人形は死して魔女を残す
梅雨乃うた
第0幕
第0話
一面の純白だった。
上を向いているのか、下を向いているのかさえも分からない。
空と地面の輪郭も、病的な白色に吸い込まれて、見えているのかすら定かでない。
いや、ひょっとすると、これはもはや網膜に写った景色ではないのかもしれない。
雪に埋もれ、今まさに至る所に転がっている凍り付いた亡骸の一つとなろうとしている身体の見せる、幻の断片のようにも思える。
だとしたら、この過剰なまでの白色の意味するところは何だろうと、そこまで考えて連絡員は朦朧とした意識の中で思考を止める。
考えたところでどうにかなるものではないし、そもそも理由があるとも限らない。単にそういう仕様なだけという可能性もある。
思考を手放し、考えることをやめると、あらゆる音を吸収する果てしない雪原に、自分自身さえ吸収されるような錯覚に陥る。
この感覚も、あながち間違いではないだろう。
死ぬというのは、そういう物なのだから。
行く先を指し示すコンパスはとっくにどこかへ行ってしまい、仮初めの「生存圏」を展開するはずの「ペグ」も、機能を失いもはや少し複雑な形をしただけの金属の棒。
この雪に覆われた世界の中で息をし続けるために必要な物は、すべて失った。
やろうと思えば起き上がれそうな気もするが、起き上がったところで死に場所が少し変わるだけ。感覚の無くなった体に鞭打ってまでやろうという気にはならない。
そろそろ「耐用年数」が来たのだろう。一体何年間こうしていたかは覚えていないが、同世代の連絡員の数が少しずつ減っているので薄々察してはいた。
どことも知れぬ地で溶けることのない雪に埋もれて言った同僚たちは、何か思うところでもあったのだろうかと思っていたが、いざそうなってみると案外何の感慨も無いものである。
せめて死に際らしく走馬灯でも見てみようかと、建て付けの悪い記憶の引き出しを漁るが、やはり出てくるのは埃ばかり。
小さくため息をついてから、かろうじて掴みとめていた意識からゆっくりと手を離す。
流れのままに流される、眠りに落ちる直前のような心地よさと共に、意識が引き波のように拡散し、遠ざかる。
そして、その一人の連絡員の意識はもはや何メートル降り積もったかも分からない雪に溶け込み、その体も果てしない、ところどころ朽ちたビルが頭を覗かせるだけの殺風景な雪原に埋まる何万の亡骸の一つとなる。
そのはずだった。
その声さえ聞こえなければ。
「……ねえ、そこの君。まだ死んでないかい?それとももう死んでしまったかな」
最初は、お迎えが来たのかと思った。
あちらからのお招きというにはいささか乱暴な物言いだったが、このどうしようもない世界にはこれくらいの文句の方が似合っているような気がした。
――俺みたいな奴にもお迎えが来るんなら、この世界も案外優しくできてるんだな――
せっかくなんだから最後までその声を聞いておこう。それくらいの気分で、消えかかった意識を再び掴みなおした。
「生きてるみたいだね。まあ、君達ならそう簡単には死なないでしょうし」
けれど、続けて聞こえた言葉は、お迎えの天使の物というには少し明瞭で。
さくり、さくり、と雪を踏む音に、とっくに凍り付いたと思っていた首をゆっくりと持ち上げる。
感覚が無いせいでどれほど首を動かしたのかもよく分からなかったが、思いの外すぐに、真っ白だった視界に、白以外の色が混じる。
瞼の隙間から、最初に見えたのは足だった。
お迎えではないのだと、根拠もないのに確信する。
くるぶしほどまであるスカートであった。それも、質素な薄い布の。
水に濡れれば一瞬で凍り、汗をかけば氷柱ができる。
そんな「外」の世界で、薄くて安そうなロングスカート一枚。
「……お願いがあるのだけれど、いいかな」
凍り付いた瞼を無理やりにこじ開けるようにして、声のする方向に、今にも凍り付いて割れそうな眼球を向ける。
雪のような、白髪だった。いや、銀髪と言った方が正しいのだろうか。
風になびいたその長い髪は吹雪く雪と同化し、先の方は髪か雪かもわからない。
歳の程は二十歳ほどだろうか。容姿はそれよりわずかに幼く見えるが、うっすらと青みがかった瞳は不相応に大人びた雰囲気を湛えている。
そして、やはり上も安っぽい薄手のシャツであった。この厳しい常冬の世界には到底不釣り合いでちぐはぐな、部屋着としか言いようのない、質素なシャツ一枚であった。
けれど。
「私と、この世界を滅ぼしてみない?」
微笑みながらのその一言で、再び散逸しかけていた意識が吸い寄せられるように凝集する。
出来の悪いパッチワークのようなちぐはぐさが、その言葉に妙な引力を持たせていた。
そもそも、たとえ羽毛のコートを何重に着込んでいようとも、この場所に人間がいることが普通ではない。
「……だれ………」
凍りかけた脳で何とか言葉を絞り出そうとして、出てきたのは幼児のような片言言葉だった。
まだ喉から声が出せたことに、自分でも驚く。
口の中に入った雪が口の中で溶け、ほんのり温かいような感覚と共に、寒さに麻痺した舌の上を流れる。
「人に名乗るのは何年ぶりかな。アストラエア、と言っても分からないだろうね」
銀髪の彼女が顔の横に掲げた手の指の間に、淡い光と共に赤い蝋で封をされた黄ばんだ封筒が現れる。
「魔女だよ。世界に13人いる、その一人」
そこまで聞いたところで、限界が来ていたのか、重力に負けた首が力を失い、再び視界が真っ白になる。
そうか、魔女か。
魔女に看取ってもらえるのなら上々な最期だろう。
どうせなら理由も聞いておけばよかったな。そんなことを思いながら目を閉じた連絡員は、薄れゆく意識の中で、ぼそりと呟く魔女の声を聴いたような気がした。
「……魔女が世界を壊すんだ。そこに理由なんて要るかい?悪い魔女なんだよ、私は」
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