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「どうかした?」
暗い表情のぼくを見た有瀬さんがたずねる。
ぼくは首を横に振って、話の続きを聞くことにした。
「で、自分の実力のなさを思い知ったわたしは、絵が描けなくなって……。そんなとき、『要らなくなった夢を引き取ってくれる質屋が香浦にある』って噂を聞いたの」
「それが右代谷質店だったんですね」
「そう。わたし、半信半疑でお店に行くことにして、あとは羽根くんも知ってるとおりって感じなんだけど……。絵に対する想いが消えはじめてから、ふっと思ったの。――この流れ、『人魚姫』みたいだなって」
「人魚姫、ですか?」
人魚姫といえば、叶わない恋を描いた童話だよね。
昔読んだきりだから内容はうろ覚えだけど、たしか、こんな感じ。
海の底に人魚たちが暮らすお城があって、主人公の人魚姫は王さまの末娘。
ある日、十五歳になった人魚姫は人間の世界を見に行くことを許されて、大喜びで海から顔を出した。
そのとき偶然見かけたのが、王子さま。
誕生日祝いか何かで船上パーティーをしてて、人魚姫は王子さまに恋をした。
その日の夜、船は突然、嵐に巻きこまれて……。海に投げ出された王子さまを人魚姫が助けて、浅瀬に連れていった。
だけど、人魚姫には足がないから、陸には上がれない。
結局、意識を取りもどした王子さまは偶然通りかかった女の子を命の恩人だって勘違いして、どうすることもできない人魚姫は、しかたなく海の底にもどっていった。
それでもやっぱり、王子さまのことが忘れられなかったんだろうね。
人魚姫は魔女のところへ行って、人間の足が欲しいって頼んだ。
そしたら魔女は、願いを叶えるお礼として、人魚姫の美しい声を要求したんだ。
しかも、魔女が用意してくれるっていう足は、歩く度に激痛が走る足で。
その上、もし王子さまに愛されなかったら、海の泡になってしまうっていう恐ろしい条件つき。
それを全部受け入れた人魚姫は、人間の足で王子さまと再会した。
王子さまは人魚姫のことを大事にしてくれて、無事ハッピーエンド――かと思ったら、ここから悲しい展開が待ってるんだ。
人魚姫が命の恩人だって知らない王子さまは、あのとき偶然通りかかった女の子を好きになって、その子と結婚することを決めてしまう。
しかも、二人の新婚旅行は、陸路じゃなくて船旅!
人魚姫はどうすることもできないまま船に乗って、泡になる翌日の朝を待つことになった。
そんなとき、人魚姫のお姉さんたちが海面に姿を現して、魔女からもらったっていうナイフを人魚姫に渡したんだ。「王子さまの心臓をこのナイフで刺して、血を足に塗れば人魚にもどれるから」って。
その日の夜、王子さまの寝室にこっそり入った人魚姫は、王子さまを殺そうとナイフをかまえた。
だけど、愛する王子さまを殺すことなんて、やっぱりできなくて。
結局、人魚姫は、海の泡として消えることを選んだ……。
初めて人魚姫を読んだとき、ぼくは、「なんて悲しい話なんだろう」って思った。それは、高校生になった今でも変わらない。
ただ、あらためて話を思い出しても、人魚姫と有瀬さんが似てるとは思わなかった。
だって、人魚姫は「叶わない恋の話」で、「叶わない夢の話」じゃないからね。
「……まあ、わたしは王子さまを助けてないけど」
首をかしげてるぼくに、有瀬さんは苦笑を浮かべて言う。
「でも、要素だけをひとつずつ考えたら似てるかもって、思ったんだ」
「要素、ですか?」
「そう。――人魚姫が一目惚れした王子さまは『あこがれの人が描いた絵』で、王子さまに近づくための足は『わたしが描いた絵』、足の対価として魔女に差し出した美しい声は『絵のために費やす時間』でしょ、歩く度に走る痛みは『叶うか分からないもののために時間を費やすことへの不安』、王子さまからの愛は『受賞』。――ね、似てない?」
「本当ですね……」
ぼくはうなずいた。
有瀬さんの言うとおり、絵を描きはじめてからうまくいかないところまでの流れが、人魚姫に似てるかもしれない。
それに……。
「王子さまからの愛」がもらえなくて、元の生活にもどるために「夢」を手放すかどうかの選択を迫られるところも、王子さまを殺すかどうか決めなきゃいけなかった人魚姫と同じ。
「でね、ふと気がついたの。――わたし、もしかしたら恋をしてたのかも、って」
「……えっ?」
「初めての夢を追うことそのものに、人魚姫みたいに恋してたのかもって……そう思ったんだ」
つぶやくように言う有瀬さんは、膝の上で持ってる缶コーヒーをじっと見つめてて。
今までよりもずっと大人びた表情に、胸が締めつけられる思いがした。
「落選してから昨日まで、ずっと苦しかったけど……そう思ったら、ちょっとだけ気持ちが楽になった。だって、夢と恋の両方が叶わなかったんだから、苦しいのは当たり前でしょ? だから……もう楽になってもいいのかな、って」
楽になる。
それは、元の生活にもどるために、自分の「夢」を、手放すってこと。
つまり――叶わなかった「夢」と恋を、自分の中から殺すってことでもある。
「……人魚姫、すごいよね。きっと、つらい思いをたくさんしたのに、王子さまのことを一途に愛し続けて。だけど、わたし……人魚姫みたいに、海の泡に、なれない……」
「…………」
しぼり出すように言う有瀬さんは、ファミレスで見た西木さんと同じで、泣きそうになるのを必死にこらえてるみたいで。
ぼくは、今度こそ何か言おうと思ったのに、やっぱり何も言えずにだまっていた。
「――羽根くんはさ、夢、持ってる?」
「い、っえ……」
言葉を喉の奥でつっかえさせながら、答える。
「まだ、見つけられなくて……」
「そっか。ごめんね、こんな夢のない話聞かせて。羽根くん、静かに聞いてくれるから、つい話しこんじゃった」
握っていた缶コーヒーの残りを飲み干して、有瀬さんは立ち上がる。
その場で伸びをした有瀬さんは、少しさみしそうな笑顔で言った。
「じゃあ、気をつけて帰ってね。――機会があったら、また」
「……はい、また」
立ち上がったぼくは、答える。
でも、有瀬さんが「人魚姫とは違う選択をする」って決めた以上、その機会は二度とないのかもしれない――。
そう、思ってた。
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