第1幕 封書の魔女
第1話
「汝、その主たる者に常に忠誠を尽くし、その者の実直なる臣下として、主の命に忠実に従い、身命を賭してその意志を遂行することを、主の守護者たる神に懸けて誓うか」
見渡す限りの書架の中。
放射状に配置されたと思しきそれらの中心にある不自然に開けた空間に、彼は居た。
周囲には、放射状の書架をその中に取り込むようにして広がり、年季を感じさせる木張りの床の上に複雑な幾何学模様を描く、赤みがかった光の筋。
円、多角形、直線、曲線。その他多種多様な文様が入り混じって構成されたその模様の中心にあるのは、赤い蝋で封をされた黄ばんだ封筒。
「連絡員30277号、この名に於いて、その主たる者に常に忠誠を尽くし、その実直なる臣下として、主の命に忠実に従い、身命を賭してその意志を遂行することを、主の守護者たる神並びに主神に懸けて誓約する」
全ての模様の起点となっているその封筒は、更に膝ほどの高さの空中にも掌ほどの大きさの床の文様より数回り緻密な文様を浮かび上がらせ、連絡員の目の前でその円盤状の文様がゆっくりと回転をしている。
「されば、その証建てとして汝の主たる者にその一切を委ねることを己が身で示せ」
その正面、十歩ほど離れたところに、周囲より一段高くなった教壇のような物があった。
ただ、当然。形こそ似ておれど、それは教壇とは明らかに違った。
教卓に当たる机のような物の天板の上では赤い光の描く精巧な幾何学模様がゆっくりと回転し、その教壇の背後でも空間自体を覆うような規模の幾何学模様が壁面に添って浮かび上がっている。
そして何より。その「教壇」に立ち、暗い光を湛える双眸でこちらを真っ直ぐ見つめて宣誓文を厳かに読み上げているのは、齢二十歳ほどに見える、流れるような長い銀の髪をした「魔女」である。
「我が主の守護者たる神の僕として、我が主の忠実なる一臣下として、主にこの身の一切を委ねることをここに宣誓する」
連絡員は予め伝えられたとおりの文言で魔女の問い掛けに応じ、手の中に握りしめていた精巧な模様の彫り込まれた硝子玉「識別子」を目の前で回転する宙に浮かんだ文様の上に置く。
硝子玉は、下にある模様の放つ光をその内部で複雑に屈折させ、反射させ、まるで万華鏡のように連続的に内部の模様を変化させる。
そして、その硝子玉の模様が回転する円盤状の文様と一致した瞬間、今までは壁面と床、書架に添って平面的に描かれていた幾何学模様が、空間全体を埋め尽くすような三次元の幾何学模様へと、組み変わるようにして変化し、同時に色も赤い光から濃い青色へ変化する。
「されば、13人のうちの第4位、封書の魔女アストラエアが、神とその僕との仲介者としてここに宣言する」
空間を満たすような淡い光にその銀色の髪をぼんやりと輝かせ、その可憐な容姿とは不釣り合いな貫禄で「儀式」を進める魔女の服装は、連絡員が最初に会ったときの質素な服ではなく、シンプルでありながら上等な物であることが一目でわかる青みがかった紫色のドレス。
同じ色の糸で施された多種多様な文様の刺繍は、純粋な装飾なのか、はたまた魔女の装束として何らかの魔術的な記号を組み込んだものなのか。
一旦言葉を切った魔女は、それまで立っていた壇の上から降り、ゆっくりと場の雰囲気に圧倒されている連絡員の方へ歩み寄る。
対する連絡員は、いつもと同じカーキ色で機能性重視の無骨な制服。
魔女が一歩踏み出す度に空間や足元に広がった文様に波紋のような揺らぎが伝播し、そのドレスの踝ほどまであるスカートが空間を舞った跡には、水鳥が凪いだ湖面を泳いだ後のような残滓が数え切れない程の光の筋の束として現れる。
足元の黄ばんだ封筒から浮かび上がった魔法陣のような文様を挟み、連絡員と魔女が対峙する。
数秒間、いや、数十秒間だろうか。至近距離でその視線が交差する。
互いに、その相手の胸の内は分からない。
魔女の足元に残っていた波紋が消えようかというときになり、ようやく魔女が小さく首を引いた。その動作にだけは、不思議とその容姿相応の幼さのような物が残っているように、連絡員には思えた。
