第17話
***
最初に見えたのは、曇天の中に歪に顔を覗かせた、異様な色をした空だった。
遅れて、硬く冷たい氷の感触が背中越しに伝わってくる。
生存圏の外にいる時に特有の息が詰まるような負荷は感じない。
身を起こすと、周囲の景色も分かるようになる。見渡す限り広がる、雪ではなく氷の世界。たちの悪い出来物でも潰した後のように、抉れ、膨れ、不気味な凹凸を形成する氷面。何かの爆風にでも煽られたかのように、一方向に揃って倒れる木々と朽ちた建物。
そう言えば、と思って自分の身体に目を移すと、その体が淡い光を纏っているのに気が付いた。その淡い光は氷の大地にも染み出すように広がり、そのままどこか馴染みのある幾何学模様を形成し。
そこまで理解したところで、安堵したかのように大きく息を吐く音がして、ナナはゆっくりとそちらを振り返る。
魔女がいた。銀髪の。傷だらけで、至る所から血を滲ませ。そして、ナナの手を血の滲んだ両手で握りしめて呆けたようにこちらを見つめる、アストラエアが。
「……どういうことだ、これ」
よく見ると、二人の周囲には囲うようにして見慣れた「ペグ」が刺されている。
一拍おいて、アストラエアの答えがあった。
「……いったん、死んだんだよ。君は」
ナナの手を覆っていた暖かい両手が離される。
その言葉にナナは首を捻る、ことは無かった。ああ、なるほど、そうなんだな、と。自然に納得した。そうか、俺は死んでいたのか、と。
「けど……ね。君は私の契約者……だからね。魔女である私が、命を……直接操作して、蘇生と……治療をしたんだよ」
その頬を、水滴が伝う。今度は、溶けた雪ではなかった。その冷たい水滴は、まぎれもなくその青みがかった瞳をした目の、その目尻から流れ落ちている。
「契約者だからこそ……できる、荒業なんだけど……ね」
つくづく魔女というのはとんでもないものだ、とナナは他人事のように思って。
「助かったよ。ありがとう」
そのナナの言葉に、アストラエアは力なく首を横に振る。
「そういや、あいつは?六分儀の魔女」
「ああ……。たぶん……死んだんじゃない……かな」
俺が覚えている限りでは拮抗していたけどどうやって決着をつけたのだろうか、とナナはいまだにふわふわとした寝起きのような頭で考えて。俺が死んだことに対して怒ってくれたせいだったらいいな、とそんな柄でもないことを考えて。
「ねえ……どうすればいいと思う」
唐突に掛けられたその言葉に、はじめは第八位を撃破した、いや、殺したことについて言っているのかとナナは思った。魔女であっても、やはり人を殺めるというのは楽な物ではないのか、と。ただ、それが見当違いであったことはすぐに分かった。
「私は……ねえ、どうすればいい?私は……何のためにここまできたのかな」
尋ねかけている先は、ナナではない。かといって、自問するといった様子でもない。
「私は……なんのために生きてきたの?私はこれから……何のために生きればいいの?」
次第に、早口になり、呼吸も荒く。その両目の焦点はもはやナナには合わせられていない。せわしなく動く焦点の合わないその目が追い求めるのは、居もしない神か、今はいない誰かか。
「――――――――――――」
その言葉が、もはや聞き取ることすら叶わない、切れ目のない早口の呟きになり。
涙すらも乾いた、その光の無い瞳が虚空のどこかを見つめて。
流石に危ないのは、ナナにも分かった。
「落ち着け。いったん、おちつけ。アストラエア!」
どうすればいいかなど、ナナには分かる訳もない。それでもとにかく、なけなしの知識と経験を振り絞って、赤子をなだめるように、その肩に両手を置き、まっすぐその目を見つめる。
「俺はここにいる。まずは、俺の目を見ろ」
むりやり、虚ろなその目の焦点に無理やり割り込む様にして。
「深呼吸だ。いいか、ゆっくりだぞ。吸って――吐く。吸って――吐く」
