第5幕 悪い魔女

第15話


「見つけましたよ。悪役さん」

 振り返る暇も、あたりを見渡す暇もなかった。

 その声を、言葉として脳が認識したときには、ナナ達の乗った箒は雪に突き刺さり、その冷たい感触が上着越しに伝わってくる。

 墜落した。その事実を認識するまでに、数秒の時間差があった。

 魔女の操る箒が、叩き落される。普通ならありえない事だが、現にナナの顔は雪に埋まり、口の中にまで冷たい雪が入り込んでいる。

 もし、今空から周囲を見ることができたら分かっただろう。二人の墜落地点を中心に、半径数キロほどの地面が、綺麗な円形に「凹んで」いるのが。

 まるで、巨人が足跡でもつけたかのように。

 まるで、均等に強烈な力で押し潰されたかのように。

 いつの間にか、その手の中にあったアストラエアの手は無くなっていた。ふらつく足で立ち上がると、上着の隙間に入り込んだ雪が体を直に冷やす。

「火星を1、リゲルを8、プロキオンを3、シリウスを7。ポラリスを0として集約」

 直後。聞き覚えのある声で詠唱が聞こえ、昨夜と同じ本能的な恐怖がナナを襲う。

 その辺りの木の幹の陰に飛び込みたい衝動を抑え、今度こそ声の方を向くと、やはりそこにいたのは両目を暗い黄色に輝かせた、黒髪の少女。第八位、六分儀の魔女。

 その手にはアンティークな六分儀が握られ、それを覗き込んだ黒髪の魔女は薄い笑みを浮かべると。

「補足、一致」

 その手元が眩く光り、一拍おいて訪れた鼓膜をつんざくような破裂音と共に大量の雪煙が視界を覆う。何が起きたのかは、雪煙のせいで見えなかった。が。

「Intervention Pattern, REVISION」

 呟くような声。

 雪煙が晴れた後に現れたのは、ナナの目の前に立ち、片手に見慣れた封筒を持った銀髪の魔女の所で二股に分かれた、五メートルほどはあろうかという幅の破壊の筋。黒髪の魔女の足元から、雪を溶かし、氷を抉り、まっすぐ二人の方へ向かったその跡は、しかしアストラエアの目の前で拡散し、次第に細くなりながら十メートルほど走った後に消滅している。

 数十メートルほどの距離を置いて相対したその黒髪の魔女の顔に、しかし落胆のようなものは無い。端から、初撃で片が付くとは思っていないのか。

「海王星を5、アンタレスを2、アルビレオを9。ポラリスを1として調整」

 遠いのにやけにクリアに聞こえる詠唱。

 何度味わっても慣れない、とてつもない恐怖感。

「観測、修正」

 再び、世界がゆがむ。世界自体が捻じ曲がったような歪み。

「火星の1、補足」

 その声に視線を走らせると、歪みの収まった世界で、先ほどまではずっと先にいた黒髪の魔女が、アストラエアの目の前で腰だめに六分儀の霊装を抱えて。

「一致」

 先程と同じ。

 幅五メートルはあろうかという破壊が、アストラエアを、そしてナナを飲み込む。

「I. P. ULTIMATUM」

 ことは無かった。

 黒髪の魔女の手からほぼゼロ距離で放たれた「何か」を、しかし銀髪の魔女を中心として放たれた波のような物が押し返す。刹那の拮抗の末、押し勝ったのはアストラエア。太いゴムがはじけるような音と共に、壁のように舞い上がった雪煙が音の速さで広がってゆく。

 全方位へ放たれたそれは、地表表面の未だ柔らかい雪をすべて吹き飛ばし、露わになったのは雪が押し固められてできた氷の大地と、そこに刻まれた獣の爪痕のような模様。恐らくは、アストラエアに弾かれた黒髪の魔女の術式が残した傷か。

 遠くで、千年ほど前からそうやって立ってたであろう朽ち果てたビルが、倒壊する音がした。

 景色は一変していた。熱か、はたまた圧力か。溶かされた雪が、凍てついた空気と、ここ何百年は解けていないであろう氷によって再び凝固し、鏡面のような氷の大地が出現している。その直径は、目算で十キロ近いだろうか。

