史上最悪のクスリ

 なぜ、気づかなかったのか。

 入れ墨の男が、治安の悪いの教会通りに出入りしていたのは確定していたのだから、魔女のクスリが使われた可能性は十二分にあったのだ。

 今なら、ヒューゴが言った「今なら万が一の可能性」の意味もわかる。

 長年、花の都に影を落としていた病巣の根絶のため不可侵であった教会に踏み込んだのは、五年前。王妃ジャスミンの従姉が被害にあったこともあってか、即位前からジャックの取り締まりはそれはもう厳しいものだった。現在は、魔女のクスリの撲滅よりも教会通りの治安改善に重きをおいてるところまできている。教会が握っていた製法の拡散を防ぐためにも、マクシミリアンであっても詳細を知る権限はない。おそらく、中央はヒューゴが代用品と言った魔女見習いも把握済みだっただろう。

 魔女のクスリを所持しているだけで問答無用で厳罰に処される今なら、代用品と本物の中身をすり替えを危惧するのは、自然な流れだったに違いない。

 一時的とはいえ、教会に潜伏し魔女のクスリに関わっていたヒューゴならなおさらだ。


 唇を噛むマクシミリアンに、ヒューゴは親指と人差し指で輪を作ってみせた。


「魔女のクスリは、通常はこのくらいの固形状です。それを砕いて服用するのと、固形状のまま香にする。使用方法としては、この二つが主流です。特に後者は、初心者向けといいますか、敷居が低いです。煙で魔女のクスリの成分を摂取するわけですが、強烈で独特な臭いなので、例えば酒を飲んた酩酊状態で魔女見習いを嗅げば、そこそこ魔女のクスリのイイ気分を疑似体験できます」

「臭いは記憶に残るとは聞くが……」

「その通りです。もっとも、すぐに臭いで想起させた疑似体験程度では満足できなくなります。結果、魔女のクスリの依存を強めるわけです」

「ろくでもない話だな」

「ええ、まったく本当に」


 魔女のクスリがどれほど危険かは、王国に生まれたならほとんどの者が耳にしたことがあるはずだ。真っ当な国民なら、教会に近づこうとすらしない。それでも、どこからともなく漏れ聞こえてくる体験談は多感な若者を惑わすに充分だったのだろう。フィリップが魔女見習いを入手するに至ったドラ息子など、格好のターゲットだったに違いない。

 それ自体は人体になんの害のない代用品の存在は、なるほど王国史上最悪の麻薬の敷居を格段に下げることになったはずだ。見習いに満足できなくなる頃には、魔女のクスリにすっかり依存させられてるのだから。


(ヒューゴが関わらないほうがいいと言ったのも、そういうことか)


 そんな悪辣な代用品を持っているだけで、リセール公の立場は非常に危うくなる。ヒューゴはマクシミリアンの立場を心配してくれたのだ。


「なぁヒューゴ、魔女のクスリは媚薬代わりにもなるのか?」


 額を抑えながら尋ねるマクシミリアンが言っていた事件がどのようなものか、いやでも察せられる。

 ヒューゴはため息をついて、肯定した。


「もちろん、なります。そもそも、魔女のクスリは性的快楽の増幅といった媚薬の効果もありますから」

「そうか」

「魔女のクスリなしではセックスできないとハマる者も少なくないですし、僕なんかも度々誘われましたし……もちろん、断りましたよ。あんな盛りのついたケダモノの交尾で、寿命を縮めたくはなかったので」


 そう吐き捨てると、ヒューゴは魔女見習いを机に置いて膝の上で手を組んだ。


「マクシミリアン様にこのようなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが、魔女のクスリを使った犯罪で一番多かったのは強姦です」


 今でこそ、強姦は犯罪として裁かれる。とはいえ、数十年前までは罪ですらなかった。狂王の数少ない功績である婦女子保護法はまだまだ課題が多く、いまだに女を軽んじる風潮は根深く残っていた。

 ヒューゴが教会に潜伏していた当時がそうなら、三五年前がどうだったかは想像に難くない。

 王国の女たちの幸せを願う思いが高じて百合小説を書き始めたマクシミリアンにとって、これほど不愉快な話はないだろう。怒りに拳を震わせる彼に、ヒューゴは陰鬱な声で告げる。


「三五年も前ですと、当然僕が教会にいた頃よりも魔女のクスリが濫用されていた頃です。……こんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、魔女のクスリくらいしか手がかりがないような事件を解決するのは、諦めるべきです」