一応の成果はあったのか、まずは呼吸が落ち着く。
浅く過呼吸気味だった息が少しずつゆっくりになり、通常のそれへと近づく。それに従い、どこか遠くを見つめていた焦点の合わない目も、次第に焦点を結び、ナナとその目が合う。
「落ち着いたか?」
こくり、と。まるで幼い子供のように、銀髪の魔女が頷く。
「よし」
ひょっとしたら、ここでいったん話題を逸らすべきだったのかもしれない。時間をおいて、ほとぼりが冷めたと思われるタイミングまで意識させないようにするべきだったのかもしれない。けれど、当然ナナにそんな知識は無く。
「どうしたんだ、急に」
結論から言えば、それで正しかったのかもしれない。落ち着いたとはいえ、未だ心ここにあらずといった様のアストラエアが、それ意識しないというのは土台無理な話だっただろうから。
「……君は、私がこの前言ったことを……覚えているかい」
取り乱しても、放心状態であろうと、腐っても魔女なのだろう。話し始めた内容は、先ほどまでの取り乱し加減や、未だ抜けきらぬ呆然自失な様にもかかわらず、論理立っていた。
「この前言ったことって、どれだ?」
「アカシアを……アカシアの……目を覚ます方法についてだよ」
「まあ、何となくは」
話し始めたアストラエアは、ぺたんと冷たく鋭い氷の上に座り、その手も力なく体の脇に投げ出されている。
「……君は、あの工房で……生まれたんだろう?」
「そうだけど」
「薄々分かってるとは思うけどね……アカシアも……あそこの生まれなんだよ」
アストラエアの首が、落ちるようにして上を向く。見上げるというよりは、ゼンマイの切れたカラクリ人形が頭の重さを支えきれなくなったかのように。
「あぁ、……これもやっぱり縁ってものなのかな。それとも……そういう風に……この世界ってのはできてるのかな」
「……?」
「その場で気づかなかった私は……なんて愚かなんだろうね。ほんとうに気づいてなかったのか………それとも意味もなく目をそらしていただけなのか」
上を向いていた首が戻って来るが、まっすぐナナの方を向くことは無く、首の座っていない幼児のように今度は横へと倒れる。目尻に溜まっていた澄んだ液体が、その拍子に零れ出て、顔を伝って、空の色を映した禍々しい色の氷の上へと落ちる。
「………………君の命は………ほんの少しだけど、彼女の命で……彼女の命を形作っていた生命力でできてたんだよ」
「俺の命が?」
「そう。さっき、君の命を……直に操作して治療と……再生をした時にね、見つけちゃったんだよ。彼女の……彼女の「取っ手」のついていた生命力を……ね。「取っ手」のついた生命力は……同じ工房で使いまわす。そういえば……そんなことも言ってたね」
ようやく、ナナの理解が追い付く。
「え……、ってことは」
そう。当然、必要な部品が他の所で使われていれば、部品が欠けたアカシアの命は完成しない。部品、すなわち材料となる生命力が全く同じことを含めて、初めて命の再構築は、アカシアを生き返らせることは、可能となる。部品が欠けていて、代用品も存在しえないのならば、導き出される結論は明らか。
理解が追い付くと同時に、どうすればアストラエアの言う問題を解決できるのかも分かる。
ほんの少しだけ逡巡して。
きっと、ナナから言うべきことなのだろうと口を開く。
「なら」
自分で選んだ存在意義のためなら、別に悔いなどない。
むしろ、本望ともいえる。ここで死ぬことに意味が、価値があるのなら、それはすなわちナナの命の意味、そして価値ともいえる。派閥規模だと一山いくらの連絡員の命が、第四位の魔女を救うだけの価値を持てるのだ。値上がり幅としては十分すぎるくらいだろう。
「俺を殺せばいい。悪い魔女らしいじゃないか。最後に仲間の命をもって、その願いを成就させる。俺は共犯者として、喜んでその役を果たすさ」
そう言って、ナナの方を力なく向いたその目に、ナナは小さく口角を上げ。