連絡員は先程まで硝子玉を握り締めていた右手を開き、硝子玉と一体となって他より一回り明るい光を放つその文様に掌で触れる。
「創造物は自らを再び創造者に委ねることを誓い、創造者は創造物の忠誠に応え、忠誠の限りに於いて、其の身を庇護する事を誓約した」
魔法陣の上に伏せる様にしておいたその手の上に、連絡員の手より白く細い、魔女の手が重ねられる。
何年振りかも分からない、生きた人間の肌だった。この世界に於いて最も魔術を極めた存在、人を辞め、神の領域にさえ足を踏み入れたと言われる存在である魔女でも、やはりその肌は温かかった。
「創造物の名は連絡員30277号、創造者は十四柱の神々」
重なった手の上から、更に何重にも重なった同心円状の文様が出現し、向かい合った二人を囲うように広がる。
「この場に於いて、第4位の魔女アストラエアを創造者の代弁者とし、その守護者たる神と主神の名に於いて、此の契約は発効せり」
魔女が勢い良くそう言い切ると同時、空間を満たしていた光の筋の色が青白く変化し、一拍於いて粉雪のような粒子となり、ゆっくりと消えていく。
ほっ、と表情を緩めて言った最後の言葉だけは、今迄のような物々しさは無かった。
「……よろしく」
その目尻が光って見えたのが、宙を舞う粉雪のような光の残滓のせいなのか、それとも違うもののせいなのかは、連絡員には分からない。
***
連絡員30277号が雪の中であの声を聞いてから一週間ほど。
幸いにして、未だに雪の中に眠る幾万の氷漬けの死体の仲間となることは無く、彼は暖かい部屋の中にいた。
腰掛けているのは気を抜けばそのまま睡魔に呑み込まれそうな柔らかいソファーで、その向かいにある大きな暖炉ではちろちろと橙色の炎が踊っている。
恐らくは魔術的に暖房をかけることも容易なはずだし、そもそも殆どの家庭ではそのような道具を使っているはずだが、やはり本物の炎の暖かさというのは他の物には代えがたい。恐らくは視覚的な効果もあるのだろうが。
まあ、これだって煙突のような物が見当たらなかったり、はぜる火の粉が不自然にある面を境に消えていたりするので何か魔術的な仕掛けはあるのだろうが、連絡員にははそれが具体的にどのようなものなのかは分からない。
「そろそろここにも慣れたかい。ずっと一人で住んでたところだからね、色々不便なところはあるだろうけど大目に見て頂戴」
少し離れたところから投げかけられた声に振り返った先では、あの時の銀髪の「魔女」が何かの本を開いてつまらなさそうな顔で眺めている。
いつの間にそこにいたのだろうか、最初に雪の中で会った時とは異なり、シャツとスカートではなく青紫のドレスを着たその姿は、なるほど魔女という言葉にしっくりとはまった。
薄手とはいえ、氷点下の吹雪の中でシャツとスカート一枚で、暖かい暖炉のある部屋の中でドレスというのはどこからどう考えても逆のような気もするのだが、彼女の行動を常識でもって判断しようというのがそもそも間違っているのかもしれない。
何にしろ、彼女こそがこの部屋の、この城の、そしてこの「聖域」の主。彼女の言うところによれば「封書の魔女」ことアストラエア。
これについては、最早疑う余地はないだろう。
この雪と氷に閉ざされた常冬の世界において、各地に点在するはずの「生存圏」。その外にいるという時点でただ者ではないし、加えて自前の「生存圏」とも言える「聖域」を有しているとなれば、それだけで魔女と言い切っても問題ない。
そして何より。
「で、何か感想とかは無いのかな。この魔女と「契約」を結んだ感想とかは。誰かと「契約」を結ぶのは数百年ぶりだし、君の前に私が契約を結んだのは一人しかいないんだ。自分で言うのもなんだけど、誇りに思ってくれても罰は当たらないよ」
その言葉に、連絡員はつい先程、巨大な書庫で行った「儀式」を思い出す。
契約。世間一般で言われるような俗っぽい言い方をするのならば、「魔女の契約」とも。
魔女とそうでない人間が結ぶ、名目上は主従関係を神に誓うための魔術的な契約。魔女は人間をその庇護下に置くことを誓い、人間はその対価として魔女への忠誠を誓うという契約。名前だけは世に広く知れている。そういった噂話には疎い連絡員でさえ、知っていたほどだ。
