第2話

 ***

 

 その日から、魔女と連絡員の奇妙な共同生活は始まった。

 いや、正確にはその前にも一週間ほど同じ屋根の下で暮らしてはいたのだが、ナナの方がアストラエアを避けていたせいで言葉を交わすのも数日に一回程度だった訳で。

 三度の食事は一日おきの交代制で、料理と皿洗いを交換。

 洗濯は二日に一回でこちらも交互に当番制。

 掃除は、アストラエアが何か魔術的な仕掛けをしているのか不思議と全く埃の類が溜らないので、今のところ一度もしたことは無い。

 必要な栄養が入ったペレットを固めたような、家畜の餌のようなブロック状の支給品以外の食べ物を当たり前のように食べられるのは、一体いつ以来か。

 雪を火で溶かしたただの水ではなく、温かい紅茶を口にしたのも随分久しぶりに思える。

 こういう生活を求めてここに残ることを決めたわけではない。

 それでも、最初から諦めていたものが、棚ぼた式に手に入ったという事実に変わりはない。

 皿に乗った食事が、角砂糖が中で崩れる温かい紅茶が、欲しくなかったと言えば嘘になる。

 けれど、喜びのような物は思っていたほど無かった。

 寧ろ、血管を真水が流れている様な居心地の悪さや、違和感のような物。それらが激しく自己主張をしている。

 はぁ、と最早繰り返しすぎて普通の吐息と区別がつかなくなった溜息をつくと、ナナは壁から突き出していた円錐状の伝声管のふたを開け、どこにいるかも分からないアストラエアに呼びかけた。大方寝ているのだろうとは思うが。

「朝食できたぞ。先食ってる」

 この伝声管の仕組みも、よく分からない。アストラエアがナナを呼び出すのに使う事もあるので、どうやら相手のいるところの伝声管に勝手につながるようになっているらしいのだが、結局その仕組みの根本が分かっていないナナには使えるという事しか分からない。

 この城は、この手の仕掛けに満ち溢れている。勝手に繋がる伝声管、割れても翌日には直っている皿、薪を加えなくても燃え続ける暖炉。そのほかにも数え上げればきりがない。

 当然その辺の家などにあるものも大抵は魔術的なもので動いているわけなのだが、流石は魔女の城と言ったところか、ここにあるものはその辺りで見かけるものとはレベルが違う。まあ、ナナが連絡員だからあまり知らないだけのかもしれないが。

 料理なんてロクにやったことが無いので棚の中にあったパンを焼いて皿に乗せ、千切っておいたレタスを添える。一応二人分目玉焼きを作ったので料理をしたということにしておく。

 このレタスと卵だってそう。外だとレタスも鶏も凍ってしまうだろうし、城内でそれらしいものを見たことも無い。どこから出てきたものなのかは全く以て不明だが、まあ食べられてレタスと卵の味がするので気にしないことにしている。

 食べても腹を壊さなくてかつ同じ味がすればそれは多分同じものなのだ。

 丁度ナナがテーブルについて食パンに一口歯型を付けたところで、アストラエアが現れる。

 虚空から唐突に。

 もう何度も見た光景なので今更驚きはしない。

 魔術というものの黎明期にはこれくらいの魔術は誰もが使っていたようだが、今では身一つでこうやってそれなりの魔術を使えるのは魔女か魔術師といった程度。

 最も単純な魔術の一つと言われる点火魔術だって大抵の人は使えないと聞く。ナナは外で火をつけるのによく使っていたが、それでも点火以外の事はほとんど出来ない。

「お、目玉焼き。一昨日のゆで卵よりちょっと進歩したね」

 たん、と軽やかな音と共にテーブルの上に着地したアストラエアが皿の上を見て言う。

 最初に会った時や契約を結んだ時とは異なり、シンプルなシャツに同じくシンプルなロングスカート、羽織るのはシンプルなカーディガンという装い。最初に会った時の安そうな服装よりは幾分かましになったとはいえ魔女らしい格好なのかと言われれば首を捻るところだが、まあ魔女とはいえプライベートではこんなものなのだろう。

「そのいつもテーブルの上に降りるの、何とかならないのか?そのうち飯踏んづけるだろ」

「一人の時はそんな心配なかったんだよ。テーブルの上って方が何も目印の無い床の上より跳びやすいのさ」

 アストラエアはそう言って小さく伸びをする。寝起きだったのだろうか。

 もぞもぞと自分の体に慣れていない赤子のようにぎこちない動きで、テーブルの上から降りる銀髪の魔女。

「やっぱりスカートだと降りにくいね。動きやすいズボンにするかな」

「それよりまずは降りる場所をなんとかしてくれ」

「考えとくよ」

 厨房から焼いてあったパンを取ってきて、アストラエアがナナの向かい側に座る。

 こうやってテーブルを挟んで座るのにも慣れてきたように思える。

 お互い無言で皿の上の物を口に運び、時間が過ぎる。いつもなら口数の多いアストラエアが珍しいな、と思ったが、その原因はすぐに分かった。

「あー、ねむい」

 目玉焼きを食べるのに失敗して皿に落とし、半熟の黄身を割ったアストラエアが唐突に呟く。

「日ごろから暇してるようにしか見えない奴が何を。眠いなら寝ればいいだろ」

「暇とはひどい言い草だね。これでも世界に13人しかいない魔女なんだから、仕事はそれなりにあるんだよ」

「その割には仕事とやらをしてるようには見えないが」

「基本的に魔女は自由だからね。上司もいなければ、面倒な規則もない。仕事を頼む方だって13人全ての魔女と付き合いがある訳じゃないから、多少適当にやっても仕事が減ることもないのさ」

