さん
「まきが倒れたぁ?」
昼頃に遅刻して授業に出てきた私を迎えたのは、切羽詰まった顔したみーちゃんの顔だった。
みーちゃん曰く、今日のまきは朝から随分と元気がなかったらしい。いや、登校したばかりのまきは、いっつも大体元気がないわけだけど。二・三限あたりから、本調子が出てくるタイプだ。
ただ、今日はそんな感じじゃなかったらしく、授業中もどことなくそわそわとしていたらしい。段々と様子がおかしくなって、昼休み前にとうとう倒れてしまったとのことだ。
「保健室の先生が、めいはお見舞いに顔出してって言ってたよ」
「わかったー……大丈夫かな?」
「さあ、とりあえず行ってみたら? で、今日はなんかあったん? めいが遅刻してるのなんて初めて見たけど」
「ほんとたまたま、通りすがりの外国人のお姉ちゃんに道教えてた」
「どんだけ道教えてんのよ……」
「いやあ、清水寺見たいっていうから仕方なく」
「どこまでついてってんの……」
「意外と京都住んでるとさー、行かないじゃん? だから、つい」
「はいはい、とりあえず早めに行ってあげなよ?」
「うん、ありがと」
そんなやり取りをみーちゃんと交わしてから、私は荷物だけ軽く置いて、保健室へと向かうことにした。通りがかりにみた隣席はまきのノートが置きっぱなしにされている。
まきの現国のノートの隅っこには、扇風機×、ポカリ△、中庭×(蚊のため)、シーブリーズ×、保冷剤検討中、などと書いてある。昨日以前のやり取りっぽいけど、まきも大概気にしいだなと想いながら、私はそっとノートを閉じた。そのまま誰にも見られないよう、まきの机の中にしまっておく。
そうしてとことこ歩き出した。
さてさて、倒れたとかいうまきに会いに行こう。
お見舞いにポカリでも買いながら。
※
「お、来た来た」
保健室のドアをがらっと開けると、丸メガネの養護教諭が私に向かってひらひらと手を振った。振られていないもう片方の手は、誰かさんの手を握っている。
この葉山せんせーは学内の恋愛ごとの相談に優しく乗ってくれることで定評のある先生だ。ちなみに先生自身は三十路も過ぎた独り身だったり。なんでみんなこの人に相談するんだろうね。やっぱ保健室の先生だからか。
ちらっとベッドの方を覗くとすーすーと穏やかな寝息を立てているまきがいた。どうやら、今は落ち着いてるっぽい。
私はちょっとだけ、ふうと息を吐きながら、まきの向かいの席に腰を下ろす。
「ちょうどよかった。コーヒーでも入れるから、握り役を代わってくれ」
「へーい、私カフェオレで。で、手ぇ握ってたらいいんですか?」
「ああ、それで大分マシになるから」
そう言って葉山先生はゆっくりと、まるで陶芸品でも扱うみたいにまきの手をそっとベッドに添えた。それと代わる形で私が、まきの手を、なんとなく、同じようにそっと握った。
寝ている人間の手をとることにどれだけ意味があるのやら。
軽く握ったまきの手はどことなく冷たかった。保健室はエアコンが効いてるからかな、これくらいなら心地いい。
「ありがと」
「いえいえ」
そんなやり取りをしてから、まきの顔をそっと覗く。寝苦しい感じもなく、随分と穏やかなものである。死んでるみたいだろ? 生きてんだぜこれ。
コーヒーの準備をした葉山先生はべっどに備え付けの台を出すと、私となりにそっと腰を下ろした。
「ところでさあ、めいちゃんや」
「ぶっ飛ばしますよ」
「……失敬。めいさあ、まきの病気のこと知ってる」
「病気…………、『抱き着き症候群』ですか?」
備え付けの台の上で、カップを二つ並べた葉山先生はこっちを見てにやりと笑った。
「ふーん、まきがそれ、話したの?」
私はその問いに果てと首をかしげる。あんな冗談みたいな病気、わざわざ話したからなんだと言うのか。
「え? ……まあ。なんか酷くなったら頭痛と吐き気で血も吐いて最後に意識を失うって……」
まきと出会って数か月ほどしたころに言った冗談をどうにか想いだしながら返答する。
ただ、その返しは予想外だったのか、葉山先生は途中からけらけら笑い始めた。
「っぷはは、吐血までするの? 盛ったねえ、からふね屋のパフェくらい盛ったねえ」
「それだいぶ盛ってないですか?」
