第14話
***
薄明。空がかすかに明るくなり、夜の闇が去り始めたころ。
半壊した城壁の隙間から、その外へ出る二つの人影があった。
封書の魔女ことアストラエアと、その契約者のナナ。
城壁の間から覗く生存圏の街並みは倒壊している建物こそないものの、その窓から漏れる温かい光は無く、ところどころで蝋燭のような小さな明かりが揺らめくだけ。そして、その中心でその威厳を存分に示していた城、もとい辺境伯の屋敷は、跡形もない。
瓦礫、としか形容のしようのない、もともとは屋敷だった何かがその跡地を覆い、一晩経った今でも時折それが崩れ落ちる音が響く。
生存圏が落ちた余波で地脈が乱れ、転移魔術が使えない中での夜間の出立を避けて、機能を失った生存圏で一晩を凌いだ二人だったが、勝利を喜ぶという雰囲気ではない。むしろその逆。もちろん、昨夜の一件について勝者を決めるのならば、アストラエアで違いないだろう。ただ、二人の間に言葉はない。黙ったまま、ただ手を繋いで、深く積もった雪の上を歩いて行く。
先に沈黙を破ったのはナナだった。
歩みを止めず、前を向いたまま、傍らのアストラエアに尋ねる。
「よかったのか、あれで」
返事は無かった。
「どういう算段だったのかまでは知らないけど、少なくともこうするつもりで来たわけじゃないんだろう」
無言。
ナナは少し逡巡して。
「お荷物だったか?」
この言葉が、アストラエアにどう作用するのかは分からない。けれど、昨夜の謁見の間で、アストラエアがナナに被害が及ぶことを恐れた結果の行動があれだという事は、ナナにも何となく分かった。フロストレインで、手加減くらいはできる、と言っていた魔女が、愛用の霊装を取り上げられたくらいであれしか打つ手がなくなるとは到底思えない。
黙りこくったアストラエアの感情が、どう転がるかは、賭け。
果たして、銀髪の魔女はついにその口を開いた。
「あれでよかったのかと言えば、よかったんだよ。半年もあそこにいれば、惑星配列が変わって四百年以上待った機会を逸する。連合王国とだってどうせ手を組む気はないし、何ならちょうどいい牽制になる。なにより、いずれ世界を滅ぼそうっていう悪い魔女が生存圏一つ落とすことくらい別にどうってことない」
そこで一旦言葉を区切り。
「君だって、契約を結んだ私には守る義務がある。こちらから頼んでおいてお荷物なんて、そんな事は言わないさ。……けどね」
「けど?」
「やっぱり私は君をここには縛れないよ」
そう言ったアストラエアは足を止め。
「秘密を知る共犯者なんだから、悪い魔女にずっとついて来い、みたいな事を言った気もするけどね。撤回するよ。君の好きにするといい」
ナナの方を向くと力無く笑う。それを見て。
「それは遠回しにさようならっていってるのか?」
答えるナナの声は落ち着いていた。そうであれば、甘んじて従うとでも言うように。
恐らく、ナナはここで多少声を荒げてもよかったはず。そちらから巻き込んでおいてどういうことか、と。ただ、そのような発想はナナには無かった。備わっていなかった。
それを、知ってか知らずか。
「別にそういうつもりでは……いや、そうかもね」
虚空から箒を取り出したアストラエアは、膝ほどの高さに浮いたそれにベンチに腰掛けるようにして座り、当然手を繋いだナナも引っ張られるようにしてそれに腰掛ける。
「私は馬鹿だったんだよ。500年弱。歳をとったつもりも老いたつもりも無かったけど、気づかなかっただけで耄碌していたのかもね」
恐らく、アストラエアは肯定も否定も望んでいない。それはナナにも分かった。
「君は私の事をどう思ってる?この悪い魔女の事を。たった一人の旧友ために、数万人が暮らす生存圏を躊躇なく落として、挙句の果てにこの世界を滅ぼそうとする悪い魔女の事を」
どう答えればよいのか。戸惑うナナをよそに、アストラエアは言葉を続ける。
「きっと、世間一般の目には狂ってると映るんだろうね。そして、きっとその異常性は「魔女だから」の一言で説明されるんだよ。常人には想像もつかない高みにいるから。神格術式を手にして、より神に近づいた存在だから。寿命を捨て、人として生きる道を捨て、人里離れて暮らす魔女だから」
そこまで聞いて、ナナも気づいた。
アストラエアは答えなど求めてはいない。ただ、黙って聞いてやるのが正解なのだろう。
「そうだったら、どれだけ楽だっただろうね。異常性で全てが説明できて、全て納得できるなら。そこまで吹っ切れて、自らに忠実に動けたら。そんな完璧な魔女だったら」
