左京さんの理由
1
翌朝の午前九時四十五分、ぼくは予定どおり、右代谷質店に出勤した。
お店の裏側に回って、昨日聞いた従業員用出入り口からスタッフルームに入る。冷房が効いてて、涼しい。
「お、はようございます」
緊張でかすれてしまった声で挨拶したけど、中にはだれもいない。
お店へ続く部屋の奥側には、木製で背の高い
左側の壁沿いには、ロッカー四つと、出退勤を管理する機械が置いてある。ぼくの名前が書かれたカードも、機械のそばに置いてあった。
えーと、これってたしか「タイムカード」って言うんだよね。
カードを機械に入れたら、今の時間が記録されるはずだけど、もう入れてもいいのかな。
分からなくて迷ってたら、部屋の奥で、ドアが開く音がした。
それからすぐ、案外さんが顔を出す。
今日の案外さんは、髪色より少し明るいブルーグリーンの重ね着風Tシャツに、細身の黒ズボン姿。――やっぱり、質屋の副店長っぽくない。
でも、今日は、吊り下げるタイプの名刺を首にかけてるから、副店長だってことが一目で分かるようになってる。
「おはようございます」
「おう、早いな」
ほがらかに言った案外さん、壁かけ時計を見て、それからぼくを見る。
「よその店がどうなってるか知らねえけど、十五分も前に来なくていいんだぜ」
「そう、ですか?」
「ああ。おれは副店長としての仕事があるから早めに来てるが、その分の手当てはもらってるしな。おまえさんはバイトなんだから五分前くらいでいいよ。まあ、時間ギリギリだと遅刻しそうで怖いってんなら好きにすりゃいいが」
あっ、そうなんだ。
郵便局はそんなにきびしくなかったけど、他のバイトをしてる子は「遅くても十分前に着いてないと怒られる」って言ってたから、なんか意外。
案外さんは、タイムカードを入れるようぼくに言ったあと、座って待機するように指示した。仕事内容の説明は、左京さんがしてくれるらしい。
副店長の仕事を終えた案外さんも、向かい側に座る。
スタッフルームはすごく静かで、緊張してるせいか、エアコンの小さな作動音が、やけに気になる。
「――そういや、『羽根』って、結構めずらしい名字だよな」
案外さんが、思い出したように言う。
もしかしたら、ぼくが緊張してることに気づいて声をかけてくれたのかも。
「まあ、おれが言うのも変な話だが。……呼びかたは『羽根くん』でいいのか?」
「あ、いえ……名字だけで大丈夫です」
案外さんから『羽根くん』って呼ばれるのは、何だか落ちつかない。多分、案外さんのイメージに合わないからなんだろう。
少しだけ緊張が和らいだぼくは、思いきって別の話題に移った。
「……案外さんもそうですけど、店長さんも、めずらしい名字ですよね。『右代谷』って、初めて聞きました」
「おれも店長に会うまで知らなかったよ」
案外さん、うなずきながら言う。
「『うしろや』って名字はいくつかあるらしいんだが、この漢字で表すの、かなりめずらしいみたいだぜ」
「そうなんですか」
『うしろや』っていう名字自体初めて聞いたから、他の漢字の『うしろや』も、全然思い浮かばない。
案外さんは十分ほど世間話をしたあと、ぼくの言葉遣いに訂正を入れて、お店にもどっていった。
「自分が勤めてる会社の店長を『店長
ただ、間違いだって分かってるなら「店長さん」呼びでも問題ないらしいから、左京さんのことは、このまま「店長さん」って呼ぶことにした。
それにしても、もしかしたら「口うるさい」って思われるかもしれないのに、間違いを教えてくれるなんて、案外さんって本当いい人なんだね。
髪色と服装を変えれば正統派イケメンになりそうだから、本当もったいないなあって思う。
でも、案外さんはきっと、今の自分が好きなんだろうな。
まあ、今でも十分、かっこいいけど……。
そんなことを考えながら待機してると、また、ドアが開く音がした。
そして――。
「――おはようございます」
おだやかな微笑みを浮かべた左京さんが、
「あ、お、おはようございます……」
ぼくは、普通に挨拶しようとした。
でも、できなかった。
だって……今日の左京さん、昨日とは全然、印象が違ったから。
違うって言っても、服装は、昨日と同じくらいオシャレ。半袖の白いシフォンブラウスは、シンプルなデザインだけど上品だし、ウエストの位置が高いネイビーのテーパードパンツも、左京さんによく似合ってる。
じゃあ、どこが違うかっていうと――髪型と、眼鏡。
今日の左京さんは、黒髪をまっすぐ下ろした状態で、フレームの細い眼鏡をかけてて……。雰囲気は柔らかいのに、昨日よりも大人っぽい感じ。
もちろん、左京さんは、正真正銘大人のはずだけどね。
そういえば、左京さん、いくつなんだろう。二十代半ばくらいかなって、勝手に思ってたけど……。
「待たせてごめんなさい。それじゃあ、移動しましょうか」
「あ、はいっ。よろしくお願いします」
慌てて立ち上がったぼくは、その場でお辞儀をした。
さっきの挨拶は噛み噛みだったけど、今のは、うまく言えたほうじゃないかな。多分。
一安心したぼくは、左京さんのあとをついていく。
質入れで預かっている品物は、右代谷質店の隣にある建物――
「蔵」っていう言葉には、古めかしいイメージがあるけど、実物の質蔵は、最新鋭の建物。定められたきびしい基準を満たしてないといけないんだって。
実際、出入り口の扉は分厚くて、壊せなさそうな鍵もかけられてるから、泥棒に入るのは難しそうだ。
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