二章・夢の終わり
鎮魂
肩まで届く黒髪を左右二つのお下げにした少女。薄汚れた、それでも本来は上質な仕立てだったことがわかる服の上にぼろ布をマント代わりにして羽織り、はたはたなびかせながら暗い森の中を必死に逃げ続けている。時折振り返っては怯えたこげ茶の瞳で迫り来る男の姿を見た。
「ど、どうして……」
こんなに頑張って走っているのに全く距離が開かない。向こうはゆっくり歩いているようにしか見えなくても着実に距離を縮めて来る。
「はっ……はっ……はっ――うぐっ!?」
転んで顔を打つ。その拍子に右手の平を落ちていた枝でざっくり切ってしまう。
けれど傷はすぐ癒えた。もう以前の自分とは違う、どんな怪我をしても瞬く間に治る。だから自死しようとしても死ねなかった。
(死んだら、もう逃げなくていいのかな……でも、でも!)
やっぱり怖い、死にたくない。死ねない体でも痛みはある、殺されるのは嫌だ。
辛い逃避行の終焉。それを求める自分と死を恐れる自分の間で葛藤し揺れ動いていた彼女の耳に足音が聴こえて来る。追跡者が好機と見て走り出したのだ。
「来ないで!」
振り返りつつ両手を前に突き出す、その腕が無数の触手に変じた。質量保存の法則に逆らい長く伸び続けるその先には一人の偉丈夫。筋骨隆々の巨躯に申し訳程度の白い甲冑を身に着けている。
触手の先端にはさらに鉄をも貫く鋭い爪が生じた。いくら頑強な肉体だろうとまともに受ければ肉と骨を穿たれ致命傷となる。
しかし男は怯まず、かつ厳かな表情で自ら前へ踏み出す。
するり、能力すら用いず巨体を滑らかな動作で触手の下へ潜り込ませた。少女からは突然消えたかのような光景。
「えっ!?」
ドン! という音が生じ、地面が波打つ。凄まじい勢いで地を蹴った男は地を這う姿勢のままで一気に間合いを詰めたのだ。
「ひっ――」
「!」
勢いそのまま叩き込まれる拳。鳩尾にめり込み、容赦無く振り抜かれ、体をくの字に曲げた少女を宙に舞わせる。ただし、ほんの一瞬。
男はそれが致命傷にならないことを知っていた。だから吹き飛びかけた彼女の触手を右手で掴み、強引に引き戻す。触手は千切れんばかりにピンと張りつめ、次の瞬間には少女を地面に叩き付けた。間髪入れず周囲から襲いかかる複数の白影。
ずっと逃げ続けていた。彼等に見つかることを恐れ、ひたすらに息を殺し。けれど、ついに見つかってしまった。もはや逃げることは不可能。戦っても勝ち目など無い。
(他の皆はどうしたかな……)
最期に想ったのはそれだった。散り散りになった仲間達はいったいどうなったかと。やはり彼等に追い立てられ息絶えたのか、それともまだ大陸各地で戦っているのか。
それ以上の思考を重ねる前に彼女はそこで息絶えた。無防備な背中に無数の刃を突き立てられて。祖国が犯した罪の、その報いを背負わされる形で。
「これで三人ですね」
「ああ」
補佐役の
彼等は現在、クラリオにいる仲間とは別に複数の班を編成し、大陸各地で残りの『アイリス』の捜索と討伐を行っている。
「今回もやはり、クラリオに現れた個体ほどではないようでしたが……」
「弱かったな。人間を素体にした分、個々の素養に大きく左右されるのだろう」
報告で聞いた限り、クラリオに現れた一人目はかなりの難敵だったようだ。だが東に派遣された別動隊の倒した敵は容易に撃破できたと聞く。自分達の倒した少女も同じ、与えられた能力は同等でも、その真価を引き出し切れていないように感じた。
「この娘はおそらく、臆病な性格だったのだろう」
「戦いには不向きだったのですね」
「ああ」
その証拠に誰も手にかけていなかった。ただひたすら逃げ隠れしていただけ。人目を避けて山野を彷徨い、洞窟で夜を過ごし、果実を食べて生き延びて来た。追跡時に見つけた痕跡からそう推察できる。
だが人として生きることも諦めきれず、孤独にも耐えかねて街へ出た。そこで犯罪に巻き込まれ、身を守るために力を行使。結果、存在を自分達に知られることとなった。
「だからでしょうか」
「何がだ?」
「笑っています」
「……」
たしかに亡骸は穏やかな笑みを浮かべている。きっと安心したのだろう、これでもう孤独と恐怖に苛まれることは無い。こんな無残な死に方ですら彼女にとっては救いだった。
ノウブルは屈み込み、少女の顔に触れて瞼を閉ざしてやる。そしてせめてもの供養として祈りを捧げた。
合掌した彼の姿に部下達は違和感を覚える。
「副長、それは?」
「……祈りだ」
「
「そうだな。だが、この方がしっくり来る」
「そうなのですか」
ならばと同じ形式で祈る部下達。しかし彼等はノウブルのその作法にこそ違和感を抱く。結局は改めて三柱教の作法にならい両手の指を組み合わせ冥福を祈った。手折った花の魂が、せめて死後には安らげるよう。
やがて顔を上げた彼等は回収作業を始める。
この少女もまた人を素体とした魔獣。哀れだが祖国でなくオルトランドの地にて土に還ることとなるだろう。
だが、せめて――ノウブルは少女の髪を束ねていた紐を解き、二本とも懐に収める。生命持たぬ物質は穢れの影響を受けない。だから、これらの遺品だけでも故郷に帰してやりたい。どうしてか強くそう思うのだ、死者の魂を帰るべき場所に帰さなくてはと。
厳重な封印を施した遺体は特別な棺に納められ、馬車で聖都に向かって送り出された。念のため警護として部下を二人つけ、振り返るノウブル。残った部下達の顔を見渡し、命じる。
「次だ」
「はい」
残り何体の『アイリス』がいるのかはわからない。だが必ず全員を葬る。それは天士として使命を果たすためであり、同時に彼女達のため。
もう人間には戻れない。異形と化した子供達を救うには命を絶ってやるしかないのだ。
作戦続行を命じた彼にアクターが問う。
「副長、人間の手を借りて捜すにしてもやはり非効率です。前回も今回も彼女達から正体を現してくれたおかげで見つかりましたが、他もこう上手くいくとは限りません。やはりアイズ副長の力を借りませんと」
「たしかに、その方が確実で手っ取り早い。だが、奴は奴で別の任務に従事している」
「例の少女ですか?」
「ああ、疑う余地がある間は二人ともクラリオに留める。団長はそう決めた」
「……了解です」
不服だが命令には従わねば。アクターは嘆息しつつ馬に跨る。ノウブルも彼の巨体を支えられる貴重な名馬に乗って馬首を巡らせた。とりあえず新たな魔獣被害が発生したという南方へ向かおう。次の『アイリス』がいるかもしれない。
ゆっくり並足で歩かせつつ、背中を向けた北の地へ想いを馳せる。
(上手くやってるといいがな)
自分と同格のアイズは、しかし人間との付き合い方は他の誰より下手だ。あの不器用さを間近にすると見かけに反し幼子と接している気分になる。
子供が子供の面倒を見ているわけだ。その事実がノウブルにはいささか不安に思えた。
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