間章1

Episode-1.4


 いっそ神様が私たちを馬鹿にしてるんじゃないかと思うくらい、突き抜けた青空だった。

 まばらに立つ針葉樹の纏った細かい氷が陽の光を散乱して煌めき、遠くに見える切り立った山脈は、眩く陽を反射するその純白の雄姿を存分に下界に誇示している。

 冷え切った手で握りしめたその手は、いつものように硬くて冷たかった。

 降り積もったばかりの羽毛のような雪の中に横たわる彼女は、小さく胸を上下させている。

「………………ごめん………」

 絞り出すようにして、もう何度目になるかも分からない言葉を吐き出す。

 悴んで指先の感覚が無くなり始めた両手で、彼女の手の硬くて柔らかい感触を探し求める。

 分かっていた。そろそろ、「寿命」だという事は。

 そのための聖域だった。彼女が「寿命」を迎えても、拡散しないように。例え「寿命」を迎えても、その中でなら私がいる限り生きていけるように。

 でも。

「……アカシア……」

 何の意味もない事なんて分かっていて、それでも呼べばそこに留まってくれるのではないかと、掠れた声で彼女の名前を呼ぶ。

 冷たく乾いた空気に喉が悲鳴を上げるが、無視してその名前を繰り返す。

 私が、彼女を聖域から連れ出したがために。

 私が、綺麗な景色を見ようなんて言いだしたがために。

 私が、彼女にもこの世界の面白さを、なんて思ったがために。

「……っ」

 溶けてゆく彼女の生命力を必死にかき集めるが、寿命を迎えたそれは集める横から無情にも拡散する。

 今すぐ彼女を連れて聖域に戻れば、きっと昨日までと変わらない毎日が待っている。彼女は聖域から出られない体にはなるが、元からあまり出ていなかったのだから変わりない。

 けれど、もはや彼女は転移魔術には耐えられない。「寿命」が迫った身でそのような魔術を使えば、その瞬間に、既に消えかかっているその灯火は吹き消える。

「まったく、諦めが悪いですね」

 力無く囁くような、耳障りの言いその声が、言いようもなく愛おしい。

「謝らないで下さい。別にあなたが謝ることじゃないんですから。この世の理に従って生きる者は、みんないずれ死ぬんです。私たちだってその理に従っている、それだけですよ」

 愛おしくて、それなのに何もできない自分が情けない。第6位なんて大層な序列をもらって、魔女なんて立派な肩書までもらって。それでできるのは、こうやって手を握るだけ。

「天寿を全うしたんですから、笑って見送ってくださいよ」

 そんなの、できるわけがない。無理やりに笑顔を作ろうとしても顔の筋肉が引きつってしまって、どんな顔をしているのかは自分でも分からない。

「……おいてかないで…………」

 似たような夢なら、何度も見てきた。

 二人で寝て起きて笑って、そして一瞬目を離すと、彼女は居なくなっている。ついさっきまで明るく暖かかった部屋は、暗く冷たく埃が積もっていて。彼女がもういないことが何故か私には分かってしまう。

 跳び起きて、不安に駆られて彼女の寝室を確かめに行き、何度笑われたことか。

 魔女は、魔女となった時点で普通の人の倍近い寿命を手に入れる。理屈は分からない。教会は神様の施しだなんていうけれど、私には人の領域を超えた者への呪いのように思える。だから、その夢は必ず正夢になる。それが怖くて、ずっと敬遠していた半不死性も獲得した。

 聖域を作って、彼女とずっと暮らし続けられるように。

 あの幸せな時間が、ずっと続くように。

「お願いだから……」

 あの夢のような日がこれからずっと続くのは耐えられない。

 跳び起きても、誰も「何を慌ててるんですか」と笑ってくれなかったら、私はあの夢から戻ってこられない。

 彼女のために手に入れたこの際限のない命を、彼女無しでどうすればいいのか。

「私だってあなたを一人残すのは不安ですよ。気が付いたらなにをどうやったんだか分からないような失敗をしてますし、家事だってほとんどずっと私がやっていたんですから。正直、明日にも何かとんでもないことをしでかすのではと心配です。けど、魔女ともあろう者がそう簡単に泣かないで下さいよ」

 ぽとり、と。凍り付いた睫毛を伝って、小さな雫が横たわる彼女の上着に小さな染みを作る。

「教会が言うには、神の国に受け入れられなかった人はその資格を得るために復活するそうじゃないですか。私はこれですから、きっと神の国へは行けないんでしょう。ですから、いつかは分かりませんが、きっとどこかでまた会えます」

「…………それを信じられるくらい、無知だったらよかったのに……」

 雪の上に投げ出されていた、私が握っているのと逆の彼女の手が、ゆっくりと動いた。

「魔女のあなたにだって、まだ分かってない事はあるんでしょう。だったら、それくらい信じてみてもいいじゃないですか」

 ぎこちない動きで彼女が傍らのポシェットから取り出したそれを、恐る恐る手に取った。

「柄にもなく日頃の感謝でも綴ってみようと思ってたんですけどね。こんな時ですし別の事に使う事にします」

 丁寧に入れられていたのだろう。折り目一つないクリーム色の封筒だった。

「まだ何も書けてませんが、そうですね、どこか行きたいところでも書いておいてください。山でも、街でも、地球の裏側でも、どこでも好きなところを」

 彼女の字で、宛名と差出人だけが書かれたその封筒を、彼女の手と一緒に両手で包み込む。

「それで、それを私たちの約束にしましょう。あなたはいつかまた復活した私と再会して、一緒にそこに行くんです。何があろうと、絶対にです」

 そうやって微笑んだその顔が、声が、全てがやっぱり愛おしくて、そしてその笑顔が私の心に深く突き刺さる。

 全ての元凶は私なのに。彼女が今こうしているのも、彼女の痛みも悲しみもすべて例外なく私のせいなのに。

「ですから、あなたは私を探してください。私はきっとこの姿ではないんでしょうけど、そこは魔女の頭脳の見せどころでしょう。そして私をそこに、約束した場所に、連れて行ってください」

 だからきっと、彼女が笑っているのに私が泣いちゃいけない。

 雪が顔に着くのも構わず、袖で涙を拭う。

「約束、だよ」

 復活なんて信じちゃいない。教会の言う神や天使なんてのはいないことも知っている。

「忘れないでくださいね」

 それでも、彼女と交わした最後の約束が破れるわけがない。

「……私は第六位の魔女アストラエアだよ。何千年経とうと忘れないさ」

 両手の間で、その手が力なく動いた。

「それは火にかけた鍋の存在を忘れなくなってから言って欲しかったですね」

 滑り落ちる何かを捕まえるかのように、ぎゅっと両手でその手を握り締めた。

「………そんな……も…ったね……」

 返事は無かった。

 私の両手の間から、力なくその手が抜け落ちる。

 ぽっかりと大きな穴が空いたような気がして、でも、その穴の底は抜けていなかった。

 そう、教会の言う復活なんて信じちゃいないし、あり得ないのも分かっている。

 けど、私にだって分からないこともあるのも分かっている。

 だったらやることだって決まってる。

 預かった封筒を丁寧に懐に仕舞い、冷えて感覚の無くなった脚でふらつきながら立ち上がる。

 私は第六位の魔女、アストラエアだ。

 そのためなら、何にだって、悪い魔女にだってなってやる。

 

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