しらす漁、発祥の地にて。
しらす丼
舞阪漁港ー弁天島
この想いをあえて口にするのなら、遠距離恋愛をしている彼氏の元へと向かう恋する乙女の気分だと伝えよう。
灰色がかった雲が空一面を覆っている初秋の候。私は新たなしらす丼を求め、静岡県にある弁天島を目指し、電車に揺られていた。
轍の上を通る度、電車はガタゴトと音を立て、静かな車内にその音を響かせる。時折、団体で乗車しているおじ様、おば様方がヒソヒソと談笑する声が聞こえていた。
こちらのおじ様方はどちらへ向かうのだろうか。なんてことを考えるわけでもなく、私はぼうっと車窓の外の景色に目を向ける。心はすでに舞阪にあり、これから出会う銀色の小魚に思いを馳せていたのだ。
そもそも何故しらす丼なのか。
私はしらす丼を食べる前にいつもそんなことを考える。
他にも魅力的な海鮮丼があっても、私は決まってしらす丼を注文してしまう。好きなものを選んで良いよって言われていても。
それはおそらく、学生時代の父との思い出が関係しているのかもしれないと思った。
***
私が成人する前――中高生くらいこと。
毎年五月の大型連休とお盆休みには千葉県にある祖母の家へ遊びにいく習慣が私の家にはあった。
交通手段はいつも同じ。父が運転する軽自動車に乗り、東名高速道路を利用するのだ。
父は高速道路のサービスエリア巡りが好きな性格で、大きなサービスエリアには毎回停車し、そこで有名なものを食べるのである。
同行している私も、そんな父の恩恵を授かるかたちでサービスエリア巡りを楽しんでいた。
そして、そのサービスエリア巡り最大の楽しみが、神奈川県内にある海老名サービスエリアでの夜食だ。
「よしお前たち! 好きなもん買ってやるから言ってみろ」
二階にあるフードコートに着くと、父は笑顔で私たち兄弟に言った。
兄妹四人で顔を見合わせ「はーい!」と返事をし、私たちは散っていく。
どれにしようかと私は店をまわりながら頭を悩ませた。
他の兄妹たちは早々に食べたいものを決めて、父に報告している。
「食べたいものはいろいろあるけど……あ、しらす丼なら、他の海鮮丼よりも安いしお父さんの懐もダメージ少なそうだな」
私は昇ってきた中央のエスカレーターから少し離れた寿司屋に出ていた「生しらすと桜エビ丼」に決め、父に報告する。
「マグロとかサーモンとかあるのに、しらす丼なんかでいいのか?」
父は怪訝な顔でそう言った。
「うん。さっぱりしてそうじゃない?」
「ミカがそう言うのならいいけど。みんなもっと高いのを選んでるんだから、遠慮しなくてもいいだぞ?」
「分かってる。それでも私はしらす丼がいいの」
父は渋々了承した顔でお金を持たせてくれて、私はしらす丼を注文したのだった。
***
それが私としらす丼との出会い。
こうしてわざわざ遠出をしてまで食べたいと思えるなんて、注文時には考えもしなかった。
味がどうだったか今ではよく思い出せなかったが、新鮮な食感に感激したことだけは記憶している。
「ありがとうございました。弁天島、弁天島です」
電車に揺られること約一時間。目的の駅に到着し、私は電車を降りた。
時刻は午前十時五分。お目当てのしらす丼を提供するお店の開店時刻は十一時半だったので、私はしらす漁発祥の地と言われている「舞阪漁港」へ向かって歩き出した。
駅を出て国道三〇一号を進み、「辨天神社」の前の信号で細い道に入る。
少し進むと橋があり、右手には海水浴場が見えた。浜名湖上にある赤い鳥居は、夕方になると写真スポットになるとネットに掲載されていたが、今回の目的は鳥居ではないので横目に見るに留める。
素敵な彼氏でもできたらまた見にこようと心で密かに誓った。悲しいかな、また来られる保証はないけれど。
橋を越えると「舞坂宿」と記された古びた灯籠があった。焦茶色で細めの見た目だが、かつてここに住む人たちの目印になったのかもしれないと自分が住んでいたかのように懐かしむ視線を送る。
ふと右手に顔を向けると、たくさんの漁獲船が堤防に繋がっていた。
「ここでしらす漁が……」
と言っても「舞阪漁港」はもう少し歩いた先にあるとマップに表記されていたため、もう少し前進することに。