まあ、その対象が「連絡員」の場合は別の文脈も存在したりはするが。
アストラエアと名乗った魔女が連絡員を「聖域」に住まわせる代わりに提示したのが、その契約だった。
今この時代において、最も影響力を持っている個人とも言えるある「魔女」の、正式な後ろ盾。そしてその対価としての魔女への従属、或いは隷属。きっと、人によってはどうしても手に入れたいものだったり、逆に屈辱的な施しとして忌避するものだったりするのだろう。
けれど。
「別にこっちから頼んだわけでもないし、むしろ感謝されてもいいくらいじゃないか?」
暖炉の方を向き直った連絡員は脇に置いてあった薪を一本無造作につかむと、それを暖炉に投げ込んでから、炎を見つめたまま答える。
特にこれといった感慨は無かった。
正式な後ろ盾?あったところで何が変わる訳でもない。魔女への従属?何を今更。
そもそも、先ほども言ったようにこれを提案したのは魔女の側であり、それに首を縦に振ったのはあくまで連絡員の側である。逆ではない。
炎が薪を包み込み、少しおいてから新しい薪からも炎が上がる。
「一応、私は君の命の恩人ってことになるはずなんだけどな」
魔女くらいになると人の心の内も覗けるようになるのかもしれない。含みを持たせたようなその言い方は、答えを分かってのものか。
「結果的にそうなったことには感謝してるが、助けてくれとは言った覚えもない。そもそもそっちだって、助けてやるとは言ってないだろ」
最初からいつか、雪に覆われたこの果てしない常冬の世界で行き倒れることは覚悟していた。
生きているものは、皆いずれ死ぬ。誰だって知っている。虫も獣も。
普通の人間は、それまでに少しでも良い時間を過ごそうとし、少しでも良い最期を探し求める。死にたくないというのは、その結果として生じる感情だ。
なら、連絡員30277号の場合はどうなのか。
基本的には、連絡員には誰もいない雪原で行き倒れる以外の「最期」はない。もちろん、「生存圏」にいる時に刺されたり、偶然雷に打たれたりといった例外はあるだろうが、それもごく稀なケースだし、行き倒れるより「良い最期」なのかというと判断に困る。
例え運よく生き長らえて老人となっても、重い病にかかったとしても、足が動く限り連絡員は連絡員としての仕事を全うする他の道はない。連絡員には、連絡員として生きる以外の道は用意されていない。もし足が動かなくなったのならば、「除籍」されるだけ。
だから、当然より良い時間なんて求めていないし、より良い最期なんて夢にも見ていない。
いつかその時が来る事に、別に抗おうという気も一切なかった。
感謝していると言ったのだって、助けてもらったからではない。単に、連絡員風情にわざわざ手間をかけてもらったから。きっと、あそこで楽に死なせてやると言われても同じことを言っただろう。感謝する、と。手間をかけさせて済まないな、と。
「でも、君は結局ここにいる。助けたのを私の勝手と言われたら反論はできないけど、ここに残ることを選んだのは君でしょう。わざわざ契約まで結んで」
殆ど予想していた通りの返事に、それでもやはり少し居心地が悪くなって、連絡員は誰が見ているわけでもないのにソファーの上で姿勢を正す。
いや、逆に予想していたからこんな返事になったのかもしれない。
「性格の悪い質問だな。あんたみたいな魔女くらいなら人の心の中くらい見えてるんだろ。そんなに気になるなら勝手に覗いてくれ」
「それじゃあつまらないじゃない。退屈せずに生きるコツは分からないことを残しておくことだよ。それに、こうやって人とどうでもいいような話をするのだって数百年ぶりなんだ。折角だから楽しみたいのさ」
出来ないと言わないあたりは、流石魔女と言ったところか。
「寿命が無い魔女の感覚で話されても困るんだ。そもそも、あんた何歳なのさ」
「連絡員だから知らないのかもしれないけど、世間一般では女性に歳を聞くのは失礼にあたるんだよ。覚えておくといいよ」
「世間一般から真っ先に逸脱してるような奴がよく言うよ」
「私は魔女だよ。世間一般だとか常識だとか、そんなのから逸脱しなくてどうするのさ」
