第2幕 ホムンクルス
第6話
「どうかな、順調かい?」
唐突な声に集中力を破られ、大きく息を吐いてからナナは手に持っていたそれを足元に置く。口元を覆っていたマフラーを下ろして顔を上げると、やはりこちらを見下ろすのは銀髪の魔女。
「今にも落ちるんじゃないかと気が気じゃない事と、寒さで耳がもげそうな事以外はな。肉体労働は慣れてんだ」
「そのための命綱でしょう。寒いのについては後で耳当てでも取って来るから我慢して頂戴」
そう言うと、アストラエアは滑るようにして降りてきて、ナナのすぐ脇の張り出し窓の上に腰掛ける。
「そもそもこんなとこの作業、業者でも雇えばいいのに。金ならあるんだろ」
それもそう。
二人がいるのはアストラエアの城、その尖塔のてっぺん。見下ろせば遥か下に地面を覆う白い雪が見える。真っ白なせいで距離感が感じられないのが救いか。これが模様のはっきりしたタイル張りなどだったら、とてもではないがろくに作業なんてできなかっただろう。
そして何のためにそんなところにいるのかというと。
「魔女の城の模様替えだよ。業者に頼むなんて出来るわけないでしょう。できれば誰にも知られたくないんだよ。そもそも、こんなとこまで来てくれる業者なんていないしね」
魔女の城での日常労働、彼女曰く「城の模様替え」の最中である。明らかに雑用としか思えない部屋の整理から、何の為かも分からない飾りの取り替えまで。そして今ナナがやっているのは、端的に言えば瓦の張替えである。別に割れたり外れたりしている様子は無いのだが、アストラエアにやれと言われたので仕方がない。
「あんたが言い出したことなんだから暇なら多少は手伝ってくれよ」
「私は頭脳労働担当なのさ。他にもやらなきゃいけないことは山ほどあるしね。こっちも暇じゃなんだよ」
そう言って上着のポケットから取り出した飴玉を口に放り込むアストラエア。
「暇にしか見えないけどな」
「これだって別に冷やかしに来てるわけじゃないよ。ちゃんと出来てるかの確認。割と大事なところだからね、屋根ってのは。言ってなかったかもだけど、この城自体がこの聖域を維持するためのある種の霊装みたいなものなんだよ。まあそれ以外にもいろいろ機能はあるけど、とにかくこの城の魔術的な記号性を維持するには屋根っていうのは疎かに出来ないのさ」
「だったら尚更素人に任せるなよ。雨漏りしても俺は知らんぞ」
再び瓦を張る作業に戻りながら言うナナ。
ときたま飴玉の形に頬を膨らませながら口の中でころころと飴玉を転がすアストラエアはそれを横目に見つつ。
「別にそれはいいんだよ。瓦なんてなくたってこの城は雨漏りしないしね。そもそもナナに張り替えてもらってるのだって、経年劣化とかじゃなくってその記号性の書き換えのためなのさ」
「道理でわざわざ一枚一枚場所が指定されてるわけだ。果てしないな」
「そもそもこの模様替え自体、ずっと私一人が暮らす前提で組まれていたいわば一人暮らし用のこの城を、二人用に再調整するためなんだよ。この城を霊装とみると、その一部である住人が一人か二人かじゃ誤差では済まない差が出るのさ。言っちゃえば君のための模様替えなんだから、これくらいは頑張って頂戴」
そう言うとアストラエアは立ち上がろうとするが。
「じゃあ俺らはこの城っていう霊装に組み込まれてる訳か?」
大きなからくりの、小さな歯車。
思わずそんなことを想像してしまい、一瞬作業の手が止まる。
その無意識のうちの込められた微かな棘に気が付いてかどうかは分からないが、アストラエアが浮かした腰を再び屋根の上に降ろす。
「ちょっと違うかな。そもそも霊装って言うのは、洗濯機とかこの前見たメニュー表とかみたいな、いわゆる「機械」とは違うのさ。機械は地脈や生命力、まあ俗に言う魔力で勝手に動くもの。使用者が魔術なんて何もわかってなくてもね。対する霊装は、基本的に自分で魔術を使える者が使う補助的な道具。機械が魔術を便利に、手軽にするための道具なら、霊装は魔術を複雑に、高度にするための道具なのさ。だからそれ自身に勝手に動くような機能はないし、魔術的な仕掛けというよりは記号性とかの組み合わせが重要になる。まあ、霊装にもアララトの円匙みたいな術者が存在しない例外もあるんだけど、まあその辺は省略するよ」