「……ははっ」
アストラエアは力無い表情で乾いた笑い声を立てた。
「それで済むのなら…………とっくに殺してるよ」
虚ろだったその目が、再びなにか意思を宿す。
「生命力の再利用の段階で、取っ手は「着け直」される。つまり、その生命力の性質が書き換えられるんだよ」
首が座っていないかのように傾いていた頭も、首の上に真っ直ぐ据えられる。
「とんだ道化だよ。連合王国が何で私を取り込めると踏んだのか?簡単だよ。私のやってることに意味なんかなかったからだよ。どのみち理由を失う事が分かってたからだよ。全部知ってたんだよ。彼女を作ったのも君を作ったのも連合王国だ。分からないはずがないんだよ」
茫然自失であった先ほどまでに比べれば、改善とも取れるのかもしれない。ただ、ナナにはその変化を素直に喜ぶことはできなかった。その目に浮かぶ感情は、一体何か。
「つまりね。もう、アカシアを形作っていた生命力はこの世には無いんだよ。君を殺したところで、得られるのは君を形作っていた生命力。アカシアの命を形作っていた時とは、別の性質を持ってしまっているのさ」
泣き喚くでも、しゃくり上げるでもなく、淡々と話しながら。
両目から、栓の抜けた水道管のように、透明の冷え切った液体を流し続ける。
その目に暗い光が宿ったところで、ナナは気が付く。これは、まずいと。
「そうだよ。アカシアはもう戻ってこないんだよ。どう足掻いたって、第一位になったって、太陽系を消し去ったって、あと何百億年待ったって!」
ふらりと。座った両目とは裏腹におぼつかない足取りで立ち上がる銀髪の魔女。
その言葉は、もはやナナには向けられていない。誰に向けられたわけでもない。ただただ、抱え込んで、頭の中に入りきらなくなった感情が溢れ出ているだけ。
「神様、あんたは私を嘲笑ってるのかい。取り返せないはずの物を取り戻そうとして、この世界の摂理に抗おうとして、人間の掌の上で道化みたく踊って、無様に敗れた私を」
こうなっては、今度こそは、ナナにアストラエアを宥めることは叶わない。もはや、その眼中にナナなどは無いだろう。
「なあ、なんでこの世界まで、アカシアを締め出そうとするのかな?」
飛び散った涙が、空中で氷になり、これまた空の光を反射して異様な色に煌めく。
気持ち悪い異様な色をした空を見上げるその目には、何が映っているのか。
「私は、何のために今まで生きてきたのかな。何のために、400年以上の時間を生きる苦痛に耐えてきたのかな何のために悪い魔女に成ったのかな」
何かが、外れた。
「私のこの四百年は何だったのかな今まで私がしてきたことは全部無駄だったのかな私は何のために生きてきたのかななんのために生きればいいのかな私はただアカシアに会いたいだけなのにこの世界は私からアカシアを奪って中途半端な希望だけ残してそれでさんざん期待させてからその希望を踏みにじりに来るのは一体私がなにをしたって別にこの世の全てを手に入れたいわけじゃないまたアカシアと会うそのためなら私の命だっていくつだって差し出してやるどんな責め苦だってうけてやるそのくせこんなろくでもない道だけこれみよがしに出しやがってそれで縋りついたらなんだ天罰かふざけるんじゃないじゃあわたしにこれからどういろっていうんだあかしあのためにてにいれたこのさいげんないいのちをどうすればいいんだよいままでそのためにはらってきたものはぜんぶはらいったいみもなかったっていうのなにもあかしあのためにはなってなかったのただできもしないありもしないかのうせいにしがみついてかってにおどってじこまんぞくしてただけなのじゃあわたしはどうすればかのじょのためになにかができるわたしはどこでまちがえたのこれいがいのやりかたがあったっていうのわたしはわたしでやれるだけのことはやったでしょさいぜんのいちばんじぶんであがなえるほうほうをえらんだでしょだったらなんだってこのせかいはそれでもあかしあをきょひするのあのこがなにかわるいことをしたのわたしのたいせつなひとだからあかしあはわるいのだったらわたしはあかしあとはなせなくたっていいあかしあにきづいてもらえなくたっていいあかしあのかおをあかしあがもういっかいわらってるのをみれればそれでしんだっていいなのになんでみんなしてあのこを―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!」
