え失せている。


「ご主人様、ボロアパートの住人はどうなったのでしょうか?」

「はっ、そうだ。大家さん夫婦は!? お隣の林権田はやしごんだは!?」

「プチ達も! プチご主人様もプチメル子もいません!」


 黒乃とメル子はその場にへたり込んでしまった。


「やっぱりお前の仕業だろーーー!」

「返してください!」


 黒乃は再びニコラ・テス乱太郎に掴み掛かった。メル子は足にローキックを連発した。


「いたたたた。やめたまえ〜。本当に知らないのだよ〜」


 ニコラ・テス乱太郎は敷地内に足を踏み入れた。剥き出しになった地面を探っているようだ。しばらくすると地面に手を突っ込み何かを引き上げた。


「地下は無事のようだね〜。では諸君、ご機嫌よう」


 地面のレバーを引くと扉が現れ開いた。地下へと続く通路に入り込み姿を消した。それに続いて小熊ロボのワトニーを抱いた黒メル子も通路に入り込んだ。


「ご主人様、我々はボロアパートの調査をしますので。なにかわかりましたらご連絡いたします」


 黒メル子はそれだけ言うと、お辞儀をして通路の中へと消えた。

 黒乃達はそれを呆然と見送った。夕陽が更地と四人を寂しく照らした。



 ——ゲームスタジオ・クロノスの事務所。

 浅草寺から数本外れた静かな路地にある古民家。黒乃、メル子、マリー、アンテロッテはここに退避していた。


「うう、うう」


 黒乃は台所のテーブルに突っ伏して泣いていた。メル子がその背中をしきりに撫でている。


「おうちが……おうちが無くなった……うう」

「ご主人様……申し訳ありません。私がおさげを切り落としてしまったばかりに……」

「うう、メル子のせいじゃないよ。うう、みんな大丈夫かなあ?」


 その後確認したところ、ボロアパートの住人で連絡が取れなくなっているのは大家夫妻、林権田、その他二家族だ。他は外出していて無事であった。彼らは今、それぞれ別の場所に退避している。ロボマッポ達も調査に入っているようだ。


「黒乃さん、元気出してほしいですの」

「落ち込むなんてらしくありませんのよ」

「うう、ふたりとも……」


 事務所の玄関が開きメイドロボが現れた。ヴィクトリア朝のメイド服が麗しいルベールだ。手には大きな籠を抱えている。お隣の紅茶店『みどるずぶら』から料理を作って持ってきてくれたのだ。


「さあ皆さん。お食事をお持ちいたしました」

「うう、ルベールさんありがとう」


 いくら落ち込んでいても腹は減る。籠の中身を見て少し元気が湧いてきた。

 ルベールが作ったのはステーキパイだ。パイ生地の中にビーフシチューが入っている。四人は夢中になってパイを頬張った。


「うま、うま」

「濃厚で美味しいです!」

「体が温まりますわー!」

「お贅沢なおパイですわー!」


 夕食をたらふく食べた後は入浴だ。事務所は古民家なので台所、風呂、寝室。全て揃っている。

 黒乃とメル子は二人で入ることにした。


「よかった、事務所があって」

「不幸中の幸いでしたね」


 浴槽に二人で浸かった。狭い浴槽ではあるがギリギリ一緒に入ることができる。湯が盛大に溢れ出し、二人は少し笑顔になった。


「ボロアパートの住人達も心配だけど、プチ達も心配だなあ」

「そうですね。でもきっとプチご主人様がプチメル子を守ってくれていますよ」

「うん」


 浴槽から出るとメル子は黒乃の背中を流し始めた。その背中にあるはずのおさげはもうない。青白いうなじが眩しく目に映った。


「これは……おさげの災厄なのでしょうか?」


 メル子の声は震えていた。なにか自分がとんでもないことをしてしまったのではないかという恐れを感じていた。


「メル子、もし災厄だとしても大丈夫だから。黒ノ木家はその災厄を乗り越えて生きてきたんだから。今回も絶対に大丈夫。ご主人様に任せなさい」

「はい……」


 メイドロボは力を込めてご主人様の背中を磨いた。



 深夜。黒乃達は二階の部屋に移動した。二階には二部屋あり、昼休憩の仮眠室として使っている。寝具は一通り揃っている。

 お嬢様たちとは別々の部屋で寝ることにした。


「さあ、メル子。もう寝ようか」

「そうですね」


 メル子は灯りを消し、床に敷かれた布団に潜り込んだ。しばらく沈黙が続いたあと、強い風が窓に打ちつけて震えた。古民家の柱が軋む音が聞こえる。その音に紛れて泣き声が聞こえてきた。