悪戯っぽい笑いに乗せられたその言葉に、はあ、と連絡員は溜息をつく。
この一週間で分かったことはいくつかある。
なるほどと唸るような事から、逆に拍子抜けさせられるようなものまで。
世の中で出回っている魔女のイメージというものは、もう少し重厚な物だった。
現在の世の中を根幹から支える「魔術」という仕組み。何千年の間で発展を繰り返し、もはや一般の人々の理解の範疇を超えたそれを、専門の研究職として支える少数の「魔術師」。そして、その中でも魔術を極め、神の領域にまで足を踏み入れたとされる「魔女」。
今、街行く人をつかまえて、例えば貴方の自宅にある暖房装置はどういう仕組みで、どういう術式で動いているのかと尋ねたならば、十人に一人も答えられないだろう。もはやほとんどの人々にとってはブラックボックスと化した魔術を支え、そして人としての限界を超えた者。その存在への畏怖の念は、人々の心に深く根付いている。
そんな畏怖の念の上に築かれる魔女のイメージは当然威厳にあふれる重厚なものとなるはずで、教会の絵画や、或いは文学に描かれるような魔女はまさにそれを体現していた。
神秘的で大仰な服。物々しい霊装。寡黙で、知性に溢れたような、書物によっては怪しげな老婆のような姿で描かれることもある、そんな存在。時の支配者がその知恵を借りるためにありとあらゆる手を尽くし、その上でそのごく一部にのみ手を差し伸べる気まぐれで自由な存在。叡智と技術の象徴。
そして何より、ずっと前にあったと言われる「天文重爆撃」。この世界に常冬をもたらし、人類が魔術的に調整された「生存圏」以外で生存できなくなった原因でもある宇宙規模の災害。その際に、生存圏を展開する霊装「アララトの円匙」を開発・供給し、人類を他の何億種の生物と共に絶滅する道から救った、人類にとっての「救世主」ともいえる存在。
だが。
「それより、ちょっといいかい」
「なんだ、今度は。まだ儀式が残ってるとか言うんじゃないよな」
掛けられた声に、振り返った先。そこでティースプーンを片手に湿気て固まったインスタントコーヒーを面倒臭そうに突き崩している銀髪の魔女は自由にやってこそいるものの、威厳などは欠片もない。畏怖の念についても同様。むしろその仕草には庶民臭さすら感じる。
そもそも、第一印象が威厳も何もない部屋着だったのが良くないのかもしれない。
「砂糖とクリームを取ってきてくれないかい。それに、コーヒーカップを一つ」
「自分で取ってきたらどうなんだ」
「今は動きたくない気分なんだよ。慣れない儀式なんてやって疲れたからね」
はいはい、と答えて暖炉の前を離れる。
「どこにあるんだ、それ」
「全部厨房にあるはずだよ。後は勝手に探してちょうだい」
この城の厨房は物の少ない割にただっぴろい。抜け殻のように。竈やら何やらと設備は整っているように見えるが、それを魔女が使っているのを見たことは無い。当然、連絡員も。
数だけは多い棚を五分ほど探し、クリームの入った小さな壺を発見。ソーサーと共に二つ並べられていたカップを一つ手に取り、角砂糖をカップに入れて部屋へ戻ると、コーヒーを崩し終わった魔女が連絡員の手元を見てわざとらしい笑みを浮かべる。
「助かるよ。けど残念、それはコーヒーカップじゃなくてティーカップだね」
何が違うんだと胸の内で文句を言いながら、両手の壺とカップを魔女の前に置く。
「連絡員にそんな教養を求めないでくれ」
魔女は答えなかった。置かれたティーカップを掴むと、それを連絡員の方へ突き出す。
「多分同じ棚にあるはずだよ。紛らわしいものはこれ以外には無いはず」
「はいはい」
差し出されたティーカップを受け取り、いや、掴もうとしたところでその手が空を切った。思わずもう一度手を伸ばすが、結果は変わらず。すり抜ける。
視線を上げると、苦笑いするような表情を浮かべた魔女の顔と目が合った。
こんなもんかな、と呟いて魔女はカップをテーブルの上へ戻す。
「冗談だよ。ほら、座るといい。どうせ水が注げれば、種類なんてどうだっていいんだ」
連絡員が持ってきたものと同じカップがもう一つ、促す魔女の掌の上で虚空から現れる。