「いきなりどうしたんだい、また遊んで欲しくなったのかい」

 アストラエアの術式のせいか、はたまた押し負けた自分の術式の余波のせいか。

 擦ったような傷に血を滲ませた黒髪の魔女に、銀髪の魔女はその封筒を、霊装を手にしたまま呆れたように尋ねかける。

「それとも、私を悪役なんて呼ぶって事は、主役にでもなりに来たかい」

 I. P. DESICION.

 鏡面のような氷の大地から剣山のような鋭い針が隙間なく生え。

 水星の7、導入、固定。

 それでも空から降った見えない力、ナナ達の箒を叩き落した力によって悉く砕かれ、小馬鹿にするように笑う黒髪の魔女を貫くことは叶わない。

「ええ、聖域にお邪魔したときに拝見した、あの聖域の術式の解析が終わりましたので」

「へえ、随分と時間がかかったものだね」

「魔女の秘密を、その場で暴いては芸がないという物でしょう。貴女がフロストレイン、続いてエーベルト辺境伯領で暴れてくれたおかげで、こうやってちょっかいを出す大義名分もできましたし、これでこちらも存分に暴れられるというものです」

 互いに、自身の霊装を、魔女としての称号にもその名を冠する神格術式を扱うための霊装、神格霊装を携えたまま、相対する。霊装を構えるような素振りは無いが、どちらも相手が動けば即座に行動に移せるのだろう。相手を塵一つ残さず消し去るための行動に。

「大義名分なんてなくても気になったら何にだって首突っ込んで暴れる癖して、よく言うよ」

「まあ、確かにそうなんですけどね。今回ばかりは話が別です」

 肩をすくめる黒髪の魔女。

「自由連盟のために、なんてつまらない事は言わないでくれよ」

「まさか。確かに連合王国の足は引っ張りましたが、かといって自由連盟の味方と言われるのは心外です。私はどっちでもありませんよ。気になるじゃないですか。久々に見る、派閥同士の大規模闘争の火種です。抗争は傍から見ているより、中から引っ掻き回した方が興味深い展開になってくれますし、何より面白いですからね。貴女も引っ掻き回し始めたので、より一層面白くなりそうだとは思っていましたよ」

 そう。彼女は例外。アストラエアの行動が連合王国と言う頼んでもいない隠れ蓑に覆われている中、唯一彼女だけはそれが虚像に過ぎないという事を知っている。

「ですが、もっと面白そうなものを見つけてしまいましたのでね。とある生存圏を起爆剤とした、大規模な地脈変動の誘発術式、でしたっけ。何か物理的な結果を生むではなく、ただただ地脈を大きくかき乱すことに特化した術式。まだ完成はしていないみたいでしたが、最終的には、恐らく生き残れる人類は今の人口より桁が三つ四つ小さくなるでしょうね」

 ふっ、と。その口元が緩む。

「何かお人形を組み込んだ術式もあったようですが、そちらは知りません。お人形遊びは私の専門ではありませんし、そもそも先ほど言ったもので十分に面白そうなので」

「私も入れてくれ、みたいな話ならお断りだよ。好奇心しか知らない節操無しは嫌いなんだ」

「いえまさか。そんなことは言いませんよ。そんなの、やりたければ自分でやればいいですからね。今の私の役回りは、そうですね、しいて言えばこんなところでしょうか」

 ぱっと。魔女という名には似合わない、慇懃無礼なその口ぶりとはそぐわない、普通の少女のような、花のほころぶような笑顔と共に。

「世界を滅ぼそうとする乱心した魔女から世界を守る、正義の味方ですよ」

 銀髪の魔女が鼻で笑う。

「正義の味方ときたか。だったら、やりたければ自分でやればいいなんて言う物じゃないね。それじゃあまるで英雄の皮を被った魔王だよ」

「まあ、実際私は魔女ですからね。魔王ではありませんが、別に魔女は人間を守る存在でもありませんし。ですが、別にそれであなたに代わって悪役の座につこうなんて気はありませんよ。なので、安心してください」

「正義感に目覚めたかい」

 アストラエアの馬鹿にするような言葉に、黒髪の魔女は首を傾げると。

「これを逃したら最後かもしれないじゃないですか。世界を守る、正義の味方になれる機会なんて。魔女以外が相手だと簡単すぎて面白くないですし、かといって世界を敵に回すような馬鹿をしてくれる魔女なんてそういるものじゃありませんしね。もちろん、誉め言葉ですよ。私も、そちら側から見える景色がどういう物なのかは大いに気になりますから」

