二 はじまりの日(5)

 晴彦が案内したのは立派な庭をのぞむ客間である。緑広がるおごそかな雰囲気の庭園は、わざわざ土を入れ替えてまで作らせたものだ。〈白幹ノ国〉では植物は白く育つ――故に余所よそから持ってきた種や木を植えようとも、徐々に白くなってしまう。だから、庭の土を入れ替えねばならず、その際に〈白幹ノ国〉の土と完全に分断させるための処置が必要になる。

 手間暇に加え、莫大な金額がかかる為に、土を入れ替えてまで庭園をつくろうというものは少ない。この国の数少ない深緑の庭園のひとつと言っても良いだろう。

 そして客間では上座で小説家がひじをついて脇息きょうそくにもたれかかり、足は片膝かたひざを立ててくつろいでいた。かかとまである黒髪が青々とした畳の上に広がり異様な光景を見せている。

「高久軍曹。久々じゃあないか。さあ、座ると良い」

「……失礼いたします」

 高久は畳の上に座り、腿の上に手を置き、頭を下げた。令人は畳に手をつき、頭を下げる。

「堅苦しい挨拶は止してくれ」

 男が座布団に座るように急かしたので、高久と令人は座布団に座った。

「――さて、本宅を使って聞きたい話があると言うんだ。約束通り、僕もご相伴しょうばんに預からせてもらおう」

「勿論です。申し出を受け入れてくださり、感謝いたします」

 高久が頭を下げるのを無視して、男は令人をまじまじと見た。

「へえ……君、聯隊旗手候補でしょう?」

「はい。聯隊旗手を目指しております」

「いいねえ。綺麗な子は好きだよ」

 高久が無言で男を睨むと、男はニヤニヤと高久に目線を移した。そして体を起こすと、胡坐あぐらをかいて背中を伸ばした。純白の着物の襟の下からのぞ紫烏色しうしょく半衿はんえり――この男の酔狂すいきょうだ。己の切れ長の目と薄い唇の妖艶ようえんさを感じる容貌ようぼうを分かって敢えて化生の者に見えるような出で立ちを好んでいる。

 顔にかかった長い髪をかき上げて男は不敵に笑う。

「流石、鬼軍曹。鬼の守り部。そう来なくちゃあねえ。そういう君だから、僕は本宅を使うことを許可したんだよ。さて、申し遅れたね。令人君。僕は志々目鏡一郎しのめきょういちろうと云う。君とお近づきになれたことを心より嬉しく思うよ」

 鏡一郎の満面の笑みを前に高久は警戒の色を隠さなかった。

「――高久軍曹。〈鬼の守り部〉の仮面を外しておくれよ。いくら僕だって、未成年に手を出しやしないさ。僕は綺麗な子が好きなんだよ。君の従兄弟が来ると聞いた時、あの、桐ケ谷大将の子だろう? この子が来ると聞いた時はどんな怖い顔をしているかと思えば、こんな綺麗な子だったとは。僕としてはそれだけでも満足だ」

 鏡一郎は本当に満足しているようだった。

「ところで君、志々目鏡一郎という小説家を知っているか?」

 鏡一郎に問われた令人は答えに困りながらも、言葉を選んだ。

「はい。先生のお名前は、聞いております」

「へえ。名前だけ?」

 鏡一郎が意地の悪い笑みを見せたので高久に睨まれた。鬼の目だ――と鏡一郎は思った。

「まあ、当然だ。君くらいの少年が読む本ではないからね。この間も発禁本はっきんぼんの件で軍に呼び出されたばかりだ」

「え?」

 令人が目を丸くすると高久が苦い顔をした。

(だから、令人を連れて行くのは避けたかったんだ)

