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有瀬さんがその夢を抱いたのは、ちょうど三年前の夏。二十三歳のときだった。
気温が三十度を超えたある日、有瀬さんは、たまたま見つけた美術館に入った。
目的は、美術鑑賞――じゃなくて、倒れそうな暑さから一時的に逃げるため。入場料を支払ってでも、冷房の効いた場所にいたかったんだって。
ただ、入場料を支払ったからには、美術鑑賞をしないと、もったいない。
そう思った有瀬さんが館内をぶらついていると、ある絵画が目に入った。
電車から見た、夜明けの海――。
その油絵を見たとき、有瀬さんは、泣いてしまった。
その理由は、有瀬さん本人にも分からない。
だけど、どこか懐かしいような、まるで自分がその絵の中にいるような……。そんな感覚を覚えたんだそう。
人が少ない美術館の中、絵画の前で泣いていた有瀬さんは、ふと思った。
――「わたしも、こういう絵を描いてみたい」。
――「自分が描いた絵を、この絵の作者に見いだしてもらいたい」
これまで落書きにすら興味がなかった自分のどこからそんな感情が出てきたのか、有瀬さんにも分からなかった。
それでも、突然湧き上がった想いを抑えるのは難しくて……。
有瀬さんは美術館を出たその足で、初心者向けの画材一式を買いそろえた。
そして、次の週から、絵画教室に通うことを決めた。
そうして通いはじめた絵画教室で、有瀬さんの未来は大きく変わることになる。
――あの絵の作者が、とあるコンテストの最終審査員になってることを知ったんだ。
「応募時に二十五歳以下で、受賞経験がないアマチュア画家」だけが応募できる、新人発掘コンテスト――。
コンテストの存在を知ったとき、有瀬さんは「これしかない」って思った。
毎年二月末日が締め切りで、有瀬さんはすでに二十三歳だったから、挑戦できる機会はあと三回。
絵画教室の先生には「結構本格的なコンテストで応募数も多いから難しいかも」って言われたらしいけど、自分の絵をあこがれの人に見てもらうためには、無理を承知でやるしかない。
その日から、有瀬さんは、自由時間のすべてを絵画に費やした。絵の練習はもちろん、感性をみがくために美術館を巡ったり、自分が美しいと思う景色を探したり、様々な音楽を聴いたりしたらしい。
応募した一度目は、残念ながら、一次選考すら通過しなかった。
でも、有瀬さんは、あきらめずに努力を続けた。応募できる機会があと二回しかなかったから、落ちこんでいる時間すらもったいないって思ってたんだって。
会社で働きながら絵の練習をするのは大変だったけど、有瀬さんは、がんばった。
その成果は少しずつ形になって、二度目の応募では、一度目に落ちてしまった一次選考を通過したんだそう。
そして、最後のチャンスの三度目は、二次選考も通過して――。
あこがれの人が審査員を務めている最終選考で、落選した。
それが、この「稲穂の絵」なんだって。
「――結局、最後の最後で、だめだったんですよね」
有瀬さんは、稲穂の絵を見ながら言った。
「まあ、絵は見てもらえましたし、まだ確認していないだけで、あこがれの人からコメントももらえたんですけど……。もう、この夢を持っていても、しかたないですから」
「お気持ち、お察しいたします」
うなずいた左京さんが言う。
「ですが、失礼ながら、この先活動を続けていくことで、あこがれの方に見いだされる可能性もあるのではないでしょうか?」
「そうかもしれません。でも……わたしは、この絵と、あのコンテストで見いだされたかったんです」
うつむいた有瀬さんは、稲穂の絵を見つめた。
「たしかに、最初の目的は『あこがれの人に自分の絵を見いだしてもらうこと』でした。ただ、新人発掘コンテストに向けて努力しているうちに『このコンテストで見いだしてもらいたい』と思うようになったんです。……でも……」
その夢は、もう叶わない。
二十六歳の有瀬さんには、応募資格がないから。
「そうですか。差し出がましいことをもうしました」
「いえ……」
「では、当店での夢の取りあつかいについて、ご説明させていただきます」
会釈した左京さん、システムについて説明をはじめる。
「当店は、お品物の質入れと買い取りを行っておりますが、夢関連のお品物に関しては、質入れのみの取りあつかいで、買い取りは行っておりません」
「そうなんですか?」
「はい。ただ、通常の質入れとは異なり、査定金額が減少することはありません。また、夢の保管期限は、夢以外のお品物と同じく三か月であり、一か月ごとに利息が発生しますが、お品物に宿る『夢そのもの』は、質入れ当日を含む八日間で有瀬さまの心から消失してしまいますので、あらかじめご了承ください」
保管期限?
利息?
「夢そのもの」が消失?
知識がないせいで、左京さんが何を言ってるのか、さっぱり分からない。
有瀬さんも、『夢そのもの』ついては分からなかったみたいで、「消失?」と首をかしげた。
「夢って、形のあるものじゃないですよね。消失することなんてあるんですか?」
「――夢は、生き物ですから」
説明した左京さんの声に、ぼくは息を吞む。
だって、「夢は生き物」だって言った左京さんの声は、お客さんに向けるものじゃないくらい、冷たい響きをまとってたから。
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