「……」

「……」


 最初は気のせいかと思われた泣き声は確かな実在をもって二人に襲いかかった。間違いなく泣き声の主がこの部屋にいる。

 黒乃とメル子は恐る恐る泣き声の方へ視線を向けた。そこにいたのは赤いサロペットスカートの幼女であった。


紅子べにこ……ッ!」

「紅子ちゃん!?」


 二人は布団から飛び起きた。部屋の入り口で座り込み泣いている少女を見つめた。

 紅子。ニコラ・テス乱太郎一味の一人。その正体は存在が量子状態になっている量子人間だ。普段は神出鬼没だが、観測により存在が収縮することもある。


「紅子、そうだ紅子。ひょっとしてボロアパート消失は紅子が関係あるんじゃないのかい」

「紅子ちゃん! なにか知っていることがあったら教えてください」


 紅子は相変わらず泣いている。メル子はたまらず紅子に駆け寄って抱き寄せた。


「どうして泣いているのですか? 悲しいことがありましたか?」


 中々泣きやまないが、根気よく頭を撫でているとようやく言葉を絞り出した。


「父ちゃんが……」

「お父様? 紅子ちゃんのお父様ですか!?」


 それだけ言うと紅子は霧が晴れるかのように消えてしまった。黒乃とメル子は顔を見合わせて頷いた。



 ——翌朝。

 黒乃とメル子とお嬢様たちはボロアパートの敷地の前にいた。雲一つない青空が一行を出迎えた。敷地と道路はロボマッポが張った立ち入り禁止のテープによって隔てられている。


「絶好の『観測』日和だね〜」


 ニコラ・テス乱太郎はしきりにデバイスを操作している。青と白の宇宙服を着たワトニーを抱いた黒メル子が後ろからその様子を窺っている。


「さあ〜君達〜。準備はいいかね〜?」


 黒乃とメル子は前に進み出た。


「おうよ!」

「バッチリです!」


 二人は気合いを入れ直している。


「わたくし達は行かなくてもいいんですの?」

「お留守番ですの?」


 マリーとアンテロッテは不満げに訴えた。


「危険だからね。帰ってこれないかもしれない」黒乃は神妙につぶやいた。

「それに『観測者』は多いほどいいからねえ〜。みんなで行くわけにはいかないんだよ〜」


 ニコラ・テス乱太郎の調査によると、ボロアパートは確かにここに『ある』のだ。ただし、雲のようにぼんやりと存在している状態なのである。

 それが量子人間である紅子に関わっていることは明らかであった。ボロアパートは紅子同様『量子アパート』になっているのだ。


「このアパートが元々量子状態になっていたのか、それとも昨日そうなったのかはわからないがね〜。謎の観測者によって存在しない状態に収縮してしまっているのだよ〜」

「なにを言っているのかわかりませんわー!」

「だからその観測者を見つけ出して、観測をやめさせれば元に戻るというわけさ〜」

「その観測者というのは誰なのですか!?」

「わからないね〜。さあいくよ〜。みんなも注目〜」


 変態博士がなにやら操作をした。すると本来ボロアパートがあった場所に、そのシルエットがうっすらと浮かび上がってきた。


「人工衛星を操作してそのカメラをネットワークに接続。主要なニュースサイトでライブ中継させたよ〜。世界中の人が今このボロアパートを見ているね〜」


 大量の観測者により存在が収縮したボロアパートは、今やはっきりとその存在をあらわにした。


「行くよ、メル子!」

「はい!」


 テープを跨いで敷地内に入った黒乃とメル子は手を繋いで歩き出した。目指す先はボロアパートの一階の角の部屋。紅子の部屋だ。


「お邪魔します!」


 二人は扉を開けた。

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