 アストラエアは割れて零れた黄身をレタスに絡めながら言う。あれは果たして美味しいのだろうか。

「それに、仕事って言ってもボランティアみたいなものなんだよ。別に生きていくだけなら結局どうとでもなるからね。金を貰ってもどうしようもないのさ。あ、塩コショウとって」

「はいはい。それを一般に暇人っていうんだ」

 半熟の黄身が絡まったレタスに塩コショウをかけながら、アストラエアは答える。

「ん、そうでもないのが面倒なとこなのさ」

「そうとしか見えないけどな」

「それに、一人の時は昼過ぎまでだろうが夜までだろうが寝てられたんだよ。今日みたいに起こされることもなかったしね」

 レタスを頬張ってぱっとしない顔で首をかしげるアストラエア。やはりというか何というか、合わなかったらしい。まずくはないだろうが、まあそんなものだろう。

「起こせって言ったのはそっちだろ」

 ナナは無難にテーブルに置いてあったドレッシングをかけ、レタスを口に運ぶ。

「いやーそうなんだけどね。やっぱり伝声管越しに叩き起こされると気持ちよく起きられないのさ。そうなると寝た感じもしなくなるんだよ。君も分かるでしょ」

「だったら早く寝ればいい」

「君に窓でも開けてもらって爽やかに起こしてもらうってのもありかもね」

 パンにバターナイフでバターを広げながら言うアストラエアには、からかうような様子はない。恐らくは純粋に気持ちよく目覚める方法を考えてるだけなのだろう。

 確かにナナが相手なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、少しむっとして語調が荒くなる。我ながら、ここでの生活に慣れてきたものだと思わずにはいられない。

「500歳越えの年齢不詳とは言え、流石に寝てる女性の部屋に入るのは遠慮しとく。魔女なんだからそれくらい自分でやってくれ」

「なるほど、その手があったか」

 気にする様子もなく手を打つアストラエア。

「けど、年齢不詳ってのはなんか怪しい感じがして嫌だね。なんか別の言い方はないのかな」

「じゃあ何歳なんだよ」

「さあ。200を超えたあたりから数えるのも面倒になっちゃったからね。生まれた年も覚えてないし、私にも分からないんだよ」

「それを世間一般では年齢不詳と言うんだ」

「言い方の問題だよ。そんな不審者みたいに言うから駄目なのさ。それに、魔女なんだから、それくらいの方が不思議な感じがしていいじゃないか。いつから生きてるのか分からないくらいの方が、雰囲気が出るんだよ」

 そんなもんかね、と呟いてパンの最後の一切れを口に運ぶ。

「魔女なんて普通みんなそんなもんだよ。歳わかる人なんていないんじゃないかな」

「そもそも、歳が分からなくなるくらい生きてるのが普通じゃないんだよ。不死だか何だか知らないが、いったいどうなってるんだか」

「それを正確に話すと長くなるよ」

 知りたいかい、と尋ねる魔女。その薄く青みがかった瞳が怪しげに輝いているのを見て、ナナは「遠慮しとく」と手で遮る。魔術師は他人に教えを垂れるのが大好きだから気を付けろ、そう言っていたのは連絡員第何号だったか。

 それは残念、とかすかに口をとがらせたアストラエアは、しかしすぐ元の表情へ戻る。

「ま、色々省いて端的に言えば生命力の水増しだね。ついでに言うなら、不死と言うよりは、半不死。本当に不死なら、きっと神とか悪魔とか呼ばれてるさ」

 そこで言葉を区切ると、アストラエアは小さく肩をすくめ。

「きっともう、私の命を構成する生命力に私が生まれた時の、自然なものはほとんど含まれてないんだよ。希釈してしまって。そういう意味では、君たちとは同類と言えるかもね」

