バイト前
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ぼく、もしかしたら、「眠って見るほうの夢」を見てるのかも――。
家に帰ったぼくは、何度もそう思ったけど、右代谷質店で起こったことは、間違いなく現実みたいだった。
だって、窓の外はすっかり暗くなってて、勉強机の上には、書いたばっかりの履歴書が置いてあるんだから。
左京さんは、有瀬さんの夢に、五千万円の値をつけた。
五千円じゃない。五千万円だよ。
左京さんの説明によると、査定金額は、「夢に対する想い」と、「夢を叶えるための努力」で決まるらしい。
有瀬さんの場合は、「コンテストであこがれの人に見いだされたい」っていう想いがすごく強くて、しかも、相当努力を重ねたから、五千万円っていう大金になったみたい。
有瀬さんは自分の「夢」を質入れして、その場で、五千万円を受け取った。
当然と言えば当然なんだけど、シルバーのアタッシュケースには、百万円札の束がびっしり入ってて……。
要らなくなった「夢」と引き換えに、こんな大金をもらえるなら、すごくうれしいだろうなって思った。
でも、有瀬さん、あんまり喜んでるように見えなかったんだよね。自分の「夢」が、五千万円に変わったのに、一体どうしてなんだろう。
それに、気になるのは、有瀬さんのことだけじゃない。
有瀬さんが契約書にサインするとき、左京さん、言ったんだ。
「夢が消失してしまうと、同じ夢を抱くことができなくなります」って。
それってつまり、「絵を描きたい」って、思えなくなるってことだよね。
でも、そんなこと、本当にあるのかな。
もし「夢」が本当に生きてて、自分の心から消失してしまったとしても、絵を描きたいって気持ちを二度と持てなくなるなんて、ちょっと信じられないよ。
有瀬さんが来る前、案外さんは「客とのやりとりを見てもらうのが手っ取り早い」って言ってたけど……。正直、余計ややこしくなったかも。
そんなぼくは、明日から一週間、右代谷質店でお試しバイトをすることになった。
お試し期間を提案してくれたのは、左京さん。夢をあつかうなんて信じられないだろうから、一週間働いてみて合わなかったら、その時点で辞めて大丈夫だって。
まあ、一週間って言っても、実際に働くのは明日を含めた三日間。
しかも、一回四時間だから、全部で十二時間。でも、バイトできるかどうか考えるには十分な時間かな。
そんなことを考えてたら、聞き覚えのある車の排気音が聞こえた。
ぼくは部屋を出て、まっすぐ玄関に行く。
そして――。
「――お風呂、沸かしといたよ」
「おかえり」を言うより早く、父さんに用件を伝えた。
「助かる……」
うめくみたいに返事をした父さんは、手持ちのエコバッグをぼくに渡す。今日はかなり疲れてるみたいで、眉間にしわがある。
「じゃあ、先に風呂入ってくる」
「はーい」
お風呂に行く父さんを見送って、エコバッグの中身を確認する。
中に入ってたのは、野菜とパンに、アジの開き二尾が入ったパック。『安くなった魚を買って帰る』って連絡が来てたから、アジの開きが一番安かったみたい。
キッチンに移動したぼくは、魚焼きグリルにアジの開きを並べて、ダイヤルを回した。
父さんが下準備した豚汁もあたためて、みそを入れる。
研究者の母さんは、ぼくが高校生になってすぐ、海外で仕事することになった。だから、ぼくも家事を手伝ってる。
ときどき「母親が単身赴任するなんて子どもがかわいそう」だって言う人がいるけど、ぼくは全然そう思わない。
だって「共働き家庭でお父さんが単身赴任してる家族」は、たくさんあるのに、それが「お母さん」になった途端、そういうふうに言うのって、何かおかしいよね。
ぼくは、研究者として夢を持って働いてる母さんを尊敬してるし、応援してる。父さんとの二人暮らしにも全然不満はない。
あ、もちろん、父さんのことも尊敬してるよ。ぼくの学業に支障が出ないよう、家事のほとんどをやってくれてるんだから。
毎週観ているバラエティ番組をつけたぼくは、夕飯を食べはじめた。
それからしばらくして、リビングに入ってきた父さんは「いい匂いだなー」って言いながら席につく。
帰ってきたときにあった眉間のしわがなくなってるから、お風呂でリラックスできたみたい。
「今日、忙しかったの?」
「いや、夕方の会議が長くてな。中身のない会議ほど長引くからこまったもんだ」
豚汁を飲んだ父さん、やれやれって言いたげに、首を横に振る。
父さんは、高等専門学校で化学を教える助教授。「労働内容のわりに給料が低くて休みも少ない」って不人気な教員職だけど、父さんには合ってるみたいで、愚痴を言うことはほとんどない。
学生からもそれなりに人気があるらしいから、
「……あ、そうだ」
「ん?」
「明日から、質屋でバイトしようかと思ってるんだけど……」
「質屋?」
「うん。ぼく向きの仕事内容だったから……」
ぼくは右代谷質店について説明した。もちろん、「夢」のことは抜きでね。
「へえ。あの辺りに質屋があるなんて知らなかったなあ」
「ぼくも今日まで知らなかったんだ。結構目立つ建物だったのに」
「新しい店なのか?」
「さあ……」
きれいだったから新しく見えたけど、アンティーク風の外観だし、全然見当がつかない。
話を聞いた父さんは「まあいいんじゃないか?」って言って、豚汁を飲んだ。
「しっかり勉強すれば母さんも反対しないだろ。それに、バイトでしか分からないこともあるだろうしな」
「……うん、そうかも」
ぼくは、うなずいた。
「夢」の質入れなんて、アルバイトしなきゃ絶対分からないよね。
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