第2話

一人の少年が、一人の少女と出会った。本音を言える相手はお互いだけ。たった半年という短い期間の中で、少女の存在は、少年の中でとても大きなものになっていた。二年もの間を病院で過ごし、両親に心配をかけたくないからと少しも弱音を吐くことはなかった。苦しいこともあって、治療をやめたいと思うこともあった。でも、そんなことは誰にも言えなくて。そんな時、少女と出会った。ほんの少し言葉を交わしただけでも分かった。その少女とはきっと気が合うって。友達になってほしいと言われて、少年は心の中でとても喜んだ。友達になりたいと思っていたから。名前を教えてくれて、少年は少女の名前を呼ぶ。すると少女は、少しだけ微笑んでくれた。

「なぁに?」

と優しく答えてくれて、ただそれだけなのに嬉しかった。毎週土曜日、決まった時間に少女は現れる。その時に、いろんな話をした。ほとんど、少年が話してばかりではあったけれど。看護師さんにも言われるくらい、少年はずいぶんと明るくなっていた。

「今日もあの子と会うの?」

「うん!」

「そう。気をつけてね」

毎週土曜日に看護師さんから言われる言葉。少女と会う前までは、外に出ることすらめんどくさかったけど、今ではあまりにも外に出たがるので看護師さんをよく困らせてしまっている。そんな時に、看護師さんから聞かされた話に、少年はショックを受けた。

「あの子ね、もう毎週は来ないみたいなの」

「何でですか?」

「症状が良くなったからよ」

そういえば、少女がどうして病院へ来ているのか、少年は知らなかった。どんな病気なんだろう。そういう疑問も生まれたけど、会えなくなる、という事実の方が少年の中で大きくなって、どうして、と泣きそうになった。何の保証もなかったのに、これからもずっと少女と話をできるのだと思っていた。本音を言える相手が突然いなくなる。そんなの、嫌だと否定したい。いなくならないで、と言いたかった。少女が、いつものところにいるのが窓から見えた。少年はいつものように車椅子に乗って少女のところへ向かう。聞きたいことがたくさんあった。思わず名前を呼んでいて、でも、いざ少女の前に来ると、言葉は少しも出てこない。やっと絞り出したのは、

「もう、病院には来ないの?」

とだけ。泣きそうになってしまって、自分でもどうしたらいいのか分からなかった。泣いたら少女を困らせてしまう。そんなことは分かっているけど。少女との会話は、少年の心の拠り所になっていて、それがなくなってしまったら…。そんなの嫌だ、いなくならないで。心の中でまた同じ言葉が繰り返されるけど、声には出ない。

「じゃあね」

そんなこと言わないで。

「もー、友達がそんな顔してたら困っちゃうな」

そんなこと言われても、悲しいものは悲しいんだよ。いつの間にか俯いていて、少年の頭にぽん、と手が乗せられた。え、と驚いていると、優しく撫でられる。少女は、優しく微笑んでいる。頭の帽子のことは、一度も聞かれたことがなかった。友達とかはからかってきたりして、少年にとってはそれは嫌だったのだけど、我慢して一緒に笑ったりしていた。でも、少女の手はただただ優しかった。だから嫌だ、と思うことはなくて。少女は、少年のことを対等に扱ってくれた。病人だから、とかがなかった。そんな些細なことがやっぱりすごく嬉しかったのだ。

「泣かないで。会えなくなるわけじゃないんだから」

その言葉と同時に、ぐい、と頬をあげられた。

「笑ってる顔の方が似合うよ。だから笑ってて」

頷くしかなかった。そうして、少女に笑ってみせる。泣いてもいたから、きっと変な顔だっただろうに、少女は満足そうに頷く。

「じゃあね」

また言われる。少女は歩いていってしまって、もう後ろ姿しか見えなかった。そういえば、一度も名前を呼んでくれなかった。ちゃんと名乗ったはずなのに。どんな病気なのか知らなかった。半年も話をしてたくせに。少女のことを何一つ知らない。聞けばよかった。会えなくなるわけじゃない?そんなことないと思う。きっと会えない。そんな予感がしていた。もっと聞けばよかった。もっと知ろうとすればよかった。なんでしなかったんだろう。バカだよなぁ。そんなことを考えながら、少年は声をあげて泣いた。


それから、毎週土曜日には、少女がいるのではないかと窓の外を見てみるけど、現れることはなかった。一ヶ月が経って、二ヶ月が経って。もうすっかり習慣になっていたから、その日もいつものように外を眺める。すると、あの少女がいた。びっくりして固まったけど、それもほんの一瞬だけで、次の瞬間には車椅子を走らせていた。本当にいた。会えなくなるわけじゃなかった。また会えた。はやる気持ちを抑えて、少女のところへ向かう。後ろ姿は、何も変わっていなかった。それはそうか。たった二ヶ月で変わってる方がびっくりだ。どく、と大きく心臓が鳴る。息を吸って、吐き出すように言葉を発した。