あのクソでかパフェと同じくらい盛られていたら、それはえらいことだ。通常の二倍くらい盛られていることになってしまう。下手すりゃ三倍いってもおかしくない。
「……っはっはっは。……はあ、うん、つまり
「…………冗談?」
先生はそう言って笑いながら、ガムシロップを私の前にもってきた。
まるで―――。
「セロトニンっていう名前は聞いたことある?」
「えと……幸せ物質とかでしたっけ」
まるで―――まきの言葉が冗談なんかじゃ、ないみたいに。
「そ、脳ってのは、セロトニンみたいな伝達物質のカクテルみたいものでね。いろんな感情が脳内の伝達物質によてって創られているわけだ。そういうもののバランスで人間の気分ってのは決まってると言ってもいい」
先生はインスタントコーヒーをティースプーンにそっと掬う。
「例えばストレスはノルアドレナリンっていうのが出ると湧いてくる」
次は、さっきのガムシロップをそっとカップに注ぐ。
「興奮や期待はドーパミンっていうので起こる。脳内麻薬ってやつね、聞いたことあるでしょ?」
頷く私も構わず置いて、最後にミルクをカップいっぱいに注いでいく。
「で、幸福感や安心感っていうのは、セロトニンで起こるの。ちなみに大雑把に言うとうつ病っていうのは、脳みそがセロトニンを上手く分泌できなくなったりして起こってたりする。気持ちの問題っていうより、内臓の調子がおかしくなってるようなもんなのね。だから、本人がどれだけ頑張っても、どうしようもなかったりするんだけど」
カップになみなみと注がれたそれを、先生はゆっくりと零れないように混ぜていく。甘く焦げたような色がミルクのなかで線になってやがて溶けて、ゆっくりと色を均質に変えていく。
「まきはね、そのセロトニン……幸福を感じる物質が、うまく創れないの」
「………………」
「うつ病……って最初は想われてたんだけど、脳の検査をした時にどうにも異常が見つかって。もともとの器質的にそういうのが苦手な脳なんだっていうのがわかったの」
ティースプーンがかちゃりと置かれて、もう一つのコップに冷えた水が注がれる。こっちのカップは黒くて、甘くて、でもコーヒーの焦げたような色がそのままカップに浮いている。
「薬で補助したり、本人も努力したり色々してるけど、やっぱどうしても限界がある。自分の意思ではどうしうもないほど、暗くなって、落ち込んで。脳の問題だからね、気持ちじゃどうにもならない。身体が震えていうことも効かない、涙は勝手に零れてくる。…………そんなこの子が、ある時至った解決法があるんだけど……なんだと想う?」
眠ったままのまきの顔を少し見た。穏やかで落ち着いていて、私に手を握られたままのその顔を。
「…………誰かに抱き着く」
「……正解」
抱擁はセロトニンという物質を脳に溢れさせるものらしい。
そういえば、日にあたることや、散歩したりすることもセロトニンを生み出すんだっけ。
「…………うつ病ともまた違うんだ。専門の医者が便宜上つけた名前がまさに『抱き着き症候群』。抱きつく病気じゃなくて、抱き着かないと心がどうしようもなく落ち込んでしまう、そんな病気」
昨日の昼休みを想いだしながら。今までのまきの言動を想いだして、私はまきの寝顔をじーっと見ていた。
「…………どうして今、教えてくれたんですか?」
ただ、聞くまでもなく、返答に少し察しはついた。
もし、それを知ったのが出会ってすぐのことだったら。
抱き着いてくるのが、病気によるものだと知ってしまったら。
私たちは今と同じ関係を築くことができただろうか。
そんな私の問いに葉山先生は、優しく微笑みながらそっと―――。
「
そんなことを口走った。
「はあ?」
「いやはや、本人から口止めされててね。『私がちゃんと伝えるから、ちょっと待ってー』って。で、待ってみたはいいものの、はや数年。何回か確認取ったけど、『いや、まだだと……』『もうちょっと……もうちょっと……』『明日には……いや来週には言いますー』だって。いやあ、いい加減先生しびれ切らしちゃったよね。ちなみに最後のは三週間前の話ね」
うんうんと頷きながら、この教師もどきはなにやら宣いだしていた。
「それ、まきにバレたらやばくないです?」
なんだかよくわからんが、本人的にいうタイミングがあったはずなのだ。本人の病気なのだから、本人の意思を尊重してやれよとは想うのだけど。
ただそんな私の問いに葉山せんせー(もどき)はずるずると真っ黒なコーヒーをすすりながら答えを返してきた。
「君はロミオとジュリエットは、バッドエンドで終ってよかった……と想うタイプか?」
「…………はあ?」
「ロミオとジュリエットは、最後に仮死状態になったジュリエットを見て、ロミオは絶望して自殺しちゃうわけだ……。本当はしばらくしたら目が覚めるのにね? で、それを見たジュリエットも後追い自殺をかまして。めでたくバッドエンドなわけだけど、これ君が端から見てたらどうする?」
恐らく苦く甘いだけのコーヒーを先生は勢いよく飲み切って、台にかぁんと叩きつけた。
「そりゃ悲恋の方がお話としては綺麗だけどね? でも私は嫌だなー、普通にロミオに『ジュリエットは仮死状態だからちょっと待ってれば目が覚めるよ』って、教えてあげればそれで済むじゃん。情緒はないかもしんないけど、それで二人は笑って暮らすんでしょ?」
私が握っていた手にそっと力がこもった。
「相手のことを想って言わないのも、聞かないのも、ある種の美しさではあるけれど。ほんとの幸せかっていうと私は首を捻る。本当に相手が大事なら、そんで自分を大事にして欲しいなら。ちゃんと伝えて、それを踏まえたうえで一緒に居ればいいじゃない?」
そこまで言い切った後、先生はがたっと勢いよく椅子から立ち上がった。
「と、いうわけで、私はまきに怒られないうちに退散するわ。端から見てたら君たちはもうちょっとお互い喋るべきだと想うよ」
私はぼんやりと握った手を眺めてから、もう一度先生を見た。
「当人同士の意思はほっといて……ですか?」
「人間関係って当人同士だけで解決できるほうが少ないぞ、若人よ」
「なーる。ただ……それっていわゆるお節介おばさんムーブでは?」
「自覚あるわー。故にモてない。……って、そんなことは置いといて。んじゃそろそろ、ほんとに私退散するから」
まきによろしく、といったまま先生はさっさと保健室を出て行ってしまった。一体、何処に行く気だろ。というか、ここ放置していいんだろうか。
そんな私の疑念と、まきと、ミルクたっぷりのカフェオレを放置したまま、ドアが勢いよく締められる。ふむ、さてはてどうしたものかね。
「どうしよっか、まき」
だから私は、そう告げた。
「…………」
布団が顔までせり上げられた。
ひっつかんで引っぺがすと、顔を真っ赤にしたまきがそこにいた。朱色を通り越して若干、ピンク色だ。面白いねえとか考えながら、私は残されたカフェオレに手を伸ばす。
「………………」
「………………聞かなかったことにするというのは」
「うーん、無理」
さすがにちょっとねえ。百歩譲ってここで忘れても、あとあと想い出して聞いてしまいそうだ。
「………………ここでの記憶をなくすというのは」
「……いや、できるんならいいけどさあ」
「ですよね……」
さすがに、なあ、無理がある。漫画の世界じゃないのだから、そう簡単に記憶喪失なんてなれもしないのですよ。
「…………」
「……………………黙ってて、ごめんなさい」
そう言って、まきはすごすごと縮こまるように頭を下げた。
「うん、許す」
「……早くない?」
「いやあ、まあ、しゃーないんじゃない? 私がもし逆だったら……まあ、そう簡単には言えないだろうし」
信じてもらえるかどうかも怪しいっていうのが、まず第一に来るだろうし。私も結局、先生に言われたからある程度納得しただけだしね。
「……そう……かな」
「うん、まあびっくりはしたけどね。そういや結局、吐血はしないの?」
そう尋ねながら、私はカフェオレに口をそっとつけた。
「……吐血は……しません。お腹とか頭痛があったりはあるけど、すっごい気分が落ち込んで辛くてしんどくて……ってくらいかなあ。本当にひどいと今日みたいに倒れちゃったりするわけだけど……」
まきはそう言って、自信なさげにそっと私の方を窺った。
私はふーんと言いながら、腕を組んで目を閉じて考えてみる。
自分の脳みそのバランスが崩れてしまって、幸せを感じられなくなる。抱き着いているときだけ、なんとなく幸せになっていける。
………………。
…………。
……。
いや、わからん。まあ、わからんから理解を得られなくてしんどいって話だろう。それはまあ、わかる。でも他人の頭の中を想像するのって、難解だ。フロイト先生はよくこんなものやる気になったものだ。
「うーん、今の私の限界想像力で、常に生理状態……ってくらいしかイメージできん」
「え―……私、生理軽いから逆にわかんない」
「だよねー……」
「あはは……」
やっぱ、そう簡単にわかり合えやしないか。
しばらく、そうして沈黙が続いた。
その間、私はカフェオレをずずっと吸い続ける。
なんだっけ、苦みと甘みとまろやかさ。違うか、ノルなんちゃらと、ドーパミンとセロトニンか。
混ざり混ざって、人の心、というか脳みそはできてるらしい。
どれかが欠けてもバランスは悪い。私はブラックもノンミルクも、ただの甘いミルクも好きではないのだよ。カフェオレくらいがちょうどいい。
「でもまあ、あー、なるほどって感じだったかな」
「…………え?」
まきは少し驚いたようにこっちを見た。
「すっごく抱き着いてくることとか」
「あ……うん」
ちょっとだけまきは頭を掻いて落ち込んだ。
「それなのに、私が重くないように体重をかけてこないこととか」
「…………え」
「私が暑いって言ったら、私が暑くないように色々試してたこととか」
「……あ」
「あとやたら散歩したがるところとか。まあ、うん、なるほどって感じかな」
辻褄はあうのだろうね。色々と、そこに至るまで、まきはまきなりに気を遣って、頑張っていたのはよくわかる。
なら、それでいいんじゃないだろうか。
「えと……あの」
だからまあ。
カフェオレを、どこまでもまろやかさに満たされた、ミルクたっぷりのカフェオレを啜りながら。
「これいうと調子乗るから言ってこなかったけど」
「…………」
うん、私は、こういう味が好きなのだ。
「抱き着かれるのは、私も嫌じゃなかったし」
抱きしめるという行為で人は幸せを感じるものらしい。
なんでかはよくわからない。どうしてそんな機能がついているのかも、それにどんな恩恵があるのかも私はよく知らないけれど。
たったそれだけで人間は幸せを感じることができるのだ。
抱きしめた側も、抱きしめられた側も。
胸の奥の痛みがじんわりと溶けていくような。
荒いでいた息がゆっくりと解けていくような。
そんな感覚を、どうやら幸せと呼ぶらしい。
幸せって言葉の割に、ちっとも観念的じゃなくて、えらく物理的な話だけど。
まあ、意外とそんなものかもね。人間だって、脳みその反応で動いてるわけだしね。
そう想って軽く微笑んだ。
高校で出会ったからまだまだ先は長いけれど、まあその時はその時の私たちがどうにかするでしょう。
まきは顔をピンクを越えて真っ赤にして、きょろきょろと周りを見回した後、がばっと両手を広げてきた。
ただすぐに抱き着くわけじゃなくて、何度か私に目線で『大丈夫?』って確認をとってくる。私は軽く苦笑いして、大丈夫って頷いた。
それから、私がカフェオレのコップを置くと同時に、まきが胸に飛び込んできた。
柔らかな手が私の背中に回る。胸同士がくっつくみたいにぎゅっと抱き寄せられる。身体中をしっかりと、確かめるみたいに、ただ体重がかからないようにどこか優しく。そんな風に、抱きしめられた。
胸の奥が解けていく。
息がゆっくりと落ち着いていく。
身体の中にある薄い痛みが気づけばそっと引いていく。
これを幸せと呼ぶそうだ。
まあ、うん、悪くないね。
試しにまきの背中に手を回してみた。
ゆっくりと傷つけないように注意しながら、肩を、肩甲骨を、背中を、ぎゅっと抱き寄せる。
そうやって両手を回すと、自分の手の中にまきの身体が全部感じられた気がした。こうやってみると、まきもけっこうほそっこいね。一部がふくよかだから、どうにも誤解していましたわ。
そうして私たちは抱き合っていた。
これを幸せと呼ぶそうだ。
まあ、うん、手の中にあるまきは、なんでかずびずび鼻をすすっているわけで、肩に添えられた頭から何やら湿っぽいのが滲んでいるわけだけど。
まあ、それもいいでしょう。
まあ、これも悪くないでしょう。
なにせ今幸せなのだから。
ミルクのように、まろやかなその味を、私達は確かに嚙みしめているのだから。
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