「……天下の魔女様にそういうお言葉を頂けるとは嬉しい限りで」

「気を悪くさせたならごめんよ。けど、私にもまあいろいろあるのさ。多少感傷に浸るのは許してちょうだい」

 どこか自虐的に笑う魔女にこう答えてしまったのは、自分で思ったより苛立っていたのか。

「そう言うなら、いっそ死ぬという選択肢は?」

 その言葉に、しかし魔女は表情を替えずに答える。

「知ってるかい、悪い魔女が勝手に死んだらお話は成り立たないんだよ」

 そして、この話はこれで終わり、とでも言うようにとアストラエアはぱんと手を叩くと。

「それより。魔女の業務ってものに興味はないかい」

「随分と急だな。ボランティア的な仕事ってやつか?」

「それでもいいんだけどね。今回はそれとはちょっと別」

「生体実験とかならさすがに御免被るぞ」

「まさか。言ったでしょ」

 からかうように、立ち上がったアストラエアは小首をかしげながら言う。

 ふわりと、纏う気配が一変した。

「……魔女は魔女でも、悪い魔女なんだよ、私は。そして、悪い魔女がすることと言ったらこれに決まってるじゃないか」

 腰の少し上まではありそうな銀髪をたたえた悪い魔女は、両手を広げて、薄い胸を張って。

 悪い魔女には到底似合わない、今にも泣きだしそうな笑顔でこう言った。

「この世界を、壊すんだよ」

 

 ***

 

「さて、準備はいいかい?」

 朝食を食べていたのとはまた別の、とある一室。

 ナナの目の前で、着替えから戻ってテーブルに腰掛けた銀髪の魔女が、金色の懐中時計のような物を振り子の様に揺らしながら言う。先ほどの表情はどこへやら、すっかりいつもの様子。

 羽織る上着は厚手の物。その下の服も、普段の装いとも最初に会った時の服装とも違う、一目見て余所行きであることが分かる物。街を歩けば、違和感なく群衆に溶け込めることだろう。見た目だけなら、少し裕福な家の一人娘と言ったところ。

 その纏う雰囲気を除けば。

 見た目だけなら、普通。しかし、醸し出す空気はどこか人を近づけないような物がある。それは彼女が魔女だからか、はたまた服装にも何か魔術的な記号性などが組み込まれているのか。

「あぁ、気乗りはしないけど」

 そして答えるナナも久々の正装。ただ正装とは言っても、儀礼的な装いではなく、連絡員としての「正しい装い」である、くたびれ切って薄汚れた制服だが。

「大丈夫だって。この魔女がついてるんだから」

「職務放棄に、命令逸脱、独断専行。知らないかもしれないが、これだけ揃えば連絡員の首が飛ぶには十分すぎるんだよ。文字通り、首が飛ぶにはな」

 ぱかぱかと懐中時計のようなそれを開閉しながら言うアストラエアに、支給品の鞄を肩にかけてからナナは言う。実際、そうして「除籍」された同僚は多くはないものの、決して少なくもない。杞憂と笑い飛ばすにはそれは少々重たすぎ、連絡員という立場はあまりにも非力。

 そんなナナの心中を知ってか知らずか。普段は欠片も感じさせない魔女としての雰囲気を身にまとったアストラエアは不敵に笑うと。

「誰であれ、魔女の契約者相手においそれと手は出せないし、出させないよ。だから職務放棄だろうが国家反逆罪だろうが、気にせずについてくるといいさ」

「はぁ。まあ、ここに残ることにした時から多少のリスクは覚悟してるからな。乗り掛かった舟だ」

「なんかまだ魔女ってものを舐めてないかい?」

「あんたの普段の様子を見てるとなぁ」

 普段から威厳なんてものも欠片もないしなぁ、なんて事を思いながら寒さが入り込まないようにコートの前をきっちりと閉める。

「で、出かけるってどこ行くんだ?言った通りだから、あんま人目にはつきたくないんだけど。できれば生存圏入る時の検問とかも」

「だから気にしなくて大丈夫だって。けどまあ、検問は通らないで済むかな」

 小さく胸をなでおろすナナに、アストラエアは右手で持った懐中時計のようなそれの蓋にあたるところを突き付ける。

「で、行き先についてはこれを見れば分かるんじゃない?」

「……なんかの紋章か?生憎それで分かるほどの教養は持ち合わせてなくてな」

「はぁ、決まらないね。折角だしカッコよく決めてみようかと思ったのに」

 かつん、とつま先でアストラエアが床を叩き、少し遅れてその足元にこぶしほどの大きさの白い光が現れる。

「あと、そんなガチガチに防寒しなくても大丈夫だと思うよ。外は歩かないし、そもそも魔女は常人以上に外には耐性が無いんだ」

 細い指先が懐中時計の上を押し、複雑な文様の刻まれた蓋がバネの力で跳ねる様に開く。

 現れたのは、文字盤ではなく方位磁石のような物。

「行き先についてだけど」

 先端を濃い紫に塗られたその針は、暫くくるくると回った後、不自然にぴたりと静止し一方を指す。

「各地に点在する生存圏のほぼ全てを支配する四大派閥のうちの一つ、王国派こと連合王国の中心地「直轄領」。説明するまでも無い、連合王国の心臓部」

 直後。ナナが声を発する前に。

 一瞬にして膨張した白い光の球が二人を飲み込み、僅かな間の後、中心に吸い込まれるようにして消滅し。

 光が消えた後には、人気のない空間だけが残された。

 

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