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「羽根くん――と、副店長さん。こんにちは」
ぼくたちに気づいた有瀬さん、呼吸を整えながら挨拶した。
アタッシュケースが重いのかな。微笑む顔には、うっすら汗がにじんでる。
「……ん?」
案外さん、不思議そうに首をかしげた。
「おまえさん、あのとき名乗ってなかったよな?」
「あ、えと……」
案外さん、鋭すぎ!
周りをよく見てるなあって思ってたけど、記憶力もすごくいいみたい。
「……このまえ、バイト帰りに偶然会って、夢のことを聞かせてもらったんです」
ぼくは有瀬さんとのことを簡単に説明した。
お客さんから話を聞かせてもらうのって、叱られるような悪いことじゃないよね?
でも、やっぱり緊張する……。
どきどきしてるぼくを、ちらっと見た案外さんは、「ふーん」としか言わなくて。
有瀬さんのほうを向いたあと、近づいてくる有瀬さんに会釈をした。
「どうも。今日は定休日ですが、何かご用ですか?」
「お休みの日に押しかけて、もうしわけありません。あの……」
謝った有瀬さんは口ごもった。うつむいてるし、用件を言いにくいみたい。
それから少しだまったあと、有瀬さんは顔を上げる。何か、決心したみたいだった。
「元金を、今日おあずけしますので……質入れしているわたしの夢、明日の朝一番で、買いもどさせていただけませんか?」
「……えっ」
有瀬さんの言葉を聞いて、ぼくは思わず声を上げた。
正直、有瀬さんの姿を見たときから「もしかしたら」って思ってたんだ。アタッシュケースが重そうだったから。
だけど、この前会った有瀬さん、あんなに苦しそうだったから……。「夢を買いもどしたい」って思えたのが、すごく意外でもあった。
詳しいことは分からないけど、とにかく、有瀬さんの意見を尊重したいな。
案外さんも、きっと同じこと考えてるよね? 案外さん、すごくいい人だから。
でも――。
「――もうしわけありません」
案外さんの口から出てきたのは、断りの言葉で。
話す声も、さっきまでと違って、感情の動きを感じさせないようなものだった。
「夢の買いもどし期限は『定休日こみで七日以内』と契約書に明記してありますので、たとえ朝一番であっても、期限を過ぎている以上、お客さまの夢を返却することはできかねます」
定休日こみで七日以内?
……あっ、そっか!
有瀬さんが「夢」を質入れしたのは、七月二十一日の水曜日。
で、今日は、七月二十七日の火曜日でしょ。
右代谷質店のルールだと、「夢」を買いもどせるのは、今日まで。
明日じゃ、だめなんだ。
「……じゃあ、明日の朝一番で、購入させていただけませんか?」
案外さんの説明を聞いた有瀬さんは、あきらめずに別の提案をした。
「買いもどしできないのは分かりました。でも、凍結処理を施す前に、夢を購入することならできますよね? 凍結処理は八日目に行われるようですし……」
あ、なるほど。いい考えだね。それなら大丈夫かも。
でも、案外さんは、首を横に振って言った。
「もうしわけありませんが、それもできかねます」
「どうしてですか?」
「買いもどしができなくなったあとも、保管期限である三か月間は、お品物を保管する義務がありますので」
保管?
……あっ、そうだった!
質入れした品物は、三か月間、質蔵で保管することになってるんだっけ。
「買いもどし」じゃなくて「購入する」ってことは、「質流れした品物を購入する」ってこと。
だけど、品物が質流れするのは、質入れ当日から三か月と一日後。
つまり、それまでに「品物を購入する」ことは、できないんだ。
すごくややこしいルールだから、すっかり忘れてた……。
有瀬さんも忘れてたみたいで、アタッシュケースの持ち手をぐっと握りながら悲しそうな顔をしてる。
それでも、案外さんに「何とかならないんですか」って、詰め寄ることはなかった。
案外さんは「お店として決められたルールどおりの対応」をしてるだけで、有瀬さんをこまらせたくて断ってるわけじゃないって、分かってるからなんだろうな……。
「……どうして、買いもどそうと思ったんですか?」
ぼくは、うつむいてしまった有瀬さんに声をかけた。
バイトのぼくにはどうすることもできないけど、せめて理由を聞きたいと思って。
「……羽根くんと話したときは、本当に『もう楽になりたい』って思ってたんだけどね」
苦笑を浮かべた有瀬さん、まだ少し悲しそうな顔をして、話しはじめる。
「だって、絵画は見る人によって評価が違うし、すでに有名になってる人じゃないと結果がすべてでしょ? 結果を出せなかったら、努力したことは評価してもらえない」
「……そう、ですね」
世の中は、大体そう。
テストも、受験も、コンテストも、結果を出せなかったら認めてもらえない。
それに……。
あのとき有瀬さんとも話したけど、芸術系の分野って「だれが見ても間違いない点数」を、つけられない。
だから、余計に「こんな夢を持ってても意味ないんじゃないか」って思うんだろうね。
「どれだけ努力しても、評価してもらえないまま時間だけが流れるかも」って、怖くなるから。
「だけど……評価してもらえなかったからって『全部無駄だった』って否定するのは違うんじゃないかって、さっき思ったの」
「違う、ですか?」
「うん」
有瀬さんはうなずいた。
「結果は出せなかったけど、真剣に絵を描くことでしか得られなかった『何か』が、きっとあるんだよ」
「何か……」
「そう。でね、その『何か』に本当の意味を見いだせるのは、多分、自分だけ。……そう思ったから、夢を買いもどしに来たの。夢が消えちゃったら、きっと、その『何か』も一緒に消えちゃうだろうから」
そうだったんだ……。
ほんの少しだけど、有瀬さんの言いたいことが分かった気がする。
努力っていうのは、きっと、ゲームでいう「経験値」に近いものなんだろうね。
努力をすれば経験値が入ってレベルアップするけど、ぼくたちがそれを目で確認することは、できない。
だから、テストの点数みたいに分かりやすい結果が出ないと「全部無駄だった」って、思っちゃう。
でも、本当はそうじゃないって気づいたから、有瀬さんは「夢」を買いもどしに来たんだ。
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