第36話 春一番
晴人の枝全体が桜色に発光するのに呼応して冬至郎の枝も銀色の輝きを増していく。晴人の記憶ではこのまま冬至郎の枝から季節の種が光の滴となって現れ、晴人の持つ春の枝に吸収される。……吸収されるはずなのに。冬至郎の枝は光を放つだけ、それだけだった。
来い! 来い! 来い!
晴人がいくら強く想っても、相対する冬至郎は顔色ひとつ変えなかった。
「……どうして、って顔だな」
冬至郎が静かに言った。
「季節の引き継ぎは、譲り手と受け手の意識が一つになって起きる小さな奇跡だ。だが知ってのとおり俺に季節の種を譲る気は毛頭ない。意識が一つにまとまることはないんだ。俺の言いたいことがわかるか?」
「無理だって言いたいんですか」
「いや違う。実は他にも方法がある。四季者である晴人も本能で感じているはずだ。」
「自分のものだって想いが相手を圧倒すれは手に入る、ってことですか」
「そういうことだ」
自分より強い想いはないという確固たる自信が冬至郎から溢れていた。晴人は完全に舐められている。相手にならないと言外で言われたのと同じだ。
「こんなに強く想っているのに……!」
「年季が違うんだよ。三ヶ月そこらの気持ちで勝てるものかよ」
晴人は言い返せない。過ごした時間はどうしたって冬至郎には敵わない。
「春にしなくちゃいけないのに!」
――来い!
「諦めろ。別にこの国から四季がなくなるわけじゃない。予測だが、少しばかり春と夏が短くなるだけだ」
「勝手に短くしないでくださいっ」
――来てくれ!
「なぜ春の時期にそこまで拘る? 少し遅れるかもしれんが、関東なら春に近いものは巡ってくると言っているだろう?」
理解しかねるといった表情での冬至郎の質問に、晴人の頬が緩んだ。
「簡単です。俺が二年に進級したとき、桜並木の下を夏芽と登下校したいからですよ」
――頼む!
「……くだらんな」
冬至郎が吐き捨てたそのとき、冬至郎の枝が前触れなく震え出した。共鳴なのか、晴人の枝も震え出す。黒雲に引きずり込まれたときと似た現象。「枝が助けてくれる」、「枝が腹を空かしている」夏芽と冬至郎の言葉が頭をよぎる。
「馬鹿なっ」
冬至郎の顔に初めて焦りの色が浮かんだ。両手で枝を抑えつけようとするも、主人の意向に反して冬の枝は暴れるのをやめようとしない。
理由はわからない、だが千載一遇のチャンスだということはわかる。晴人は腕を目一杯伸ばして暴れる枝を冬至郎の枝にぶつけて叫ぶ。「こっちに来い!!」
春の枝が震えるのをピタリとやめた。一方で冬至郎と冬の枝は完全に主従逆転し、冬至郎の立ち木のごとく硬直し、身体の自由が奪われていた。
「嫌だ! 絶対に渡さん!」
食いしばった歯の隙間から冬至郎の悲鳴に近い足掻き声が漏れる。しかし、そんな主人の想いに耳を傾けることなく冬の枝は輝きとともに季節の種を吐き出した。
銀色に輝く滴となった季節の種はふわふわと冬至郎から離れ、晴人の前で動きを止めた。
――貴方に春を預けます。
晴人の頭に直接響いた声は聞き覚えがあるものだった。四季の大樹に手を当てたときに聞こえた声と同じだ。
晴人はゆっくりと頷いた。
「俺が春にします」
そう言って晴人は枝の先端で種に触れた。銀色だった季節の種が桜色に染まっていく。
桜色に染まりきった季節の種の中に、晴人は手首ごと枝を突っ込んだ。空腹と指摘されたが、渇きと表現した方が適切だったかもしれない。季節の種がみるみるうちに春の枝へと染み渡り、枝を握る手のひらを伝って晴人の身体にも溶け込んでいく。身体の芯から暖まる感覚と同時に力が漲ってくる。春を管理しろと言われてから今日まで、果たして自分にできるのかと繰り返し自問していたが晴人だったが、季節の種を身体に宿した今、不安は消えていた。自分が春『そのもの』になった気分だった。
季節の種の全てが晴人に宿ったとき、晴人にようやく周囲を見渡せる余裕が生まれた。三か月前の冬への引き継ぎとは違い、秋葉と夏芽が揃って練り上げた風の球は非常に頑強で、穴が空いたといったトラブルは起きなかったようだ。上空にいる夏芽と目が合い、晴人は小さくガッツポーズした。
すると、後ろで冬至郎がおかしそうに笑い出した。
「何がおかしいんですか」
「笑うしかないさ。こんな小僧に種を奪われるとは夢にも思わなかったからな。お前の勝ちで俺の負け」
いや違うな、冬至郎は首を振って言い直した。「晴人の勝ちという訳ではないな。俺は大樹の意思に負けたんだ。四季の大樹そのものに意思があることを考慮していなかった。四季そのものが春に移ること願ってしまえば、いくら俺の想いが強いといえども代理人の立場ではどうしようもない」
冬至郎は悔しいというよりも清々しいという感じだった。ショックで精神が安定していないのか、それとも後継が育っていることに安心したのだろうか。
「……それじゃあ負け犬となった俺からの最初で最後の課題だ。俺の練り上げたこの低気圧、どうにかしてみせろ。ちなみに種を失った俺にはもう制御できん」
夏芽たちが練った引き継ぎのための球は既に消え、晴人の周囲には再び黒雲が立ち込めていた。視界不良で夏芽と秋葉の姿は再び見えなくなっている。向こうも晴人を見失ってしまったのか、接近してくる気配はなかった。