古びた灯籠を左手に見ながら、その後ろにある急勾配の石階段を降った。
「磯の香りがする。浜名湖ってほとんど海みたいなものなんだなあ」
堤防にチャポチャポとぶつかりながら音を立てる海水をバックミュージックに、私はズンズン進む。
途中、船から降りた白い長靴を履いているおじさんに原付バイクで追い抜かされたり、近所に住む親子の散歩に出くわしたりして、和やかな気持ちになった。
歩くこと十分。ついに「舞阪漁港」まで最接近した。さまざまな漁獲船が多くならび、漁港の横には薄青色の魚市場がある。
「関係者以外、立ち入り禁止」の文字があったため、漁港へ行くことは叶わなかったが、少しでもしらす漁の発祥に触れられた気がして、胸がいっぱいになった。
「ここが、始まりの地……」
私は大きく息を吸う。先ほどのように磯の香りが鼻腔を抜けていった。
しらすを食す上で必要のない行程なんだろうと言うことは分かっていたが、やはりきて良かったと今は思う。
この地で多くの人たちがしらす漁を発展させてくれたおかげで、今わたしはしらす丼を好み、食べ歩けるのだから。
「あ、もう十一時か」
駅からそう遠くない漁港だったが、あちらこちらと写真を撮ったり、観光看板を読んだりしているうちに時間が経っていたようだ。
「今から歩けば、開店の十分前には着くね」
私はしらすの聖地に感謝を心で述べて、その場を後にした。
弁天島駅まで戻り、弁天島駅前の信号機を折れ、高架下を潜ると弁天島地区に入った。
田舎のおばあちゃん家付近を歩いているかのように閑静で、悠然とした空気が漂う。
辺りをキョロキョロと見回しながら歩き、目的の店に到着したのは開店の二分前だった。
すでに開店待ちの何組かが店の前で列を成している。
立派な店先に、私は場違いだったかもしれないと怖気付いた。しかし、ここで諦めてしまえば、せっかくの遠征が無駄になる。私は愛しのしらす丼のために、羞恥心を捨てなければならない。
そうこう悩んでいるうちに店が開き、女性の店員さんが並ぶ客席たちを順に席へと案内していく。
「お客様、ご予約ですか?」
「いえ」
「お連れ様は――」
「一人です」
そう告げると、店員さんは少し困った顔をして「少々お待ちください」と言い、一度キッチンへ入っていった。
予約した方がよかったかな。と少し申し訳なく思う。
「えっと……カウンターでもよろしいですか?」
戻ってきた店員さんは「断るなよ」という圧を若干出しつつ、私にそう尋ねた。
「はい。よろしくお願いします」
それから私は女性店員さんの後ろにつき、店内に入った。
店員さんの態度から察して、やはり予約をしておくべきだったと若干の後悔をしつつ、私はキッチンすぐ横のカウンター席に案内される。
「――お茶とおしぼりをお持ちしますね」と店員さんは笑顔で言い、この場を去っていった。
それから私はすぐにメニューを開き、しらす丼の項目を見る。
全部で三種類のメニューがあった。しらす丼はもちろんのこと、しらすの天ぷらというのもなんだか気になった。
「この贅沢定食にしよう」
せっかくの遠出だ。少しくらい豪勢な食事にしたい。
お茶とおしぼりを持ってきた女性店員さんに、「贅沢定食お願いします」と頼み、私は置かれていた煎茶に口をつけた。
さて、どんな子に出会えるのだろう。
漁港直送というくらいだから、他のしらす丼とは一味も二味も違うはず。もしも同じであれば、今まで食べてきたしらす丼たちと同等だということになる。
私は期待に胸を膨らませ、食事の到着を待った。
数分後。
「お待たせしました! 贅沢しらす丼定食です」
と大きなお盆にひとまとめにされた定食が目の前に置かれる。
食べ方の紙が丁寧に用意してあり、親切さを感じた。
艶々とした生しらす。おろし大根にかかっている釜揚げしらす。お盆の中央には初めてみるしらすのかき揚げがあった。これはどんな味か全く想像もつかず、ワクワクと心が躍る。
「まずは定番のしらす丼を……」
何もつけずに生しらすを箸で一すくい。そのまま口に運ぶ。
普段安物のしらすに感じていた生臭さを一切感じない。そればかりか甘みすら感じる。
「何、これ!?」
想像をかなり超えてきた。今まで食べたことがほどの味。しらすってこんなに美味しかったの!?