左の頬で小さな膨らみを作っていた飴玉を逆側に転がしてから、アストラエアは続ける
「今回の場合はそう簡単な話でもないんだけど、まあそれを極簡単に言えば城にいるのが魔女一人か、魔女と連絡員かで、城そのものの持つ記号性が少し変わってくるのさ。だから別に私たちが魔術的な仕掛けに組み込まれてる、とかいう訳ではないよ。これは大雑把な術式なら放置してもいいレベルの変化だけど、魔女の城は精密な霊装だからね。こうやってそれに合わせた調整をしてるってわけさ」
そこまで言ったアストラエアはいったん言葉を切ってから。
「分かったかな?」
「よく分からんが、まあ違うってことが分かれば十分だ」
「ま、きっとそのうち分かるようになるよ。ここにいるなら、否が応でも魔術には人並み以上に関わることになるだろうしね」
よっ、と呟いて張り出し窓の上で立ち上がるアストラエア。
見ていて不安になるような小さな足場の上で両手を広げてバランスをとると。
「そうそう、前にも言ったかもしれないけど、魔女の契約者という立場を手に入れた以上、君を縛るものは名実共にもう何もないよ。私も別に君が私とここにいることを強いるつもりは無いし、君がここを去ると言ったとしても契約を無かった事にするつもりもない。勿論、私が君を庇護するのは難しくなるけど、魔女の契約者ってのはその肩書だけで十分な力があるからね」
心の中を覗かれたような感覚を覚えつつ、ナナは瓦を貼るために屈んでいた状態から立ち上がる。いや、実際覗かれていたのかもしれない。それが魔女だからなのか、長い年月を生きた経験からなのかはナナには分からないが。
張り出し窓の上に立ったアストラエアの背中をじっと見つめる。
「……」
「あ、けど勿論ここで「悪い魔女」を手伝ってくれると、私としてはありがたいんだけどね」
ナナが答えるべき言葉を見つける前に、首だけ振りかえってそう言ったアストラエアは、ナナがこたえる間も与えず転移魔術でどこかへ消えていった。
***
足元の石張りの床から、ひしひしと寒さが伝わってくる。
十年以上毎日のように歩き慣れ親しんだ分厚い雪ほどではないはずなのだが、ここしばらく暖かい屋内にばかりいたせいか妙にこたえた。
恐らく、城の暖房も端の部分に当たる尖塔の中までは届いてないのだろう。
石造りの壁に覆われた螺旋階段を、ところどころに設けられた光捕り窓の光を頼りにナナは降りてゆく。
頼まれていた瓦の張替えはひと段落した。ひょっとしたら数日たったらずれ落ちてくるかもしれないが、専門の職人ではないのでそればかりはどうしようもない。
とっとと暖かい部屋に戻って温かい紅茶でも飲んで一息つこうかなんて考えてから、分厚い上着を着こんで溶けることのない雪の上を歩いていた数週間前の自分が聞いたら夢物語と一蹴するだろうなと自虐的に笑う。人というのは、案外すぐに慣れるもので、最初は雪の上以外で生活できることに感じていた新鮮味も、今やかなり減ってしまった。
はあ、と小さく息を吐いてから、次は何をしろと言われていたっけな、と記憶を漁る。紅茶で一息つく時間くらいはあるが、暇ではない。
直轄領から帰ってきてからは、それまでが嘘のように忙しくなった。日が昇っている間は城のあちこちで模様替えのための作業を行い、日が沈んでも内装の更新作業。もちろん、年中無休24時間仕事だった連絡員時代ほどではないが、ほとんどやることのなかったここでの最初の一週間ちょっとと比べれば忙しい方である。その忙しさに、暇だった時より落ち着くと感じてしまうのは、これまでの人生で染みついた悲しい性か。
ただ、その中でもやはり頭の片隅で存在感を主張し、その自傷行為めいた安息を妨げるものがある。直轄領で遭遇した、魔女。ナナと契約を結んだ「封書の魔女」アストラエアではなく、彼女が言うには第八位の「六分儀の魔女」。
この世界のヒエラルキーにおいて最底辺に位置する連絡員だからこそ、個人としてそのほぼ最上位に位置する魔女という者の力へ対しては尊敬というより恐れが先に立つ。まして、アストラエアとのような比較的友好的なものではなく、明らかな敵意をもっての接触では猶更。