「諦める? 諦めるべき?」


 マクシミリアンは何を言われたのか、理解するのに時間がかかった。そうして理解が追いつくに従って、もっともなことを言われたのだと打ちのめされた。

 国王ジャックは教会通りの取り締まりを強化する気はあっても緩める気は、毛頭ないだろう。この五年で、いったいどれほどの人数を断罪してきたことか。もし、その中に犯人がいたとしたら、マクシミリアンでもなすすべはない。仮に逃げおおせていたら、それはそれで絶望的ではないか。


(諦めるのか、ここまできて……)


 託されたとはいえ、あの明晰王でも解けなかった謎を解くなど土台無理な話だとわかっていたはずだ。残りの有力な手がかり――入れ墨だけで犯人にたどり着ける可能性がいったいどれほどあるというのか。フィリップに調査を命じられた者たちが、どれほど優秀だとしても絶望的なのははっきりしている。

 そもそも、父と母のことが知りたかったのではないか。それなら、三人の叔父たちに巡り会えた時点で達成されたようなものではないか。

 ここまで至るのに、どれほど勝手を許してもらってきたか。妻だけではない。わざわざ海をわたってくれた双子とチェチェに、領主館の者たち、それからリセールのすべての民。リセール公の立場では到底許されないことだというのに。これ以上、甘えるわけにいかない。それこそ、生まれてくる我が子に合わせる顔がないではないか。

 潮時の二文字が、はっきりと頭に浮かぶ。従弟の国王でも会うことが叶わない三人の叔父たちに会えた。二度と会うはずもなかったヒューゴともこうして会い、心のわだかまりを取り除くことができた。

 充分すぎるほど、よくやったのではないだろうか。これ以上望むのは間違っているのではないだろうか。


(諦める、べきなんだろうな)


 けれども、諦めきれるのか。この先、諦めたことを後悔しないか。

 マクシミリアンは、大きく息を吐いてヒューゴを見据えた。


「三五年前の強姦事件の被害者の一人は、俺の母だ」

「そ、それは……」

「よりにもよってその入れ墨の男が、俺の父と母を殺した」

「……」

「それでも、お前は諦めろというのか」


 絶句し青ざめるヒューゴに、マクシミリアンは続ける。


「そもそも、頭脳明晰な叔父上ですら解けなかった謎だ。俺なんかが解決するなんて、無謀すぎるかもしれない。だが、諦められない。一生、死ぬまで俺の父と母を殺した刺青の男を探し続ける」


 王太子夫妻暗殺事件の詳細を知ってまだ一ヶ月と少ししか経っていない。フィリップが犯人への憎悪を抱えてきた歳月を考えれば、諦めるにはまだ早すぎる。絶望的とはいえ、フィリップの教会通りの調査はまだ終わっていない。

 ジャックに事情を打ち明けて教会の資料を開示してもらうこともできる。あの従弟のことだから、事情を聞けば惜しみなく協力してくれるだろう。下手をすれば、マクシミリアンよりも積極的に犯人探しをしそうなので最終手段にしたい。


「ありがとう、ヒューゴ。そもそも、ここに来たのも駄目で元々だったからな。魔女のクスリだとわかっただけで、充分だ」


 よくよく考えてみれば、最初から犯人探しは絶望的だったのだから、諦めるかどうかなど、今さらだ。そう、フッと吐息をこぼすように微笑むマクシミリアンに、ヒューゴはまだますます顔を青くさせていた。


「あ、あの、三五年前の事件は、その……もしかして、月虹城で起きたのですか?」

「ああ、月虹城だ。婚前だったから、父の七竈館ではなくてキャサリン妃の雛菊館で花嫁修業していた頃だったそうだ。……ヒューゴ、どうかしたか?」


 マクシミリアンの母が被害者の一人だと聞いて少し考えれば、ヒューゴなら現場が月虹城だと当たりをつけるのも容易だろう。心苦しそうだったとはいえ、マクシミリアンに魔女のクスリが強姦に使われていたと言ってのけた彼が、顔面蒼白になるほどのこととは思えない。それなのに、愕然としているヒューゴは、非常に不可解だった。


「ダイジョブ?」

「っ!」


 チェチェの声に我に返ったヒューゴは、弾かれたように立ち上がると机にあったカルテを裏返して勢いよくペンを走らせた。突然の行動に驚き戸惑うマクシミリアンは、彼の手元を覗き込む。


「ヒューゴ、お前、本当に……っ」


 どうかしたのかと言いかけた声は、驚愕で完全に消えてしまった。

 あっという間にペンを置いたヒューゴは、愕然としているマクシミリアンにその紙を突きつける。


「先ほど犯人のことを入れ墨の男とおっしゃいましたが、その入れ墨はこれではありませんか?」


 そこには、男性の胸部とあの黒い太陽がはっきりと描かれていた。

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