銀色の髪についていた雪が体温で解け、雫がその顔をゆっくりと伝う。
「彼女とまた会うことだけを考えれば、こうやって隠れてこそこそとする必要はないんだ。今回みたいに、派閥の対立を隠れ蓑にして動く必要も。いっそ世界の何分の一かを、私の物にしてしまえば。そうすれば術式構築上での制約も少なくなるし、惑星配列とかのどうしようもない条件の制約も緩くなる。なにより、魔女っていうのはそれくらいならできてしまうんだよ」
その雫がアストラエアの上着の上に落ち、すぐに小さな氷となる。
「でも私は、こうやってひっそりとやることを選んだ。いや、あちらを選べなかっただけか。きっと、そんなことをしたら目を覚ました彼女に怒られるからね。それに、彼女と再会したいというのは私の望みで合って、いわば私の我儘なんだよ。その責任については、対価については、私がこの背中で背負えるだけは背負う義務がある」
黙って聞いていたナナが尋ねるべきか迷って、しかし尋ねなかった疑問は、アストラエアも予想していたところなのだろう。
続けるアストラエアのその視線が落ちるのは、雪の上に投げ出された細い脚のつま先、その更に少し先のあたり。
「結局この世界を滅ぼすことになってしまったのは、それが結局は彼女ともう一度会うためには避けられない事だからだよ。私一人のちっぽけな背中では、人ひとり取り戻すだけの対価は背負いきれなかった。どうしても、他の人たちに、この世界に、負わせることになる。結局、私は中途半端な魔女だからね。ここで躊躇はしなかったし、いまもしていない」
ぱらぱらと。降り始めた雪が、箒に、肩に、そしてその雪のような銀色の髪に、僅かにだが積もり始める。
「けど。中途半端な魔女には対価は背負いきれなかったけど。その責任くらいは、私が背負うべきなんだよ。これが私の我儘だからこそ、対価を背負いきれないほどの我儘だからこそ、責任は私が背負いきらなきゃいけないんだ」
小さくため息でもついたのか、肩が動いて積もっていた雪が地面に落ちる。
「やっぱり私は馬鹿なんだよ。アカシア以来だれとも契約はしてこなかったのに。協力者なんて一人も作ったことは無かったのに」
ようやく視線を上げ、力なく雪の降る鉛色の空を見上げながら、呟くアストラエア。
「どうして、雪の中で死にかけた君を見て。聖域に迷い込んだ君を見て。せっかくだし手伝ってもらおうなんて思ってしまったんだろうね。契約を結んで、相方になってもらおうなんて」
自問しつつも、答えの半分はアストラエアも分かっている。久方ぶりに見た、ホムンクルス。人払いの術式のあるはずの聖域に迷い込んだそれをそのまま見捨てる気になれなかったのは、その姿がアカシアに重なってしまったせいだろう。雪の中で、眠りについたアカシアに。
そこで、助けるだけに留めなかったのについては、アストラエアにも分からない。馬鹿であったとしか言いようがない。
ほとんど聖域に籠りっぱなしで何百年もの時を過ごし、耄碌していたのか。
「世界を滅ぼす悪い魔女。この称号を、世界の敵としての、悪者としての称号を得るのは私だけで十分なんだよ。それは私が負うべき責任なんだ。悪い魔女の契約者。悪い魔女の仲間。そんな重荷を、アカシアを取り戻すための責任を、君に負わせちゃいけなかったんだ」
上を向いた顔に雪が積もり、体温で溶けてその頬を流れ落ちるが、気にする素振りはない。
「君が「魔女の仲間」として、命を狙われる側に立って。それで初めて気が付くんだから、都合のいい話だよね。共犯者なんて言っておいて、それで気づかないふりをしてるんだから。気づきたくない事には、気づかない振りを続けて。魔女なんて言ってるけど、中途半端な私ではそんなものさ」
そこまで言って、ようやくその顔がナナの方を向く。相変わらず、力ない笑みを浮かべて。
「今ならきっとまだ間に合う。すべて私の、悪い魔女のやった事。君はその被害者でいられる。悪い魔女の仲間に、悪者に、世界の敵に、ならなくても済む」
きっと、アストラエアは本当にそれを望んでいるのだろう。建前や、言い繕いではなく、心の底から。ナナに、悪い魔女の我儘の責任を負わせないために。
「だから、君はここで私から逃げたらいいよ。エーベルト辺境伯領は落ちたけど、生存圏として最低限の機能を、人が生きられるだけの状態を取り戻すまでの時間を稼ぐ手段は備わってるはず。もとから十年に一度くらいは落ちるものだからね。あの場で君は何もしていないし、君の「実家」だって手を貸してくれるだろう。悪い魔女は、孤独でいるべきなんだよ」
