ある人魚姫の決断

1

「はあ……」


 右代谷質店が定休日の、七月二十七日、火曜日。

 家で夏休みの課題を進めてるぼくは、今日何度目か分からないため息をつく。


 昨日、三度目のバイトを終えたあと、ぼくは、右代谷質店で正式に働くことを決めた。仕事内容が自分に合ってるし、左京さんも案外さんも、いい人だから。

 で、次にぼくが出勤するのは、三日後の金曜日なんだけど……。

 そのころには、有瀬さんの「夢」はすでに凍結されて、有瀬さんの心からも、すっかり消えてるはず。

 そして、消えてしまいさえすれば、有瀬さんも苦しまずに済む。

 だから、それでいいんだと思ってるのに、ぼくの心はざわめいていた。


 決めるのは有瀬さんで、もう楽になりたいって思う気持ちも、尊重されるべきなんだろう。有瀬さんは、ずっと苦しんできたんだから。

 それなのに、「夢を手放してほしくない」って勝手なことを考えてるのは、「夢」や恋が叶わない苦しみを、ぼくが知らないからかもしれない。


 有瀬さんのことはもちろん、西木さんのことも、気になってる。

 だけど、ぼくはまず、自分のことをがんばらないといけない。

 有瀬さんみたいに専門学校に進学するにしろ、大学に通うにしろ、ある程度の成績を取っておくことは大事だよね。

 成績だけがすべてじゃなくても、世の中のものさし、、、、は、やっぱり成績重視。成績がよくないと、自分がしたいことを見つけても、挑戦すらさせてもらえない可能性だってある。

 だから、勉強は好きでも得意でもないけど、一応がんばろうって思ってる。

 ……思ってるんだけど、問題集に書かれた数字とアルファベットが、全然頭に入ってこない。


 うーん、少し休憩したほうがいいかも? 集中できてないのに無理に進めようとするのは効率が悪いかもしれないし……。


 そう言い訳して、ぼくは立ち上がった。財布とスマホをズボンのポケットに入れて部屋を出る。目的地は、コンビニ。

 実は、今日、コンビニとアルカナシリーズのコラボ開始日なんだ。

 最新作の《深淵の騎士》発売記念キャンペーンの一環で、スイーツとか揚げものとか、色々コラボされてる。

 あと、アルカナで一番好きな《沈黙の女神》に登場する「フェリクス」ってキャラクターが、今日からクレーンゲームの景品になってるんだよね。

 もちろん取るつもりだから、出かけるついでにゲームセンターにも寄っていこうかな。


 外に出ると、少し低い位置にあるオレンジ色の太陽に照らされて、世界全体が輝いてるみたいだった。

 暑くてうんざりする夏も、こういうときだけは悪くないかなって思う。


 自転車に乗ったぼくは、右代谷質店がある方向に向かって走り出した。

 最寄りのコンビニ(って言っても、田舎だから全然近くにない)はふたつあって、方向がそれぞれ反対。

 本当は、もうひとつのコンビニのほうがちょっとだけ近いんだけど……。なんとなく、こっちに行きたい気分だったんだ。


 ペダルを漕ぐこと十数分。やっと右代谷質店のところまで来たぼくは、お店の前で自転車を停めた。

 右代谷質店には、ダークブラウンの電動シャッターが下りてる。中は全然見えないけど、定休日だから、左京さんはいないはず。

 それにしても、シャッターが下りてる右代谷質店って、何だか変な感じかも……。


「――よう」

「わ、っ!」


 自転車を降りたぼくがお店を見上げてると、うしろから突然、声をかけられた。

 びっくりしすぎて声はほとんど出なかったけど、肩だけが、びくっと跳ね上がる。


「わりぃな、おどろかせちまったか」

「あ、案外さん……」


 うしろにいたのは、半袖Tシャツにズボン姿の案外さん。おどろいてるぼくを見て、ちょっともうしわけなさそうな顔をしてる。

 多分、案外さんは、普通に話しかけたつもりだったんだろうね。おどろきすぎて逆にもうしわけないかも。


「にしても、なんで店の前にいるんだ?」


 案外さん、不思議そうな表情を浮かべてたずねる。


「今日が定休日なの知ってるだろ。忘れものでもしたのか?」

「あ、いえ……」


 ぼくは、コンビニに行く途中だったことと、シャッターが下りてる右代谷質店は何だか変な感じがして見てたんだってことを説明した。


「案外さんは、どうしたんですか?」

「おれ? 見たまんまスーパー帰りだよ」


 そう答えた案外さんの右手には、オシャレなデザインのエコバッグが握られてる。

 持ち手の高さまで商品が詰め込まれたエコバッグの中からは、ぼくもときどき食べるクッキーの箱が顔を出してる。

 もしかしたら、案外さんも甘いものが好きなのかも?


「おれ、そこのアパートに住んでんだ。店の前を通るルートが最短距離なもんで、休みの日でもよく通るんだよ」


 案外さんが指差したのは、店の右奥のほうにある二階建てのアパート。ここから結構近くて、ゆっくり歩いても五分以内には到着できそうだった。


「そうなんですか。お店から近くていいですね」

「まあな。寝坊したときは重宝するぜ」


 そう言って、案外さんは笑う。

 寝坊したときは、身だしなみを整えた時点で、パンかお菓子を片手にダッシュで出勤するんだって。

 で、お店の準備を済ませたあと、時間があったら大急ぎで食べるみたい。


「ま、寝坊はしないにかぎるが――っと、そういやコンビニに行く途中なんだったな」

「あ、はいっ」

「引き留めちまったな。気ぃつけて行けよ」

「ありがとうございます。じゃあ――」


 頭を下げたぼくは、自転車のほうを向いたあと、そのまま動きをとめた。


「どした?」


 固まってしまったぼくを見て、案外さんも同じ方向を見る。

 そして――ぼくと同じように、ぴたりと動きをとめた。


「有瀬さん……」


 駅のほうから歩いてきたのは、有瀬さん。

 眼鏡をかけて、黒髪を低い位置で結ぶスタイルは、これまでどおり。

 だけど、服装は、いつもと全然違うんだ。

 今日の有瀬さんは、紺色の半袖シフォンブラウスと、白いズボンを着てて、雰囲気が全然違う。服装だけなら、左京さんに似てるかも。


 でも、ぼくたちがおどろいたのは、有瀬さんの雰囲気が違ってたからじゃない。


 こっちに向かって歩いてくる有瀬さんが、あの日と同じアタッシュケースを持ってたから。

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