今度は米といっしょに一口。米に醤油を絡ませているのは、生しらすの風味を損ねないためだろうか。しらすのうまみと甘さに、仄かな醤油の風味がベストマッチ。しらす丼の進化を垣間見た気がした。
「今度はおろししらすを……」
しらす丼の後方に置いてある大根おろしの上に釜揚げしらすがのっている小鉢を手に取り、顔の近くへと運んだ。
「大根の香りしかしない。臭みを消すためなのかな」
それからお盆にあった醤油を一滴垂らし、しらすののった大根おろしを掬いとる。躊躇なく口に入れると、思わず驚きで目を丸くした。
スーパーで買った釜揚げしらすはどうしても少しパサつきを感じ、若干かたい部分もある。しかし、これはどうだろう。パサつきはなく、ふっくらとした食感だ。炊き上がった白米のように。そしてもちろん臭みはない。大根おろしは臭み消しではないことを理解した。
「これも、美味。こんな釜揚げしらす、私は知らなかったよ……!」
それから三口ほどで小鉢の中身は空になった。掃除機のように瞬間的な吸引力で私の体内へと流し込んだのである。
「さあて。最後のしらすは……かき揚げ」
桜エビのかき揚げは食べたことがあったが、しらすのかき揚げは生まれてこの方一度も見たことも聞いたこともなかった。
見た目はただのかき揚げとそう変わらない。しかし、ところどころでしらすがこちらを向いていることに気づき、しらすメインのかき揚げであることを思い知らされる。
運ばれてきた時から香ばしさを漂わせていたが、味はまったく想像できない。
ホットケーキ現象(香りを嗅いでから食すと思った通りの味ではないという現象のことを勝手にそう読んでいる)でないことを祈るばかりだ。
直径十センチほどのかき揚げを一口大に切り取り、まずは何もつけずに口まで運んだ。
「……しらす、煎餅?」
香りから感じていた味がそのまま口の中で広がる。煎餅だと言ったのは悪い意味ではなく、純粋にそう思ったからだ。
サクッと揚げられ、香ばしい。口の中に幸せの香りが充満した。
「これは、食べて正解だ」
それからお盆にあった料理をゆっくりと時間をかけて味わった。
漁港直送と銘打っているだけのことはある。他のしらす丼とは一味も二味も違った。
店を出て、再び弁天島駅へと向かって歩いた。
静岡のしらすといえば沼津を思い浮かべる人も多いだろうが、この弁天島という場所も確かにしらすの名産地であることを知った。
その土地柄や歩んできた歴史。この地がなければ、私はこの日こんなに幸せな気持ちで歩くことはできなかっただろう。
何かの始まりは必ずどこかにある。
その血が廃れようと名が上がらなかろうと、そこか始まりであることに変わりはないのだ。
しらすという食材を見つけてくれた、過去のしらす漁関係者の方々と今もしらすをとり続けてくださる方々へ感謝の気持ちを贈りたい。
本当にありがとう。ビバ、しらす!
これからも私は辞める時も健やかな時もしらすを愛し続けることを誓います。
しらす漁、発祥の地にて。 しらす丼 @sirasuDON20201220
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