薄い色の唇が、震えるように言葉を紡ぎ続ける。
「フロストレインで言っていた戦争のことなら、私がなんとかするよ。魔女が連合王国でも自由連盟でもない第三の陣営として盤面に出れば、自由連盟も運送員と連絡員で殺し合いを指せている場合じゃない。生存圏の外って言うのは魔女の独壇場なんだから」
当然、アストラエアの思いをナナがすべて理解できるわけはない。ホムンクルスと魔女という違い以前に、人と人との関係という物はそういう物。ナナが何となくわかったと思っているアストラエアの言い分だって、恐らくは半分も理解できてはいないのだろう。
それを分かった上で、何だそんな事かと。そう心の中で呟いたナナは口を開き。
「まず、そもそもここから一人でどうやって聖域まで帰る気だ?転移魔術も無理、あんたが一人で外を移動するための霊装もない。まさか自分で落とした生存圏に助けを請うわけにもいかないし、俺がいないとどうにもならないんじゃないか?」
「いや、まあ、その、たしかに」
思い至ってなかったのか、口ごもるアストラエアを横目にナナが足元を蹴ると、その反動で箒が斜め後ろに上昇を始める。
「いろいろ小難しい事を言ってたけど、俺はここであんたを見捨てるつもりもないし、あんただってここで死にたいわけじゃないだろ」
「あ、うん、まあ、そうだけど」
不安定な重心のせいで凧のように不規則に舞い始めた箒の制御をアストラエアが慌てて取り戻し、二人の乗った箒は風に乗って、木の梢くらいの高さを滑るように動き始める。
「それに、俺は別にあんたの命令に従ってこうやって共犯者やってるわけじゃない。命を救ってもらった恩義でやってるわけでもない。俺の製造目的が、存在意義がそれだったというわけでもない。俺の製造目的は、あくまで死ぬまで手紙を運び続けることだからな」
倒壊した城と、明かりのほとんど無い街並み、半壊した城壁が後ろの方で小さくなってゆく。
「これは俺が自分の意志で選んだことなんだよ。悪い魔女の契約者に、共犯者になるってのは。生まれもって頼んでもないのに与えられたレゾンデートルじゃない。そのレゾンデートルに従って死のうとしていた俺にあんたが与えてくれた、選択肢なんだ。そして、俺は自分自身の意志でそれを選んだ。選んで、それからはそのために生きてきた」
アストラエアがどんな顔をしているのかは分からない。不機嫌そうに眉をひそめているのか、困った子供を見るように笑っているのか、それともそれ以外か。
「邪魔だから去れと言われればそうするつもりだったが、気が変わった」
ただ、ナナははっきりと、力のある笑みを浮かべて。
「今更それを手放せなんて言われたって、誰が手放してやるものか。それで選んだ覚えもない存在意義のためにまた命を張れなんて言われてもお断りだ。俺を人間だと言ったのはあんただろう。俺のこの存在意義は、悪い魔女の共犯者という誇るべき称号は、だれに言われても譲る気はない。たとえそれが、その悪い魔女であってもな」
言いたいことは言いきった。対価だの責任だのは知った事か。それはアストラエアの、魔女の事情だ。その共犯者の事は、共犯者が決める。
口を噤み、アストラエアの返事を待つ。そして、少しの間の後。
小走りほどの速さでゆっくりと空を飛んでいた箒が急に加速し。
ふっと笑うような声の後、つないだ右手が今までより少しだけ強く握られた。
「自分の言葉には責任を持ってよ。やっぱり辞めたいって言っても、逃がしてあげないからね」
それを聞いたナナは口元に笑みを浮かべ。
「次の行き先は?」
「連合王国直轄領。どうやってこの魔女を取り込む気だったのかは知らないけど、思惑は十分に引っ掻き回した。あとは直接喧嘩を売るだけだよ」
魔女がにやりと笑った、その瞬間。
「水星を7、アルコルを2、シェダルを3、ミザールを6、ポラリスを9として拡散」
景色が歪む。空を覆っていた雪雲が円形に消滅し、全天を覆いつくさんばかりの青空が現れ。
「導入、固定。――見つけましたよ。悪役さん」
墜落。なにか見えないものに叩き落されるかのようにして、二人の乗った箒は分厚い雪に深々と突き刺さった。
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