 そこで一旦言葉を切り、六分儀を持つのとは逆の手に、あの望遠鏡を出現させる。先日アストラエアが破壊したはずなので、もう作り直したのか、はたまた予備があったのか。

「でもやっぱり、こっちも気になるじゃないですか。正義の味方の見る景色はどんなものなのか。世界を守る側に立つというのはどういう気分なのか。世界を守る者として、世界を壊そうとするものと刃を交えるのはどんなものなのか」

 黒髪の魔女はそれらの霊装を両手で構え、対するアストラエアも封書をもつのと逆の手に先ほどまで空を飛ぶのに使っていた箒を呼び寄せる。

「最後に。正義の味方の役者として、手垢まみれの質問でしょうが、これだけ聞いておきます。ヒーローというのは、いや魔女だからヒロインですか?まあ、その手のキャラクターというのは、まず悪役を説得しようと試みるそうですからね」

「勉強熱心で感心するよ」

「あのお人形のために、関係ない人まで巻き込んで、世界を敵に回して。それで息を吹き返したそのお人形が満足すると思いますか?」

「あら、そっちの術式も分かってたのかい。知らないなんて言うものだから、あのくらいの術式も分からないのかな、なんて先輩として心配しちゃったよ」

「細かい構成までは解析してないというだけです。で、どうなんですか。答えない、というのも悪役としてはありだと思いますし、そうならこのままこの役を全うさせていただきますが」

「まあ、いちいち答えてあげる義理も無いんだけどね。まあけど、私は悪い魔女だからね。ここまで来たら、とことん英雄役のお芝居に付き合って、その上で英雄を打ち負かすのってのが悪い魔女というものさ」

 ナナには、アストラエアが小さく笑ったのが、背中を見ていても分かった。

「別に、彼女が満足するかどうかは関係ないんだよ。これは、彼女との約束を無理やりにでも果たすための、私の我儘にすぎないからね。私が何よりも優先するのは、その約束を果たすこと。彼女が笑ってくれるような方法があればそれに越したことは無いけれど、そんな都合のいい方法はないからね。だったら、私は目を覚ました彼女に怒られるとしても、ぶたれるとしても、口をきいてもらえなくなるとしても、まずはこの約束を果たすんだよ。私は旧友を思う心優しい魔女ではなくって、己のためなら世界も滅ぼす悪い魔女だからね」

 その左手が、箒を握りなおす。

「だから、四大派閥だろうと、魔女だろうと、世界の全てだろうと。邪魔をするっていうのなら、排除するよ」

 爆発。

 砕け散った氷の破片を吹き飛ばすようにして、さながら打ち上げ花火の如く、銀髪の魔女が飛び立つ。右手には箒、左手には神格霊装。

「水星の7。導入、固定」

 黒髪の魔女がすかさず放った最初にアストラエアを撃ち落とした術式は、しかし今回はただ地面に積もった氷の破片を更に砕くだけ。

 ナナの頭上に会った針葉樹の枝葉から、積もっていた氷屑が叩き落されるようにして降り注いで、上着から出たその手や首筋に微かな痛みを感じさせる。

「同じ手は食わないよ」

「まあ、そうでしょうね」

 黒髪の魔女が体ごと振り返るようにして空を飛ぶ銀髪の魔女の方を向き、望遠鏡を横薙ぎに振りぬく。その周囲に現れた無数の金属の弾丸がひとりでに初速を得て、真っ直ぐ錐揉み状に回転しながら冷え切った空気を切り裂き、空を舞う魔女を撃ち落とす、ことは無い。魔女の操る箒は「当たり前の法則」に従って飛ぶ鳥や虫には到底不可能であろう鋭角的な機動で幅のある弾幕を回避し、無数の弾丸はただ魔女の箒の穂の先端をわずかに散らしただけ。

 そして、そこでナナは気が付いた。こちらに背を向けた黒髪の魔女のその背中に、小さめの皿ほどの大きさの、細い円環状のものが、浮かぶようにしてついているのに。さながら、天使の輪が背中についたような様子。恐らくは、魔女が生存圏や聖域の外で長時間にわたって活動するための霊装。

 そこまで思い至り、ナナは思わず息を呑む。黒髪の魔女の背中を突こうというわけではない。確かに今のナナの鞄には支給された片手で持てる大きさの銃が入っているが、それでこの闘いに割って入るのは猛獣同士の喧嘩に子犬が割って入るようなもの。今は意識が向いていないせいで助かっているが、あの魔女の矛先がナナに向けば、恐らく蟻を踏み潰すより容易にナナの命は掻き消える。

