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ぼくがうなずくと、有瀬さんは微笑んだ。
それから、そっと目を伏せる。
「だけど……そう思うのが、ちょっと遅かったかな」
「有瀬さん……」
「もっと早く気づくべきだったのにね。……わたし、何をやっても、だめみたい」
「――そんなことはありませんよ」
あれっ、この声は……。
聞こえるはずのない凛とした声に、ぼくは振り向く。
お店の横から出てきたのは、左京さん!
普段よりほんの少しラフな服装の左京さんは、やさしい微笑みを浮かべて、ぼくたちに近づく。
「店長さん、どうして……」
今日は定休日だから、お店にはいないはず……。
おどろいていると、案外さんがエコバッグからスマートフォンを取り出した。
スピーカーモードに設定された通話画面に表示されていたのは――『店長』。
もしかして、案外さん、ぼくたちが話してる間に電話をかけて、ぼくたちの話を左京さんに聞かせてたの?
でも、いくら何でも、そんなに早く来られるはずがないよ。案外さんみたいに、お店の近くに住んでたとしても……。
あっ、分かった!
「近くに住んでる」んじゃなくて、「お店の二階に住んでる」んだ!
だからこんなに早く到着できたんだね。
「有瀬さま。失礼ながら、お話は聞かせていただきました」
案外さんの隣に立った左京さんは、有瀬さんにお辞儀をしてから、話を切り出す。
「夢の買いもどしをご希望のようですね。――本日は定休日ですが、特別に、買いもどしの手続きをさせていただきます」
「えっ」
有瀬さんの「夢」、買いもどさせてくれるの? すごい!
ぼくは有瀬さんと顔を見合わせた。
だけど、案外さんは、左京さんに「例外を作らないほうがいいぜ」って副店長らしくアドバイスしてる。
「買いもどしの期限は定休日こみだし、第一、例外を作ったら、他の客にも対応しなきゃいけなくなる」
「そうですね。案外さんは正しいです」
うなずいた左京さんは「ですが」って、言葉を続けた。
「『買いもどし期限には定休日を含む』と記載した契約書には、『原則』とも書いてあるのです。八日が経過して凍結処理を施したならともかく、まだ間に合うのであれば、店長であるわたしの判断で対応しても、かまわないのではありませんか?」
「……店長がそれでいいと思うんなら、その判断に従うさ」
肩をすくめながら言って、案外さんは、左京さんに向かって手を出した。
お礼を言った左京さん、質蔵の鍵がついたネックストラップをズボンのポケットから取り出して、案外さんに渡す。
今日は休みの日なのに、頼まれる前に、絵画を取りにいこうとするなんて。
案外さん、やっぱり、すごくいい人みたい。
「お店、今、開けますので。もうしばらくこちらで待ちください」
「お手数をおかけして、本当にすみません……」
有瀬さん、スタッフルームに向かう左京さんに深々と頭を下げた。
それからぼくに視線を移して、苦笑交じりに言う。
「この前あんなこと言ったのに、格好悪いところ見せちゃったよね」
「そんなことないです」
ぼくは首を横に振った。
「ぼくも、有瀬さんみたいになりたいです。どんなときでも自分で考えて、自分なりの答えを出せる人に」
「……ありがとう」
そう言って微笑む有瀬さんは、オレンジ色の太陽に照らされて、すごく眩しい。
でも、今の有瀬さんを眩しいと思うのは……きっと、太陽だけが原因じゃないよね。
「……あ、そういえば」
「どうしたの?」
「人魚姫の話なんですけど……王子さまを殺せなかった人魚姫って、海の泡になりますよね」
「うん。それがどうかした?」
「実は……原作だと、泡になって終わりじゃないみたいなんです」
「えっ、そうなの?」
「はい」
有瀬さんと別れて家に帰ったあと、人魚姫のことをインターネットで調べたんだ。泣きそうになるのをこらえてる有瀬さんの顔が、忘れられなくて。
そしたら、ぼくたちが知ってる人魚姫のストーリーは、原作を簡略化したものだって、分かった。
原作の人魚姫は「長い寿命を持つ代わりに魂を持ってなくて、天国に行けない存在」。
それで「寿命が長くない代わりに魂を持ってて、天国にも行ける存在」の人間に、あこがれてたみたい。
で、魂を持ってない人魚姫は、海の泡になって終わるだけのはずだったんだけど……。
これまでの行いが評価された人魚姫は「空気の娘」っていう精霊みたいな存在に変化して、善い行いをすることで天国に行ける機会をもらったんだそう。
「ぼく……原作の終わりかたがハッピーエンドかどうか分からなくて、もやもやしてたんです。天国に行ける機会は手に入ったかもしれないけど、海の泡として消えたほうが幸せだったかもしれないって、そう思ったから」
「空気の娘」になった人魚姫は、天国に行くために、善い行いをしなきゃいけない。
王子さまと両想いになれなかった悲しい気持ちを、胸に抱えたまま。
「でも……今の有瀬さんを見たら、原作の終わりかたも悪くないのかなって、思いました」
人魚姫と同じで、有瀬さんは、あこがれの人に見いだしてもらうことができなかった。
それでも、胸の中にあるのは、悲しい気持ちばっかりじゃない。
そう、思えたから。
「……そっか」
「はい。それに――」
「それに?」
――「夢」も恋も叶わなかったけれど、有瀬さんはきっと、幸せになるんだろう。
「空気の娘」になった人魚姫も、いつか、天国で幸せになるんだから。
そんなことを考えてたら、頭上で音が響いた。
それから、ダークブラウンの電動シャッターが、ゆっくりと上がっていく。
「ねえ、何なの?」
首をかしげた有瀬さんに、ぼくはだまって微笑んだ。
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