二 はじまりの日(7)

 幸間は〈三色旗〉のチーズケーキと温くなった珈琲を飲み干すと、晴彦の呼んだ辻馬車が到着するなり、早々にお暇してしまった。患者が待っているから、と微笑んで、最後に令人に非礼ひれいびて客間を出て行った。高久と春彦も幸間を見送りに客間を出て行き、客間には鏡一郎と令人の二人が残された。

 鏡一郎は令人の顔を無遠慮にながめている。気にする様子のない令人に鏡一郎は嬉しそうな表情を隠さなかった。

「ふうん。君、自分の容貌ようぼうに本当に無頓着むとんちゃくなんだねえ」

「え……」

「僕は君を気に入った。生い立ちから何まで……薄明はくめい佳人かじんのお手本だ」

 令人は何も答えなかった。鏡一郎はやはり嬉しそうに微笑み、天板に手をつき、身を乗り出した。今度は高久の守りがない為に鏡一郎の手はやすやすと令人のほおれるくらいにまで近づいた。令人は突然のことに体が硬直こうちょくし、即座に動くことが出来なかった。しかし、鏡一郎は触れなかった。

「触れられると思ったかい? 僕は未成年の男女には手を出さないと決めているからね。でも、触れたいくらい美しい魂だ。顔だけではない。心までもが美しいなんて、最高だ。兄の為に命をささげるなんて、慈愛じあいに満ちているにも程がある。……だから、兄は君を憎むのだろうね」

 令人の目が戸惑いに揺れ動く。

「僕は小説家だからね。人の心の機微きびは誰よりもさといつもりだ。君の兄の心の内を読むなど、容易たやすいことだ。……単に憎しみだけではない苦しみを持つ。だから、君は兄を見捨てることは出来ない」

 鏡一郎は手を引っ込めて座り直した。

「……だが、それでもえて言う。どんな理由があろうとも、むごい理由であろうとも、誰かを傷つけて良い理由にはなり得ない。君を傷つける者の為に、君は死ぬ必要はない。それで君の兄が死んだとしても、それは君の責任じゃあない。君たちを取り巻く周囲の大人の責任だ。勿論、事情を知ってしまった僕もだ」

 何も言えずに哀しそうな表情をする令人を前に鏡一郎は優しい笑みを向けた。

「これは、本当の事情を知らない、君を心配する大人の言葉として心にめ置いてくれ」

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