魔女の向かいの席にカップの置かれる、小さな音。
「気分を悪くさせたのなら謝るよ。ただちょっと、言っておきたいことがあってね」
腰掛けた連絡員の疑うような視線を、魔女は正面から受け止める。
「結局君は、多少文句は言っても私が何かをしろと言えばその通りにする。多少理不尽な要求であってもね。けど、私が何かをしろと言わなければ君から行動を起こすこともまず無い」
少し申し訳なさそうな笑みを浮かべながら、けれどその瞳には魔女の名に違わない全てを見通すような鋭さを湛えて、銀髪の魔女は言う。
「何のことだ」
「よく言えば賢く立ち回ってるけど、あえて意地の悪い言い方をすれば他人本位で臆病な生き方ともいえるね」
「だから、」
「ここ一週間でみた、君の癖みたいなものだよ」
くるりと魔女が回した指の先。そこに現れた水は、見えない管を伝うように二つのカップへ。
「これ自体は別に変わったことではないけれど、君の徹底っぷりは目を見張るものがある。いくら理不尽でも求められたらまず断らない。けど、自分からもまず言いださない。普通の人はここまで徹底はできないよ。ここまで自分を殺した、芯のない生き方はね」
「……」
「君が几帳面に自分で決めたルールに従うような性格だからそうなのか、それとも連絡員というイレギュラーな境遇に君が適応した結果がそうなのか。そこまで詮索したり、覗いたりするようなつもりは無いよ」
ひとりでに湯気を立て始めたその水に、加えられたコーヒーが不規則な曲線模様を描く。
「前者なら私は何も言わない。けど、もし後者なら、ここでそんなに気負う必要はない、とだけは言っておくよ。ここは私の「聖域」で、私の「城」だ。この空間に限って言えば私は王なのさ。君が恐れるようなものは無い。魔女にも色々いるけど、少なくとも私は君の事も連絡員としてではなく一人の人として扱うつもりだよ」
なるほど、と連絡員は小さく苦笑する。向かいの魔女には悟られないように。
「人と会ってないと言った割には、色々と詳しいようで」
「伊達に500年以上生きてないからね。魔術に限らず、魔女と言われるだけの知識はあるさ」
そう言うとコーヒーを混ぜていたティースプーンを口に含み、一息置いた魔女は。
「ま、そういう事で気楽にしたらいいさ、ナナ」
「ナナ?」
「30277号だからナナ。君の名前だよ。君たちにとって名前を貰う事がどういう意味を持つかも知ってるけれど、君と私は契約を結んだ間柄なんだし今更何も変わらないでしょう。いつまでも連絡員30277号じゃ呼びにくくてたまらないんだよ。それに、魔女の契約相手が名無しっていうのもお互い格好がつかないからね」
「俺は別に名無しのままでいいんだが」
「言ったでしょ。ここでは君も一人の人間。それに、魔女の付けた名なんて権力者なら金塊を積んででも欲しがるものだよ。ありがたく受け取るといいさ」
「……金塊を積んでこんな適当な名前を付けられるんじゃ、王侯貴族も気の毒になってくる」
「そういう時はもっとそれっぽい名前をつけるさ。もっとも、いままでその手の依頼を断らずにちゃんと受けたことは無いけどね」
小さく笑ってカップを傾ける魔女に、連絡員は使い古した繕った笑みを返す。
それでこの魔女が満足するというのなら、特段意地を張る理由も無い。魔女の言った通り、今更。あって困るという物でもないし、拒んでまで守りたい我がある訳でもない。
そもそも、言葉だけでも一人の人間などと言われたのはいつ以来か。気休めだとしても、それだけで十分すぎる。その、的を違えた善意だけで。
だから、これはちょっとした礼だ。魔女の告げた名を認めるというのは。
「仰せのままに、ミストレス」
「……君たちはそう言うように仕込まれてるの?気持ち悪いからやめてくれないかな」
魔女の誠意は分かった。ただ、きっと魔女には分からない。
連絡員であるという事が何なのかは。
「ならまあ、好きなように使ってくれ」
呆れたような笑みで応えたアストラエアは、少し寂し気に見えた。
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