有瀬さんの葛藤

1

「はあ……」


 照りつける日差しが眩しすぎる、七月二十四日の土曜日、午後二時。

 タイムカードで勤務時間を記録したぼくは、スタッフルームの外に出るなり、ため息をついた。


 別に、物品整理の仕事が嫌になったわけじゃない。むしろ、作業は楽しくて、いいバイトを見つけたなあって思ってる。

 じゃあ、どうしてため息をついたのかっていうと……西木さんのこと。


 ファミレスを出る前の西木さんは、きっと、泣きそうになるのをこらえてたんだと思う。

 だけど、ぼくは、やっぱり何も言ってあげられなくて……。明るく振る舞ってる西木さんに合わせて、普段通り接することしかできなかった。

 そのことがずっと気になってて、あのときどうしてればよかったんだろうって、考え続けてるんだ。今さら考えても、しかたないのにね。

 だから、《深淵の騎士》のプレイにも、全然熱が入らなくて。あんなに楽しくプレイしてたのに、今は、ほとんど進んでない。


 コンビニにでも寄って帰ろうかなあ……。


 まだバイト代も入ってないのに贅沢するのはよくないけど、まっすぐ帰る気分じゃない。

 昼ごはんは父さんが用意してくれてるはずだから、コンビニスイーツを買って帰ろうかな。ぼく、甘いものが好きなんだ。


 えーと、一番近いコンビニは、たしか、こっちだったはず……。

 家がある方向とは反対側に自転車を走らせていたぼくは、小さな公園の前を通りかかったとき、「あれ?」って思った。


 だれもいない公園の中、木陰に設置されたベンチに、女の人が座ってる。

 ぼんやりしてるその人は、この前お店に来た、有瀬春子さん。今日も相変わらず、全身黒コーデに眼鏡で、やっぱり、ちょっと地味な感じ。

 でも、どうしてこんなところにいるんだろう。

 この近くに住んでるんだとしても、今日は暑いから、公園でぼーっとするのには向かないはず。それに、待ち合わせっぽくもないし……。


 思わず自転車を停めると、遠くを眺めてた有瀬さんが、ぼくのほうを見た。

 それから、目を凝らすように、ぼくを見つめて……。

 数秒後、有瀬さんは、座ったまま会釈した。ぼくが右代谷質店にいたバイト候補の子だって分かったみたい。

 だから、ぼくも、自転車に乗ったまま会釈した。「お客さんとコンタクトを取っていいのは、お客さんのほうから反応があったときだけ」って、案外さんに言われてるんだ。

 今はリサイクルショップやフリマアプリが普及してるから、品物をお金に換えることは普通のことだけど……。それでも「質屋を利用するなんてはずかしい」って思う人たちがいるかもしれないからって。


 えーと、会釈はしたけど、挨拶もしたほうがいいのかな。

 対応に迷ってたら、立ち上がった有瀬さんが、ぼくに近づいてきた。


「えっと……右代谷質店の子で合ってるかな?」

「あ、はいっ」


 ちょっとだけ上擦った声で答えたぼくは、もう一度会釈して、言葉を続けた。


「えっと、正式に働くことになりました」

「そっか。君くらいの歳の男の子ってみんな同じように見えるから自信なかったけど……合っててよかった」


 そう言って、有瀬さんは微笑む。

 あの日は明るい表情じゃなかったから、ちょっとだけ、雰囲気が柔らかくなった感じがする。


 ぼくは何か話しかけようとしたけど、いい感じの話題を見つけられずに、だまりこんだ。

 それは有瀬さんも同じみたいで、下のほうを向いて、話題を探そうとしてる。


 うーん、どうしよう。このまま帰ったほうがいいのか、有瀬さんが話題を見つけるまで待ったほうがいいのか、分からない。世の中、対応のしかたが分からないことばっかりだ。


 お互い正解が分からないまま、十数秒、沈黙が続いて――。

 結局、ぼくが声をかけるより早く、有瀬さんが口を開いた。


「……ここで会ったのも何かの縁かもしれないし、ちょっと話していかない?」


 そう言って、有瀬さんは、こまったように笑う。


 正直、「あんまり上手じゃないナンパみたいな誘いかただなあ」って、思った。

 だけど、ぼくはうなずいた。口下手な有瀬さんに、親近感を覚えたから。

 ただ、いくらお客さんでも、あんまり知らない人と二人きりで話すのって、防犯上よくないよね。

 だから、公園で話すことにした。


 ベンチに移動する前、有瀬さんは、公園内にある自販機で、缶コーヒーを買った。

 で、ぼくにも「好きなものどうぞ」って勧めてくれたけど……。お客さんに買ってもらうわけには、いかないよね。

 でも何か飲みたかったから、自腹でみかんジュースを買うことにした。

 少し前に同級生の間で流行った、振るとゼリーになるジュース。ぷるぷるした触感が癖になるんだ。


「ごめんね、余計なお金、使わせちゃったかな」

「あ、いえ。コンビニでデザートを買おうかなと思ってたので、安上がりになってよかったです」


 木陰のベンチに、一人分の距離を空けて座りながら言う。

 コンビニスイーツは値段が張るものも多いし、スイーツ以外のものも欲しくなってたかもしれないから、みかんジュースのほうが節約になるよね。


「そういえば、まだ名前聞いてなかったっけ。聞いてもいい?」

「えっと、羽根です。鳥のハネで二文字のほうの……」

「羽根くんね。――もう知ってると思うけど、わたしは有瀬春子。水瀬みなせに住んでるの」


 水瀬っていうのは、香浦から三駅のところにある町。この辺りは田舎で、一駅間の距離もかなりあるから、電車で来たのかな。

 でも、一体何のために、香浦に来たんだろう。

 ショルダーバッグを持ってないから右代谷質店には行ってないだろうし、暑い中、田舎の公園でぼんやり過ごす理由なんてなさそうだけど。


「――何となく、じっとしていられなくてね」


 ぼくが何を考えてるか分かったのか、有瀬さんは苦笑交じりに言った。


「まあ、香浦を選んだのは、特に行きたい場所がなかったからなんだけど」

「そう、なんですか?」

「うん。……わたしの『夢』、少しずつ弱くなってるみたいだから。他の絵があるアパートには、いたくない気分だったの」

「弱く……?」


 それって、どういうことなんだろう。

 首をかしげてたら、有瀬さんが詳しく教えてくれた。


「昨日くらいから……なんていうか、絵を描きたい気持ちが薄れていってるの」

「えっ?」

「ここ最近、絵を描く気力がなかったんだけど、それとは違う薄れかたをしはじめたんだよね。『わたしはどうして絵を描きたいと思ったんだろう』って、そんな感じに」


 その説明に、ぼくは息を吞んだ。


 凍結された「夢」が消失することは、ぼくも知ってる。

 だけど、凍結される前でも「夢」に対する気持ちが消えていくなんて、教えてもらってなかった。

 それに――。


『――でも、全部、本当のことなんですよ』


 「夢」が消えていくってことは、「夢」が生き物として存在してる、、、、、、、、、、、ってこと。

 つまり、左京さんが言ってたことは全部、本当だったってことの証明でもあるわけで。


「……ぼく、夢が弱くなるなんて、知りませんでした」

「そっか。まあ、買いもどせば関係ない話だもんね。わたしみたいに、お金を借りることが目的じゃない人なら、なおさらだし……」


 向かい側にあるゴミ箱を眺めながら、有瀬さんは缶コーヒーを飲む。

 他人事だって言いたそうな――そう思おうとしてるような、口ぶりだった。

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