「○○ちゃん」

少女は振り返らない。聞こえなかったのだろうか?もう一度、名前を呼ぼうとした時に、少年の後ろの方から声が聞こえた。

「玲奈」

振り返ると、母親らしき人が見えた。玲奈?初めて聞く名前だ。目の前の少女が振り返る。少年は目を見開いた。あの少女だ。何も変わっていない。なのに少女の方は気づいていないみたいで、少年をちらりと見ただけ。

「なあに、お母さん」

「お医者さんが呼んでたわ」

「分かった。すぐ行く」

そう言って、少年の隣をすり抜けていった。その場に残っていた少女の母親が、少年に声をかけた。

「ねぇ、君。玲奈と仲良くしてくれてた子だよね?」

「え、あ、いや…」

少年が知っているのは、あの玲奈という人ではないはずだ。でも、確信を持てなかった。同じ顔で、同じ声で。なのに、自分のことを覚えていない。少年は悲しかった。たった一人の友達ではなかったのか。はっきりとは答えられない少年を見て、少女の母親は納得したように頷いた。

「玲奈ではないわね。君が知っているのは、もう一人の方なのでしょうね」

「もう一人?」

「えぇ」


少女の母親は、教えてくれた。どうして病院に来ることになったのかを。それは、少年の想像もつかない理由で、何を言えばいいかも分からなかった。

「こんなこと言って、困らせてしまったわね。ごめんなさい」

この人は何も悪くない。そう思った。だから、泣きそうな顔をしないでほしかった。そんな顔を見ていると、少年まで泣きそうになってしまうから。


少女とその母親は、家庭内暴力、いわゆるDVを受けていたという。少女は、毎日殴られるその恐怖から逃げようとした。けれど逃げられない。だから、自分の中に閉じこもったのだ。そうして、もう一人の人格が生まれた。それが、少年が会っていたときの少女。主人格を守るために生まれた存在で、その役目を終えれば自然にいなくなってしまう。

「お医者さんが言うことにはね、もう一つの人格が生まれたのは、決して悪いことではないって」

でも、と、少し暗い表情でその人は言った。

「私の知っている玲奈じゃないの。だから、どうしても自分の娘だと思えなくて。どこか他人行儀になってしまって。あの子も、きっとそれに気づいていた。だから、敬語を使っていたのでしょうね。玲奈と、あの子の区別がつくように、ということもあるのでしょうけれど」

少女が言っていた言葉を思い出す。確かに、愛想笑いばかりだと言っていた。それは、こういう意味だったのか。

「あの、看護師さんが言っていた症状って…」

その人は頷く。

「もう一人の人格の方が出てくることよ。ずっと、玲奈は自分の中で眠り続けていたのだけど、やっと離婚できたの。それから、少しずつ戻ってくるようになったわ」

とても優しく微笑んでいた。本当は、きっと少年も一緒に喜んだ方がいいことなのだろう。でも、素直に喜べない自分がいた。少年が会っていたのは、病気の症状そのものだったということなのか?そんなことない。少年にとって、あの少女は一人の人間だった。病気の症状なんかじゃない。だけど、それを言葉にすることもできない。なぜなら目の前にいるこの人は、玲奈という人が戻って来ることを心の底から望み、そして今、それは叶いはじめているから。

「それは、良かったですね」

「えぇ、とても。それでね、君のことは、あの子から聞いていたからお礼をしておかなきゃって思って」

そんなものいらない。いらないから、あの少女にもう一度会わせてほしい。

「あの、玲奈…さんじゃない方の人って、もう会えないんですか?」

そういうと、少し驚いたような顔をされた。

「そうね…。まだ出てきたりはするんだけど、それでもほんの数時間くらいだけだし、いつ出てくるかも分からないのよ。だから、会える、とは言えないわ」

「そう、ですか…」

思わず、沈んだ声が出る。

「ごめんなさいね…」

「いえ、あの、治ってきているのなら、それは良いことだと思うので」

慌てて、首を振った。

「お母さん」

病院のロビーの方から、玲奈という人が歩いてきた。

「お医者さん、何て?」

「安定していますね、だって。薬の量も減らせるみたいだよ」

「そう。良かったわ」

幸せな家族。だから少年は、その中には入っていかなかった。

「話を聞いてくれてありがとね。それと、あの子の話し相手になってくれていたことも、本当にありがとう」

少年は黙ったまま、お辞儀をした。もう、会えないのだろうか。そうだろうな。あの少女と最後に会った日、少女はまたね、と言わなかった。『また』はもうないと分かっていたから。

「良かったね、で、いいんだよね…?」

答えてくれる人もいない中、少女に確認するように少年は呟いた。


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