鬼の守り部
白原 糸
鬼の守り部
序章 ペトリコール
序章 ペトリコール
吹き抜ける風に雨の
執務室の椅子に腰かけていた
息を吐いて、吸う。当たり前の行為を意識しながら何度か繰り返して、高久はようやく、顔を上げた。
開け放たれた窓から土と草木の濡れた、雨の匂いがする。雨の匂いをかき消すように高久は椅子から立ち上がると窓を閉めた。雨は
耳にへばりつくような、静寂にも似た激しい雨の音に気怠さを感じながら高久は軍服の上着を脱いで椅子の背もたれに掛けると腕を
バケツと雑巾を片手に戻った高久は窓の外を見た。雨に濡れた硝子の向こうで、遠雷が見える。遠雷を横目に
高久は雨の匂いが嫌いだった。
土と草木のむせ返るような匂い。それは思い出したくもない、だけど忘れてはならない過去を呼び起こす匂いだからだ。
床を拭き終えた高久は道具全てを片付けてから、給湯室で石鹸を手に取り手を洗った。給湯室の小さな窓から見える街並みは
執務室に戻った高久は椅子の背もたれに深くもたれかかると、天井を見上げた。
そうして静かに目を閉じた。
高久匡は人口千人に満たない村で双子として生まれた。
男と女の双子の誕生に高久家の人間は大層、喜び、涙を流した。しかし、高久の村では双子は忌むべきものとして伝えられていた。
高久の村の
間引く。それは殺すこと。双子がもたらす災いによって家が断絶しないようにとの願いを込めて、どちらかはあの世に送り出される。
その為、どちらが残っても良いように双子として生まれた子には漢字が違いながらも、同じ呼び名を与えられた。
高久匡。そして妹の名前もまた、高久
ただす、の同じ呼び名を与えられた双子は、周囲の愛情を受けて伸び伸びと育てられた。そうして下に弟が二人、妹が三人生まれ、賑やかな家で匡と糺は育った。それでも、七つを越えて十四になる頃、どちらかは間引かれることが決まっていた。
――この村を出て行こう。
二人の答えはとうの昔に決まっていた。
どちらか欠けてはならない。そして、自分を殺すその刃を家族に、生まれ育った村の人に持たせてはならない。
高久家は長子である父が軍人の道を選んだ為に三男が跡を継いだ。
父が軍人であることが二人のその後を決めたと言っても良い。匡と糺の父は二人が十三になる前に戦死しているのだが、父の階級から幸いにも軍から多額の援助と補償を頂いていた。父が軍人である為、その子どもは学費が免除される。加えて父の残した家もある。となれば答えはとうに決まっていた。
――軍人として生きる。それが二人の決めた道行だった。
十四を迎える五日前の夜、二人は村を出ることにした。
住み慣れた家を出る時、胸が締め付けられる痛みと共に諦めにも似た感情が広がっていくような、不思議な感覚を味わった。
妹を見ると、糺もまた、同じ感情だったのだろう。仕方ない、という表情を見せて笑んでみせた。その顔が自分とそっくりだったことに匡は不思議な感情を抱きながらも同じく、笑んでみせた。その時の顔は互いにそっくりだったと思う。
「行こうか」
匡が口だけでそう言うと、糺は頷いた。
村を出て〈
立ち止まることなく、匡は糺と共に山道を歩き始めた。僅かな月明かりを頼りに山道を歩き、山頂近くの道に差し掛かる頃、耳を
振り返ると、遙か下の方に生まれ育った村が見えた。点々としたほんのりと淡い朱色の灯りが増え始め、朱色の灯りが村を覆う頃、歌声が聞こえた。朗々とした力強い歌声だった。
――今は遙かな
夜の
君が為に
別れの時よ 今こそは
君に言葉を告げるまい
さらば
今宵交わすは
生きよ生きよ
君よ生きよ
今ぞ願いの火を灯せ
朱に染まる我が村を
どうか忘れてくれるなよ
帰ることなく生きてくれ
言葉交わせぬ別れを
今は遙かな全天の
夜の静寂に浮かぶ歌
――胸が締め付けられる声だった。
泣きながらも、声を張り上げて歌を歌う。
小さい頃から何度も見て、聞いてきた光景だった。
これは別れの歌だ。
そして。
「兄さん。行こう」
糺の声に我に返った匡は頷き、村に背を向けて歩き始めた。
双子が生まれることを忌みながら、年間に生まれる双子は二組とも言われる村で、匡と糺は育った。双子はある年頃を境に間引かれると言われるが、実はこっそりと逃がしていたと伝えられている。
ある年頃になると双子は村を出る。誰にも告げることなく、他の村で生きることを選ぶことになる。そのことを村の人々も容認しており、双子が山道に入ったことを合図に村に灯りを灯し始め、祭を始めるのである。
それは最後の別れを告げる為の儀式でもあった。
歩きながら、匡と糺は終始、無言だった。無言で歩き続ける二人の頬は涙に濡れていたが、二人は涙を拭うことなく、黙々と歩き続けた。
伸び伸びと育った村にはもう、帰れない。帰らないことが村人の願いでもあり、それは生きて欲しいという心からの願いだった。
誰もが知っているから、こっそりと村を出る。本当なら命を奪われ死にゆく風習に抗う村人の、優しさだった。
そして、村の産土神様もまた、その優しさをもって黙認してくださっていることを、村人も、出て行った双子も知っている。
そのことを理解するものは少なく、理解出来るものは村の外の人には居ない。
――酷い村だ。
そう言われても、言い返すことはしない。
説明しても分かるものではないからだ。匡と糺は村を愛していた。深く、深く、愛していた。愛していたからこそ、村を出た。もう二度と、帰らないことを願っていた。
――死にゆく時はその骨を異郷の地に。
年老いて、異郷の地に骨を
――激しい雨の音はまだ、続いている。
高久はゆっくりと目を開けた。
「……
妹の名を呼ぶ。
もう、返事をすることのない妹の名を、もう一度呼ぶ。十年前、糺は死んだ。
この国の帝であるまほら様を守り、死んだのだ。
純白の御姿を持つ
この国全ての産土神様の橋渡しとなるこの国の、皇。
糺はその命を以て、まほら様を殺そうとしていた人から、まほら様を守り、死んだ。
石畳に流れる血が、激しく降る雨に流されても、白い軍服の血の色が鮮明なままだったことを今でもはっきりと覚えている。
その時の、雨の匂いも、はっきりと。
だから、雨は嫌いだ。
雨の匂いがあの日を呼び起こす。
「……ペトリコールだ」
自分が死にゆくのに、呑気で雨の匂いの名称を呟き笑んだ、糺の顔を思い出してしまう。
自分と同じ顔。
同じ名前を与えられた、この世において唯一の理解者。
愛する者を残して、この世から去っていった、この世においてただ一人の、家族。
最期に笑んで、ごめんと笑って死んだ、糺の表情を雨の匂いひとつで鮮明に思い出す。
――生きなければ、ならなかったのに。
生きて、帰らざる故郷を思い、年老いていかねばならなかったのに。
あの日から、雨は嫌いだ。
あれから十年。高久は三十一になった。軍曹の階級を維持したまま、新人少尉の教育教官と補佐役の軍務を十年に渡って務め続けた。
階級を上げる打診は度々あったが、高久は軍曹にこだわり続け、新人少尉の教育係の軍務を今日まで行っていくこととなる。
――生きろ。
軍曹の手を離れる少尉に送る最後の言葉はいつも、生きろ、だった。
それは高久糺少尉の弔いでもあると伝えられている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます