「またネ」

 ヒューゴにしてみれば、マクシミリアンの身バレは本人も把握済みだと思っていた。

 ストレスが溜まったときに籠城する書斎から時折聞こえる奇声や、忙殺されたときの現実逃避なのか延々と続く妄想だだ漏れな独り言などなど、まさかすべて無自覚だったとは。


(うん、知らないほうがいいこともあるな)


 このまま無自覚でいてもらったほうが、マクシミリアンにとってもストレスを溜め込まずにすむなら、そのほうがいい。決して、領主館の楽しみを奪わないようになどと考えたわけではない。


(そういえば、ピュオルに送り出されるときに読者だとカミングアウトした奴がいたが、まさか……)


 屋敷全体に知られているとは、考えもしなかった。

 もちろん、デボラは身バレもすべて把握している。彼女はいつになったら夫が気づくのか、どんな顔をするのか、楽しみですらあった。

 いったいどんな顔をして帰ればいいのか。と頭を悩ませかけて、今さらだなと開き直り顔を上げた。


「しかし意外だな。お前はあまり小説を読まないとばかり……」

「あの頃は、読書を楽しむ余裕がなかったので……」

「なるほど」


 それは心に余裕ができたということで、喜ばしいことなのだろう。けれども、自分の百合小説のせいでどうしても素直に喜べなかった。

 気まずくなりかけた空気を払拭するように、ヒューゴは慌て言い募った。

 監獄長がリリー・ブレンディの古参のファンだということ。マクシミリアンが廊下で耳にした図書室の百合専用本棚が監獄長の力作だというから、いかに重度の百合好きか察っせられるほどだ。


「なぜか、看守だけにととまらず、囚人まで百合の信奉者が増えてるんですよ」

「百合の信奉者……」

「ええ、意味がわからないですよね。僕もです」


 頷くヒューゴは真剣そのもの。


「意味がわからないですが、おかげでこの監獄の治安が改善されてるので、マクシミリアン様には感謝しかありません」

「治安が改善?」

「ええ、それも劇的に」

「ただの娯楽小説だぞ」

「だから言ってるじゃないですか。意味がわからないですがって」


 ため息をついたヒューゴは、実はそれほど百合が好きというわけではない。BL小説は受け付けないけれども、百合はギリギリ読める程度で、元主人が書いたものと知らなかったら、まず読まなかった。そんな彼が、監獄長のそれほど好きでもない百合談義の相手をせねばならない。


「もう、これは僕に与えられた罰だと言い聞かせています」

「…………」


 なんだかとても申し訳なくなった。それが顔に出ていたのだろう。ヒューゴは咳払いをして、「本題はそこではなくてですね」と続けた。


「みなさん、新作はまだかとうるさいんですよ、ブレンディ先生」

「……いや、そもそもただの趣味だし」

「趣味でもかまいませんが、大勢のファンを抱えた人気作家だと自覚してください。このままでは、暴動が起きますよ」

「お前も冗談言うんだな」

「僕だって冗談いいますが、こんな面白くない冗談言いません」

「ハハハ……」

「それで、作家業はやめたとか言わないですよね」

「…………」


これは、真摯に答えなければならない。ヒューゴの目に気圧されながら、マクシミリアンは慎重に口を開いた。


「やめたわけではないが、今は書いていない」

「それはつまり、もう……」

「いや、今は書いていないがそのうち必ず新作は出すと決めている」


 舌足らずなチェチェが妻を「おねえさま」と呼んだあの最高の瞬間を共有しないという選択肢などあってたまるか。

 なぜか急に込められた熱意に引きながらも、


「……そうですか。わかりました。気長にお待ちしております」

「ああ。確約できなくてすまないな」


 守れない約束はできないことを申し訳ないと思いつつ、ヒューゴに報いるためにも早く両親の仇とケリをつけなくてはならない。

 できることなら、彼を出獄させてやりたい。けれども、彼に恩赦を与える権限はない。国王のみだ。頼み込むことはいくらでもできるけれども、ジャックの性格とヒューゴのしでかしたことを考えると、まず難しいだろう。すでに減刑を聞き入れてもらっているから、なおさらだ。


「……ン」


 会話が途切れたのがわかったのかチェチェが、ヒューゴの袖をクイクイと引っ張る。


「…………」


 あえて意識しなよう努めてきたヒューゴは、彼女ではなくマクシミリアンに視線を向けて助けを求めた。


(さて、どうしたものか)


 二人で話している間も、チェチェがずっと熱心にヒューゴを見つめていたことに、もちろんマクシミリアンは気がついていた。


「あ、ン……」


 伝えたいことがあるのに、大陸語でなんと言ったらいいのかわからず、チェチェはもどかしそうに、唇を噛んでいる。いつもはリチャードかチャールズが彼女の足りない言葉を補ってくれることで、コミュニケーションに困らなかったのだから、無理もない。

 マクシミリアンは、今ここにいない双子の代わりになれない。


「チェチェ、彼の名前はヒューゴだ」

「ヒュー、ゴ? ヒューゴ、ヒューゴ!!」


 目をキラキラ輝かせて嬉しそうに名前を連呼するチェチェに、当のヒューゴは涙目だ。

 無邪気なところなど死んだかわいい妹と重ねそうになる少女を、邪険にできるはずがなかった。かといって、積極的に子どもと関わってこなかったせいで、どう接したらいいのかさっぱりわからない。


(そういえば、なんで俺はマクマクなんだ?)


 長ったらしい名前が呼びづらいのかと考えていたけれども、彼以外の名前はすぐにちゃんと呼ぶのだ。


「ヒューゴ、ヒューゴ……」


(解せない)


 あとで、チャールズに何か理由があるのか問いたださなければ。などと、目の前の二人を完全に他人事として眉間にシワを寄せていた彼に、とうとう耐えかねたヒューゴが悲痛な声を上げる。


「マクシミリアン様……」

「ムゥ……ヒューゴ、チェチェ見テ!!」

「あ、はい。すみません」


 しびれを切らしたチェチェは、とうとう憤慨した。顔を真っ赤にして頬をふくらませてプンプンと怒る彼女に、ヒューゴは不覚にも可愛いと胸がキュンとしてしまった。


「チェチェ、ン……、チェチェね……」


 やっとヒューゴが意識を向けてくれたというのに、チェチェはもじもじと口ごもる。思わず口元がニヤつきそうになったそのとき、


 トン、トトン、トントン……


 控えめなリズミカルなノックの音が、静かに響いた。しんと静まり返る。


「迎えが来た。……チェチェ」


 行くぞと腰を上げたマクシミリアンに、チェチェはしばし視線を彷徨わせてからこくんとうなずく。マクシミリアンは、意外に思った。


(もっとヒューゴと一緒がいいとかごねだしたら、どうしようかと思ったんだが……)


 杞憂でよかった。安堵する一方で、やるせなくなった。

 チェチェがヒューゴに好意を寄せているのは、誰がどう見ても明らかだ。それが、恋慕と呼んでいいものかはわからないけれども。

 スムーズな会話は難しくても、アウルム族の巫女の彼女は空気アウルを読める。

 だから、ヒューゴと別れなければならないと理解したのだろう。名残惜しそうに彼の袖から手を離して、立ち上がる。そうして、ヒューゴに向き直ると右耳だけにあった金の耳飾りを外した。


「ヒューゴ、これ」

「これ? これを僕にくれるんですか?」

「ん」


 コクリと頷いて、耳飾りを置いた手を彼に突き出す。ヒューゴがマクシミリアンに目で伺いを立てると、マクシミリアンは笑みを浮かべて肩をすくめる。


(好きにしてしろ、ということか)


 不思議な少女に視線を戻したヒューゴは、自然とやわらかい笑みを浮かべて耳飾りを受け取った。


「ありがとう。大切にするよ」

「ん!!」


 たちまちチェチェの顔が輝いた。あまりの眩しさに、ヒューゴは目を細めて笑みが深まる。

 そうしている間も、控えめなノックは続いている。


「チェチェ、行くぞ」

「ん」


 チェチェを背負ったマクシミリアンは、あらためてヒューゴに向きなおる。


「ヒューゴ、今日は本当にありがとう。ありがとうなんて言葉じゃ到底足りないが、ありがとう」


 頭を下げるかつての主人に、彼らしいとヒューゴは苦笑してしまった。


「再びお役に立てる日が来るなんて、夢にも思いませんでした。マクシミリアン様なら、間違いなく立派にやり遂げてくれると信じてます」


 そう言って、ヒューゴも深々と頭を下げた。これで、この先何があろうと獄中の余生をまっとうできる。


「またネ」


 そう言ったチェチェの声があまりにも無邪気で、急に熱いものがこみ上げてきた。

 静かにドアが開いて閉まる音がしても、顔を上げられなかった。


「またネ」と言った不思議な少女は、再会を信じて疑わないのだろう。

 それでも、いつかはそれが叶わないと知るだろう。ヒューゴが何をしたのかも。そのとき、彼女はヒューゴをどう思うのだろう。悲しむだろうか。純粋な好意を寄せたことを恥じるだろうか。それとも、取るに足らない記憶に埋もれるてしまうのだろうか。


(ああ、そうか。僕だ。僕のほうが、「また」と言いたかったのか)


 かつての主人が密かに訪れるという非現実的な一連の出来事を、夢や妄想と片づけるには、あまりにも現実味がありすぎた。なにより、握りしめた拳の中で存在を主張する耳飾りがそれを許さない。


「後悔させろなんて、どの口が……」


 嗚咽とともにこぼれたのは、激しい後悔だった。

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