 問題はそこではない。黒髪の、六分儀の魔女は外で活動するための霊装を備えている。では、今空を舞っているアストラエアは。ついさっきまでアストラエアがナナの手を握っていたのは何のためだったか。

 思わず叫ぼうとし、ただしそこで思いとどまる。二人の魔女が立て続けに放つ通常魔術や神格魔術の数々。空を舞うアストラエアを狙う黒髪の魔女は空に向けて放ち、そして上空から地上を攻撃するアストラエアはナナへの誤射を避けて魔術を放つ。そのせいか地形の変化は少ないが、それでも難聴になりそうなレベルの轟音爆音が場を支配している。叫んだところでまず届かないだろう。

 加えてここで叫べば黒髪の魔女の注意がナナへ向く恐れもあり、何より今のアストラエアの致命的な弱点を敵にも伝えることになる。即ち、長期戦に持ち込まれた時点で負けだと。

 果たして、アストラエアは気が付いているのか。

 気が付いているとは思いたいが、アストラエアは何かに集中すると視野が狭くなる節がある。

 こんな時、通信系の魔術の一つでも使えたらと己の無力を悔い、それと流れ弾一つで数十回は死ねそうな目の前の光景への恐怖を合わせて心の奥に押し込め、ナナは下唇を噛みしめる。

 この状況下では神格魔術のせいで無茶苦茶になった地脈で並みの魔術など正常に作用しないだろうが、そのような事すらナナには分からない。

 下から上へ、上から下へ。当たれば要塞ですら真っ二つになり、生存圏は瞬時に更地と化す。そんな魔術がたった一人の小さな人影のために惜しげもなく対空砲火の如く撃ち上げられ、その隙間を縫うようにして、時にはその魔術を水飴のように捻じ曲げながら銀髪の魔女は危なげなくかわしてゆく。

 そしてまともに当たれば山脈すら貫通し、深海にすら届くほどの魔術が氷の上に立つ一人のために絨毯爆撃の如く雨あられと降り注ぎ、そして氷の上に仁王立ちになったその黒髪の魔女はそれを淡い光を放つ光の壁のような物で真正面から受け止め、防ぎきる。

 慣れたのか、はたまた麻痺したのか。音と世界の全てが、やけに客観的に見えた。

 空を舞う銀髪の魔女は上下左右と動き回り、時には這うような低空を舞い、その対空砲火を翻弄しながら黒髪の魔女の構える「盾」の死角から神格術式を撃ちこみ。

 対する黒髪の魔女は氷上で先ほども見せた、瞬間移動のような、通常とは違う消滅と出現に時間差の全くない転移術式でもってその空からの攻撃を翻弄しながら、直轄領で見せたような太陽光を使った「降り注ぐ対空砲火」も駆使しつつ、予想できない場所から、上から下からと神格術式の対空砲火を空を舞う小さな点に叩き込む。

 互いにわずかずつではあるが、肉を切らせるような被弾が続き。

 あちこち動き回る黒髪の魔女の動いた先には赤黒い点が乱雑に点を打ったように残り。

 空を舞う銀髪の魔女からは、時折たれた粘度の高い鉄っぽい液体が積もった氷屑や抉られた地形の上に薄い点線のような模様を描く。彼我の消耗は、恐らく同等。

 このままでは、長期戦になれば自動的に負けの確定するアストラエアが不利。

 古い硝子窓を通したかのように妙に緩慢に情報を伝える五感が、魔女同士の戦いの中でナナの身体が限界に近い事を告げる。

 なんとしても局面を動かさなければ。そして、手の空いた駒ならばここにある。

 ホムンクルスは、歩く魔術爆弾。そして、それは特に地脈を直接制御する霊装に大きな影響を与える。生存圏の外で人間が生きるために必要とするような霊装に対して。

 右手で鞄の中を探る。取り出したそれを、氷を纏ったかのように思い右手で持ち上げる。

 緊張して足りなくなった酸素を欲するように、大きく息を吸って。

 部品が動く小さな音だけが、遠い世界の中、妙に鮮明に聞こえた。聞こえてはいけない音が。

 動かなくなった右手から、ただの鉄塊と成り果てたそれが抜け落ちる。

 耳鳴りと共に音が遠のき、霜が降りるかのように視界がくすんだ色のノイズに覆われて。

 暗転した。

 

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