同じ魔女であるアストラエアの聖域にいるから心をざわつかせる程度で済んでいるが、そうでもなければ全て諦めているだろう。そもそも一人で四大派閥の一つに匹敵するほどの力を持つ魔女からあっさり転移魔術で逃げおおせるのだって、並の魔術師どころか相当優秀な魔術師だって無理である。いとも容易にやって見せたが、それも魔女だからこそできた事。魔女に敵意を向けられるという事は即ち死を意味する。
いや、同じ魔女が一応は味方とはいえ、同じことか。結局はアストラエア任せという諦めの選択肢以外は存在しない。一般人どころか、連絡員であるナナがこの件についてできることは、何一つとして存在しない。考えるだけ無駄というもの。
軽く頭を振ってあの魔女の事を思考の外に追いやってから階段を一番下まで降りる。廊下へつながる扉を開け、何とか暖房の届いている廊下の端に辿り着く。
久しぶりの暖かい空気に、一瞬立ち止まってその暖かさを全身で享受し。
そして再び前に視線を向けたところで、ふとナナの目に留まったものがあった。
仕組みもよく分からない照明器具に照らされた太い廊下。その、丁度ナナが居るのと反対側の突き当りにある小さな扉。
そのまま吸い寄せられるように歩みを進め、その扉の正面までたどり着く。
なぜ数ある扉の中でその扉にだけ意識が行ったのかは分からない。よく見てみれば周囲の壁や扉より年季が入っているような気もするが、遠目から分かるような物ではない。
少し躊躇してから、そのドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。
冷たい空気が、その隙間から流れ出てきた。
部屋に足を踏み入れたナナの後ろで、音もなく扉が閉まる。
天井は高かった。遥か上の硝子の光捕り窓から差し込む微かな光が、小さなホールほどの広さのその空間の中心を、まるでスポットライトのように照らしていた。
必然的に、その淡い光の中心に視線は向く。
箱だった。
腰ほどの高さの壇の上に載せられた、細身のクローゼットを横にしたような木製の箱。
ゆっくりと、重く冷たい空気をかき分けるようにしてその箱に近付く。
ナナの動きによって舞い上がった埃が、遥か上からの光で粉雪のように輝く。
ここで、ナナはクローゼット以外の物を連想するべきだったのかもしれない。
まさにその箱を一言で表す単語が、この世には存在するのだから。
その単語が咄嗟に思い浮かばなかったのは、それが連絡員には無縁な物だからか。
その箱のすぐ傍らまで近付いて、小さく開いた開口部から中を覗き込み。
それでやっと、ナナにもその箱を何と呼ぶべきなのかが分かった。
「……棺?」
さほど驚かなかったのは、死が身近な連絡員という仕事柄か。
重厚な雰囲気を醸し出すその棺の中に眠る「彼女」に、思わず目が釘付けになる。
が。それは別に彼女があまりにも美しかったからというわけではない。確かに整った顔立ちをしていたが、それよりも明らかに目を引く部分があった。
厚い雪の中で眠る亡骸を幾度となく見てきたナナは、亡骸の顔というものを嫌というほど知っている。常冬の世界で氷に閉ざされた彼らは、腐ることもなく、おしろいをつけすぎたかのような色の薄い顔で眠り続ける。
だが、その棺の中で眠る彼女の顔には、色があった。まるで血が通っているかのような、温かみのある肌色。勿論、生きているわけではない。胸は上下することもなく、光の中を舞う埃が彼女が息をしていないことを告げている。
そして何より、その表情は寝顔ではなく、幾度となく見た「死に顔」。
魔女という単語と、眼前の不自然な棺がリンクし、嫌な方向へ想像が走りだそうとするのを感じる。ついこの前感じたばかりの魔女というものに対する恐怖に、足首を掴まれる。くるぶしのあたりから這い上がってくるそれから無理やり気をそらしつつ、小さく一歩後ずさる。
そして、早くその場から離れようと足を無理やりに動かして、後ろにある入ってきた扉の方を向き。
「驚いたかい?」
封書の魔女と、目が合った。
その場で立ちすくむナナに、ゆっくりと歩み寄った封書の魔女は。
そのすぐ横で立ち止まると。
「アカシア。私の一人目の契約者。君と同じ、ホムンクルスだよ」
棺に視線を落とすその目は、ナナの抱いた不安とは裏腹に、何か愛しいものを見る者の目だった。
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