「令人君。軍の仕事に、発禁本を音読する任務があるのを知っているかい?」

「いえ。知りません。勉強不足でした」

「――まだ、知らなくて良い」

 高久が語気を強めると鏡一郎は含み笑った。

「令人君。僕は軍人が嫌いだ。だから、発禁本をわざと出して、嫌がらせするんだよ」

 令人はその真意が分かっていないようでぼんやりとしている。その様子が鏡一郎のお気に召してしまったようだった。鏡一郎は饒舌じょうぜつに語り出した。

「小説は世に出す前に一度、軍の検問けんもんが入る。発禁になるとね、その部分を軍人が音読するんだよ」

 鏡一郎は天板の上で長い指をすべらせた。

「僕はね、剛健質朴ごうけんしつぼくな軍人が僕の書いたものを読んで、顔を赤くする様を見るのが好きなんだ。最初は頑張って冷静な声を作って文章を読む男性軍人の声が次第に羞恥しゅうちふるえ、見る見るうちに顔を赤くして泣きそうに目をうるませる――その姿はそそられるものがある」

 令人は困惑した表情を浮かべて高久に救いを求めた。高久は鏡一郎を睨んだまま、更に語気を強めた。

「もういいだろう」

「――君の伯父はその点において、最悪だ。なんせ、無表情で読むのだからね。無表情! 何の反応もない。淡々と何の感情も込めずに文章を読む。僕としてはつまらないし、小説家として心血しんけつそそいだ文章をああも淡々と読まれるのは、矜持きょうじが傷つく。どうしたら彼を赤面させられるか、言葉を磨いたよ。一言一句いちげんいっくまし――片言隻句へんげんせきくおろそかにしない。君の伯父上に刺さる言葉を研ぎ続けたよ。結局、君の伯父上を赤面させることは叶わなかったが、おかげで私の物語は私の思う以上の姿となって世の中に出た。充分に楽しませてもらったよ。軍人は嫌いだが、君の伯父上は好きだ」

 鏡一郎は高久に笑みを向けた。対して高久は眼光鋭い視線を鏡一郎に向けている。

 高久は発禁本の音読をさせられた日々を思い出した。鏡一郎の発禁本を難なく読めるのは高久と羽坂くらいだろう。頼みの羽坂は鏡一郎に「あいつは描写にいちいち文句を言う。編集者を思い出すから嫌だ」と音読から外された為、全て高久が担当することになった。他の軍人は鏡一郎の供述通り、限界を迎えて辞退するのである。

 おかげで口の腐りそうな、達者な文章を延々と読む羽目になった。

 発禁本となる本の問題のある文章だけを読むだけなら左程、時間はかからないが鏡一郎は分かって全部の文章を音読されるように書く。おかげで検問始まって以来、最高の一冊丸ごとを読まされた時は声が枯れたものだ。

 あの時のことを思い出すと高久は一気に疲労感がおそうのを感じていた。一日だ。丸一日を費やしてようやく読み終えた。あれ程疲れる軍務も相当、ない。

 高久の横では意味は分かっていないが、何かすごいことを成し遂げたのだと感動した令人が尊敬に満ちた目で高久を見つめていた。

「でも、僕の本、本当に読んだことない? ああ、別名義で出した『鏡世かがみよ白雪はくせつ』なら子ども向けに出したから、知っているかな――」

 鏡一郎の言葉はそこで途切れた。

 令人が目を輝かせて鏡一郎を見つめていたからだ。目を輝かせて頬を紅潮させる令人は顔の美麗さも相まってより一層、美しさを際立たせていた。

 その表情は鏡一郎の琴線きんせんに触れたようだった。口を開けたまま令人を見つめる鏡一郎に令人は憧れの人を前にした反応を見せている。

「幼い頃に、いえ、今も拝読はいどくしております。雪の描写がとてもこまやかで美しくて……文章を読んでいるだけなのに、まるで雪景色の中にいるようでした。物語の終わりは余韻よいんが残って……ずっと、雪が降り続ける中にひとり、立っているかのようでした。あの美しい、温度までも感じる文章……何度も繰り返し読みました。あの小説は先生の書かれたものだったのですね。あのお話、本当に、好きです」

 鏡一郎はああ、と感嘆の声をあげた。顔をあげて手で覆い、体を震わせて隠すことなく歓喜の声をあげている。

「これだよ! これ! 高久! 君、出来でがしたぞ! 良き甥を持ったな!」

 鏡一郎は目を大きく開き、興奮しながら立ち上がった。そして天板に手をついて身を乗り出した。長い髪が白い着物の上と天板の上を這うように広がった。身を乗り出した鏡一郎から守るように高久が令人の前に出た。