最後はほとんど咆哮だった。
当たり前なのかもしれない。
アカシアは、既に死んでいる。そして、死という物はそういう物なのだと。
受け入れるべきだったのかもしれない。
けれど、そもそも生き返らせようと望むこと自体、死という物を受け入れていないという事に違いない。それを400年以上抱え続け、そのためだけに400年以上生きてきて、そのすべてを捧げつくして。それが今更、急に受け入れられる訳も無かった。
連合王国が一つ読み違えていたとしたら、魔女という化け物については読めても、アストラエアと言う人間については知らなかった事か。
「―――――――――――――!」
アストラエアが何か叫ぶが、聞き取れない。ナナの知る言語ではないのかもしれないし、そもそも言語ですらないのかもしれない。
その目が、未だかつて見たことないほど眩く、青い光を湛える。
処理しきれなくなった感情の行き着く先は、ここ。
「これでいいんだよ、もう」
呟くような声と、詠唱。それだけは、はっきり聞こえた。
「DISTORT SYSTEM. IDENTIFICATION CODE LETTER. DISTORTION PATTERN SALUTE」
その手に持った、赤い蝋で封のされた黄ばんだ封筒を、両手で引き裂き。
中から現れた何かが眩い光を放ち。
「この一手をもって、我が希望の嚆矢とせん!我が血と肉をもって壮麗なる号砲を!」
絶望に飲み込まれた魔女の最後の一撃というには、あまりにも皮肉な詠唱で。
その瞬間、全生存圏の四分の三がその全機能を喪失した。
自由連盟のとある生存圏で発生した大規模な地脈変動を皮切りに、各地の生存圏の「アララトの円匙」が呼応するように本来の機能にはない地脈への過干渉を起こし。
正確な計算により設計されたその余波は互いに強め合いながら地球全体へと広がり、地球を、そして宇宙を満たす地脈龍脈を、約千年前の自由浮遊惑星の通過に匹敵する力で揺さぶった。
不完全とはいえ、人類を滅ぼすレベルの災害を引き起こす術式が発動された結果。
一連の大災害において、被災者は全人類の9割以上にも及び。
死者・行方不明者は実に人類全人口の三分の一に迫るものであった。
そして、その術式が発動された「爆心地」にて。
ふらり、とよろめく人影があった。
周囲に設置された「ペグ」の展開する生存圏は、他の生存圏と同様にその機能を失っている。
魔女という物は、人並み以上に乱れた地脈への耐性は薄い。
まして、そこは絶え間ない神格術式の応酬の後に、宇宙規模の地脈龍脈の変動を起こすための神格術式が使われた場所。地脈など、この地球上のどこよりも無茶苦茶になっているはず。
その手をとってくれるはずの存在は、先ほどの術式の影響を受けて氷の上に倒れ込む様にして横たわっている。意識がないとはいえ、その手を取れば難は逃れられるだろうが、長い銀髪を、自らの血で血濡れた銀髪を風に靡かせる封書の魔女はそうしなかった。
そのまま、力が入らず震える脚でその場に立ち続け。
そして、ある瞬間。板が倒れるようにして後ろ向きに倒れた。
その薄い胸は、もう動かない。心臓も、止まった。
周囲に滲むのは、くすんだ赤。
その日。間違いなく、封書の魔女アストラエアは、死んだ。
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