第7話 暗闇の感情に消える

 俺は全速力で走った。石の坂を降りた。額からは嫌な汗が垂れていた。


「おい、なんなんだよ、これは……!!」


 庭の花壇の上。その信じがたい光景にこの顔はゆがみ、開いた口はふさがらなかった。


 悲鳴の発生源、昨日見たのと同じ黒い人型の影は集団で暴れている。それは、中型昆虫の死骸しがいありが群がっているようで。


「そっか、今は夜だから……また、お前なのか……!!」


 大量の血を流して倒れている白髪、俺は恐る恐るその顔をのぞき込んで確認した。


「あ…ああ……」


 声はかすれる。確定してしまうことが怖かった。そこに倒れているのが、俺の婆ちゃんであるということが。


(なんで婆ちゃんが……いつから、婆ちゃんはここにいた……?)


 影は婆ちゃんを捕食する前の儀式をするように、くるくるとキャンプファイヤーのような踊りで飛び回っている。


(あれ、何も出来ない———)


 俺は何も出来なかった。敵に立ち向かうことも、自分の命を守る為に逃げ出すことも。


「だめだ、これじゃあもう助からない。今の俺の力じゃあ、戦えない……」


(また、俺は無くすのか。もう一度、顔を合わせることも出来ていないのに———)


 まだ、ありがとうも伝えられてないのに。


 死んでしまった人にどれだけ叫んでも、もう伝わりはしない。


 再来、闇の時間の到来。迫り来る影の爪、頭皮を打ち立てる豪雨は痛いほどに冷たい。


「なんでだよ、何で俺ばっかり、こんな辛い現実を見せる……!!」


 もうすぐ影は向かってくるってのに、足がすくんで動けない。この光景のショックで、何も考えられなくなってしまったんだ。


「婆ちゃん、助けられなくてごめん。爺ちゃん、俺、強くなりたいよ———」


 俺は何か凄い力を得た気でいた。でも今のレベルじゃあ、どれだけ願ったって届かない。俺は、大切なものを守れない。


「こんなんじゃあ、誰も守れない。今だって、もう少し早く気づいていれば……!!」


 ——力が欲しい。


 どんな時でも、大切なものをこの手で絶対に守りきることのできる強大な力が。


『力が、欲しいか———』

 

 どんな最悪な状況も一転、すべてをぶち壊してしまえるような膨大な力が。


『まさか、こんなセリフを言う日が来ようとはねえ。良いですよ、さあ、思う存分解き放っちゃって下さーい』


 ——すっかり忘れていた。


 俺は約十年前、心を病んだ。


 誰だって病むことくらいはあるだろう、でもやっぱり何かが根本的に違っていた。


 だってきっかけがないんだ、何か大きなストレスが降りかかった訳でもないのに。


 なぜか、俺の心は閉ざされた。


 それは唐突だった。ある日突然、この世の全てのものの意味が分からなくなったんだ。


 遊ぶことも、学ぶことも、働くことも、お金に執着しゅうちゃくすることも、社会に絶望することも、何もかもが全部。


 そして、今自分が生きているという実感がかなくなった、自分の魂の在処ありかがどこか分からなくなったんだ。


 その時の世界は、俺が平穏に生きていくにはあまりにうるさすぎた。


 それは無力感、憂鬱感、虚無感、いきどおり、どんな言葉でも形容できない闇だった。


〜〜〜〜


 懐かしい。ここで過ごした夏の記憶の数々、その片鱗へんりんは浮かび上がる。


「これがガーベラで、これがパンジー」


 耳に透き通る優しい声。幼少期の俺は、”ねえねえ”と肩を叩いては指を刺す。


「これはコスモス、これはソケイ。そしてこれがマーガレットって言うんだよ」


 婆ちゃんは花が好きだった。俺はそんな婆ちゃんの話が好きだった。


「これは、フウセンカズラ———」


 あれ、何だっけ。俺が好きだった花言葉、もう思い出せないや。


〜〜〜〜


 俺は心の中で、ずっと覚えていた。婆ちゃんが教えてくれた当たり前だけど、本当にすごく大事なこと。


『別に急がなくなっていいじゃないですか』


 それは、俺が心を閉ざしてしまう少し前に放たれた、何気ない一言。


『そんなにずっと気を張っていたら、疲れてしまいますよ』


 その時の俺には、婆ちゃんが言った言葉の意味が分からなかった。


 でも、今となってようやくあの言葉の意味が分かった気がする。


『駄目よ、その力を使ったら!!』


 そんな俺の大切な記憶は、どす黒い一つの感情に飲まれて。


『それでは仕切り直して、戯曲その一、殺戮さつりくうたげの始まり始まり〜!!』


 ドクン…ドクン……ドクンッ……


「そして、てめえらは、死ね!!」


 ——かき消えた。


 俺の周りをとり囲んで、次々と飛びかかってくる影を拳でフルスイングの殴打。影の体には『non-object』の注意勧告。


 この体は、血塗られた一匹の狼。


 全身の血液は沸騰ふっとうし、手足の筋肉は骨の節々が震え上がるほどに強張こわばり、眼球は赤く鋭い眼光を差している。


 “殺せ”———『non-object』


 冷たい。この液体が降りしきる雨なのか、自分の血なのかも分からない有りさまで。


 “殺せ殺せ殺せ”———『non-object』


 何もかもが許せない、何もかもぶち壊してしまいたい。強い衝動は雄叫おたけびを上げ。ダラダラとダラダラと流れ続ける液体。

 

 この液体は、頭を打ち付けては垂れる雨水なのか、この両目から流れる涙なのか。


 それはやがて鼻から肺までを圧迫し何度もむせび上がり、嗚咽おえつ慟哭どうこくを繰り返す。


 “みんな、死んでしまえ”


『 error 』、爪をき立て、影に突き刺し。『 error 』、殴って殴って殴りつける。『 error 』、殴りつけてすり付けてすり潰す。


『 broken 』


 攻撃不能だったはずの障壁は、拳にすり潰されて、決壊していく。


 切り裂かれた全身の傷は痛ましく。血は、雨に溶けながら噴き出す。


 そうして十五匹もの影の集団は全て、見る影も残さず散りさった。


『起きて、起きて———』


(え……?)


 気がついたら俺は、庭の土の上でうつ伏せになっていた。正気を取り戻すと同時に、壮絶な痛みにさいなまれる。


(えっと、何だっけ。それに、この激痛と疲労感は……!!)


「そうだ、影の奴らは……!?」


 あたりを見渡すが敵はいない、それに物凄く気持ち悪い感じがする。


『レベルアップしました』

『レベルアップしました』

『レベルアップしました』

 …………


〔ステータス〕

空木蒼うつろぎそら Lv.17

〈持ち物〉

ただの傘

〈スキル〉

スラッシュ/アッパー/スライス/レイピア/殺戮の宴


「レベル17……なんだよ、これ。俺がやったのか……?」


 出血多量、ただ地面に突っ伏して。


「あれ。それに、何か大事なことが思い出せない気がする———」


 胸に手を当て、目をつむるが。


「だめだ。思い、出せない———」


 何か大事なものを無くして、心にぽっかりと穴が空いてしまったような、猛烈もうれつな喪失感にかられた。


「そうだ、婆ちゃんは……!!」


 今の状況を思い出した俺は、焦った。咄嗟とっさに首を曲げて振り向くと。

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