「先生。落ち着いてください」

 お盆を手にした晴彦が客間に入る。そして、鏡一郎に目を向けることなく、天板の上の髪を手で払って布巾で拭くと、高久と令人の前に〈三色旗〉のチーズケーキを並べた。その後で鏡一郎の前にチーズケーキを置くと、それぞれにカップとソーサーを並べた。珈琲の香が室内に満ちる。

「晴彦! この少年、美麗だろう?」

 晴彦は表情を変えないまま、令人を見た。

「はい。美しゅうございます」

 本人を真っ直ぐに見つめ、てらいなく言うものだから、これにはかえって令人の方が赤面してしまった。

「あ、ありがとうございます……」

 その様子を見ていた鏡一郎は力を無くしたようにその場に座り込んだ。鏡一郎が令人から離れたのを黙認した高久は座り直した。

「いや、完璧だ。晴彦よ。君はいい仕事をした。ご褒美にお前の欲しがっていた神原先生の初版本をやろう」

「ありがとうございます」

 晴彦は即座に礼を言った。無表情ながらかなり喜んでいることが声の調子で伺える。その時だった。人のおとずれを告げる鈴の音が客間に響いた。

「先生。客人がお見えになりましたので、連れてまいります」

 晴彦は盆を片手に足早に客間から出て行った。

「――来たか。〈日ノ裏ひのうら〉の闇医師」

嬉しそうな表情を隠さない鏡一郎に高久が不安を見せる。

(やはり、不味かったか)

 鏡一郎の本宅を使わせてもらったのには理由がある。ひとつは余所に漏れたくない話であること、もうひとつは最大の理由として、令人を同席させる以上、〈日ノ裏〉には連れて行けないからだ。

〈日ノ裏〉はかつて大遊郭だいゆうかくと呼ばれた風俗だ。未成年であり、聯隊旗手を目指す人間を、話しを聞く為とは言え、連れて入ってはならぬ場所だ。だが、〈日ノ裏〉で医師を生業なりわいとする者は後ろ暗いことが多く、あまり外に出たがらない。

 だから高久は軍嫌いで有名な鏡一郎を使ったのだ。

 しかし――。

 緊急事態とは言え、村に関わることだ。

 そんな高久の内心を察したのか、鏡一郎は表情を消して言った。

「……安心しろ。〈鬼の守り部〉よ。僕だって線引きは分かっている。いくら小説家とは言え、書いてはならんことの選別は出来ている」

 高久は鏡一郎を低く見たことを恥じ、謝罪した。

「申し訳ない」

「まあ、発禁本を何冊も読めば無理からぬことか」

 高久の鋭い視線に鏡一郎はやはり嬉しそうに笑むのである。

「先生。お連れしました」

〈日ノ裏〉の闇医師は齢五十の男性だった。洋装に身を包んだ男性は立派な口髭くちひげたくわえている。見目だけなら優しそうな町医者だ。医者は畳の上で正座すると姿勢を正して三人を順番に見た。

「ああ、志々目先生に、高久軍曹殿。そして――甥の桐ケ谷令人さんですね。私は幸間松次郎こうままつじろうと申します」

 どうぞお見知り置きを――と頭を下げる幸間に鏡一郎が高久を見た。

「さあ。僕はいないものとして話してくれたまえ。そして、幸間よ。僕は小説家であるが、あなたの不利益になることは書くことはない。ここに約束しよう」

「勿論でございます。志々目先生。私はあなただからこそ、ここに来ました。……高久軍曹殿。あなたがお聞きしたいこととは何でしょうか」

「――私の村のことです。甥である桐ケ谷令人の兄の消息を探しています」

 途端、幸間は顔色を変えた。

「……成る程。そういうことですか。そういうことならば、私は協力することは出来ません」

 幸間は立ち上がった。その後ろで丁度、お盆を手にした晴彦が立ち止まったところだった。

御帰おかえりですか?」

 春彦に問われて医者は帽子を被り、頷いた。

「ああ。嘘を吐かれて気分が悪い。帰らせてもらおう」

 言葉とは裏腹に穏やかに聞こえる声に流石さすがの春彦が戸惑いの表情を見せている。早々に立ち去ろうとした幸間を高久が呼び止める。

「先生! もう、時間がないのです!」

 高久が思わず、声をあげる。高久の焦りに鏡一郎は令人に目線を移した。令人は静かにその場に座り、幸間を真っ直ぐに見つめている。その目に満ちる覚悟を見た鏡一郎は思わず、息を呑んだ。

