第12話 塩里家、大接近

「え? 名前で?」

 さすがの年洋も、それは戸惑う。亜優ちゃんを名前で呼んでいるのは、本人が名前でいいって言ったからなのに。

「ずっと気になってたんだけどさ、先輩はお姉ちゃんを『塩里さん』って呼んでるけど、ぼくも塩里さんだし、ママも塩里さんだもん」

「確かにそうだけど……」

 亜優ちゃんは間違った事は言っていない。

 塩里さんを見ると、ちょっと考え込んでるような雰囲気だった。

 名前呼びに肯定的なのか、否定的なのか。

 どちらかは分からないが、ここで否定する理由も無い。思い付かない。

 少し恥ずかしいが、ここは名前で呼んだ方が良さそうだ。反応を見て考えたい。

「じゃ、じゃあ……佐里さん」

「はい」

 心なしか、少し嬉しそうな返事だった。感触は悪くない。名前で呼ぶと、一気に距離が縮まったような気がした。

「それから……えっと、日花さん?」

「はぁい。ママでもいいのよ」

「はい。じゃあママ――え?」

 思わず言ってしまったが、日花さんは年洋のママでは無い。距離が近すぎる。

「いや……それは……」

 さすがに呼びにくいと思っていたら、日花さんが立ち上がって年洋のそばまで来ると、腰に両手を回してそっと抱きしめてきた。

「え? 日花さん? 日花さぁん?」

 日花さんからのふわっとしたいい香りが、年洋の鼻腔をくすぐる。勉強会の前にリビングダイニングキッチンで微かに漂っていた甘い香りとは、全く別の淡く甘い香り。

 これが日花さんの香り……。

 その柔らかな香りとともに、日花さんの身体もふわふわと柔らかい。日花さんは年洋よりも少し背が高い。腰に手を回しているだけなのに、全身が日花さんに包まれたかのような感覚に陥る。

「この家では、あなたのママになってあげる。だから、名前教えて?」

 日花さんの柔らかな声。

 年洋の嗅覚と触覚と視覚と聴覚が、日花さんに支配されてしまった。

「はい。年洋と言います」

 もう年洋は日花さんに抗えない。ママの言うことは絶対だ。

「年洋くん。ママになんでも言ってね」

「はい……」

「ちょっと、お母さん。東豊くん困ってるから」

「あら、佐里。せっかく年洋くんが名前で呼んでくれてるんだから、佐里も名前で呼んであげなさい」

「え?」

 佐里さんは固まってしまった。そう言われるとは、思っていなかったようだ。

 やがてモジモジと動き出した。

 意を決したのか、

「……年洋、くん」

 佐里さんは少し恥ずかしそうに言った。多分、さっき佐里さんを呼んだ年洋と同じ気持ちなんだろう。

「ふふっ。これでみんな仲良しさんね。ギューッてしてあげる」

 年洋の腰に回した日花さんの手の力が、更にこもる。日花さんの柔らかな身体が、年洋に押し付けられた。

「佐里も」

 と言うと、日花さんは佐里さんに抱きついた。

「もちろん亜優も」

「わぁーい」

 最後は亜優ちゃんに抱きついて……いや、亜優ちゃんが抱きついている。

 もう日花さんの身体は離れているのに、まだふわふわと包まれているような気がする。

 全身で味わったこの感触を、忘れる事は無いだろう。


 年洋の家は塩里家を出るともう見える位置だが、佐里さんが玄関の外まで見送りに来てくれた。

「ごめんね、年洋くん。お母さんが……」

「いや、気にしてないよ」

 本当は別の意味で気になっているが。

「日花さんって、誰にでも抱きつくの?」

「ううん、気に入った人しか抱きつかないの」

 え……てことは……。

「だから、結構勘違いしちゃう人がいるんだ」

「あ、そうなんだ。あそこまで距離が近いと、勘違いしちゃうよね。そうだよね。ははは」

 年洋は自分に言い聞かせるように言う。

 危うく勘違いするところだった。佐里さんの一言が無ければ、勘違いしていた。


 でも、今日は塩里さんこと佐里さんとも、お姉さんこと日花さんとも、距離が近くなったような気がする。

 それは日花さんのおかげだ。

 それに、日花さんとの出会いが無ければ、この家に興味を持たなかっただろう。

 日花さんには感謝しかない。


 その後、家に帰った年洋。まだ日花さんの感触が離れない。

「日花さん……」

 部屋で一人、呟く。

 日花さんが忘れられない。

 だが、日花さんは佐里さんや亜優ちゃんの母親。もう相手はいるのだ。

 日花さんと結婚した相手を見てみたい。日花さんと結婚出来た幸運の人を見てみたい。

 でも、それは佐里さんや亜優ちゃんの父親でもある。会うのは怖い。

 年洋は複雑な気持ちになっていた。


(そういえば、日花さんには会えたけど、旦那さんには会わなかったな)


 初めて見た時から気になっていたお姉さんこと日花さんに会えたように、いつかは会えるのだろうか。

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