(ああ、そういうことか)

 一人納得した鏡一郎はそれでも口を出すことをしなかった。約束は約束だ。理解出来ぬものであろうとも、口を出さないことに決めたのだ。

「――私は、狂った村に協力する気など毛頭ない!」

 幸間が声を荒げる。その目には怒りをたたえていた。

「高久さん」

 令人の声変わり前の柔らかな声が静かになった部屋に響く。

「令人……」

「構いません。幸間さん」

 令人は座布団から降りて、幸間に向き合うように座った。

「今日は遠い所から来てくださり、ありがとうございます。不躾な願いではありますが、兄に伝言をお願いできないでしょうか」

 幸間は無言で令人を見おろしていた。

「村に戻るも戻らぬもあなたの自由です。私は村に残ります。それだけでも伝えて頂けないでしょうか」

 令人は手をついて、深々と頭を下げた。

「お願いいたします」

 幸間は令人を前に明らかに狼狽していた。思っていた反応とは違う――そんな表情を浮かべて気まずそうに俯いている。

「何故……」

「幸間様。あなたのおっしゃることは当然のことです。私達の村は……余所様から見れば、狂った村にしか見えないでしょう。それで良いのです。批判される理由は分かっておりますから」

 令人は頭を下げたまま幸間に言った。その令人の背中に高久が手を置いた。

「令人。頭を上げてくれ」

「高久さん……」

「子どものお前に言わせることではない。本当なら、私が言わなきゃならないことだった。申し訳ない……」

「でも」

 高久は首を振って令人に頭を下げるのを止めさせると、立ち上がり、幸間の前で腰を下ろし、正座した。そして手をついて頭を下げた。

「幸間さん。先ずは嘘を吐いて、あなたを呼び出したことを謝罪させてください。大変申し訳ありませんでした」

 高久は額が畳につく程に頭を下げた。

「……私達の住む村は、御存ごぞんじの通り、〈秘級ひきゅう〉に位置する危険な村です。双子の片割れを間引く因習いんしゅうの残る、古い村です。……ですが、ここ二百年、双子の片割れを間引く因習はなくなりました。私と、亡くなった妹が〈白幹ノ国〉で軍人として生きていたことがなによりの証拠です」

 幸間の目が見開かれた。頭を下げたまま高久は続ける。

「私の村の産土神様は、二百年、にえを受け入れていません。私達も差し出していません。その代わり、神の手を完全に離れる十四までに村を出て行くことにしているのです。村を出て行った後は、どちらか片方が死ぬまで村に帰れません。天寿てんじゅまっとうして二度と村に帰らないことが私達の村にとって、ほまれでありました」

 高久は息を吐いた。


 ――死んで帰ろう。私達の村に。


 妹の言葉を振り切るように高久は続けた。

「ここまで話を聞いた通り、我が村は双子が生まれやすい土地です。年間に少なくとも一組は生まれます。そして、このことから分かるように年に一回は少なくとも、双子は村から離れます。互いに村を離れるのです。確かに二人そろって出て行ったことが分かるように、二人揃っていなければならないのです」

 幸間は令人に目線を移した。俯いた少年は高久の背中を見つめている。

「……令人は、双子の弟です。兄である桐ケ谷史人は二年前に村を出て行き、現在、行方不明です。令人は今、十三歳です。後、半年も経てば、十四になります。もう……時間がないのです。どうか……どうか協力して頂けないでしょうか。大事な……甥なんです……」

 幸間は目を閉じて、帽子を取った。そして長い沈黙の後で、ようやく口を開いた。

「高久軍曹。頭を上げてくれ」

 高久はしばらくしてからゆっくりと頭を上げた。目の間には幸間が正座して自分を見つめていた。

「赦せ。知らなかったこととは言え、私が口に出すことではなかった」

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