「完成には至らなかったが、それでも観測史上最大の勢力だ。この勢力を衰えさせないと、春どころか真冬に逆戻りだ」
晴人は自身の枝を見つめた。春の息吹が手のひらを通してうるさいくらい良く聞こえる。
「……やります。その課題、乗り越えます」
晴人は目を瞑り、自分の身体に宿った種を意識する。続いて雲ひとつない晴天を瞼の裏にイメージ。地上に置いてきた自分の心臓の音と空にいる自身の春の息吹、二つのズレたリズムが重なるのをゆっくりと待つ。待つ……。……待つ。…………調和した。二つの鼓動が同じリズムで脈打つのは心地良かった。
晴人は目を見開き、枝を高く掲げた。そして、季節の種が春の芽を咲かせた。
春の枝が桜色に輝きながら急激に成長を始める。枝はぐんぐんと太くなり、やがて幹となった。枝先は次々に枝分かれを繰り返し、枝の尾は根となり周囲の黒雲に絡みつく。
晴人の枝は、桜を満開に咲かせた樹へと変貌を遂げた。
握ることなど到底不可能な太さであるにも係わらず、幹は不思議と晴人の手のひらに張り付いて離れない。桜の樹から伝わる脈動は枝のときとは比べものにならないほど力強い。――これならいける。晴人は樹でありながら羽毛のように軽い春の化身を振り下ろした。
樹が大きく揺れ、満開に咲き誇る桜は無数の花びらとなって舞い上がる。黒く染まった周囲の景色が桜色に塗り潰されていく。
「まだまだ!」
桜の樹を振り上げる。桜は散りつつも、晴人が宿す種を頼りにそれを上回るペースで次々に咲き乱れる。晴人が樹を振るった動線に沿い、春風に乗った桜の花びらが上流から下流へ河川のように流れていく。
「美しいじゃないか……」
冬至郎がため息をこぼした。苦労して築きあげた自分の城が暖かい春に溶かされ、飲み込まれているというのに、冬至郎は晴人の生み出す春に見とれてしまっていた。
「春も捨てたものじゃないな」
そう言った冬至郎の姿は、舞散る桜吹雪の中に消えていった。
秋葉から待つように言いつけられ、晴人たちのいる中心部から少し離れて黒雲を見守っていた夏芽だったが、桜の花びらがはらはらと舞い落ちてきたとき、心配は安堵に変わった。
黒雲が消えて一面が桜色になった空の中、春風を頼りに晴人を探す。そして夏芽は苦笑した。「気合い入りすぎ」
桜吹雪のその先、桜満開の樹が空に生えていた。
どれだけ樹を振るったか、数える気にもならないほどがむしゃらに振り続けた晴人だったが、桜吹雪の隙間から夏芽と秋葉が近づいてくる姿を捕らえ、ようやく腕を止めた。
「やりすぎ」
注意する夏芽だったが、その顔には笑みがこぼれていた。「何で樹になってるの?」
「わからない……枝が勝手に成長した」
晴人は右手に張り付いた桜の樹を見上げた。桜色に染め上げられていた空は普段の表情に戻りつつあり、桜の隙間からは満月が顔を覗かせていた。
「秋葉さんは経験ありますか?」
未経験の出来事に対して夏芽が秋葉に確認してみる。
「いいえ、私も初めて見ます。ですが悪いことではなさそうです。なんといってもこの力強さ。これなら今期は安泰ですね」
「……正直、自分がやったとは思えないです。俺は冬至郎さんから四季を取り戻そうと必死なだけで、この力は季節の種が一時的に貸してくれただけの気がします」
「わからないことを考えても仕方がないです。ところで、冬至郎さんはどこに?」
晴人は首を横に振った。「わかりません、振り回すのに夢中で、気づいた時にはもういませんでした」
「あの桜吹雪の中で見失わないほうが無理な話です。わかりました。冬至郎さんの件については私から辰巳さんに報告しておきます。だから夏芽ちゃん、あなたは晴人くんをよろしくね?」
「よろしくって何をですか?」
不意打ちだったのか夏芽もよくわからずに聞き返す。
「決まっているでしょ? 春の四季者として本来するべき最初の仕事、教えてあげてください」
「……! そうでした」
納得顔で夏芽が了解するが、晴人にはまだわからなかい。
秋葉が地上に戻り、月下には晴人と夏芽、ふたりきりになった。桜の樹は、晴人の意思に関係なく今は元どおり枝の姿に戻っていた。
「思い出すよ」
月光に照らされた夏芽を見て、晴人は言った。
「何が?」
「夏芽と初めて逢った夜のこと。俺は夢だと思った。知ってるか? 俺、初めて夏芽を見たとき天女だと勘違いしたんだ。それがまさか学校にいる眠り姫で、春を管理しろと言ってきた。今でも夢なんじゃないとか疑うよ」
「たった四ヶ月弱で晴人はもの凄く成長した。これからの始まる春の管理もきっと大丈夫」
「最初の仕事って、俺は何をするんだ?」
「目指すは南。ついて来て」
ぎりぎりまで教えてくれないのはいつものことか。晴人は何も言わず、いつもと変わらず夏芽の後を追う。肩を並べて飛ぶのは一体いつになるのだろう。追いついて、支え合える立場になりたい。晴人は密かに次なる目標を立てた。
夏芽が振り向いた。「スピード上げても大丈夫?」
答える前に、晴人は加速して夏芽を追い抜いた。「いつでもどうぞ」
「面白い」
夏芽が笑う。目的地には随分早く着けそうだ。
その晩、疲労困憊の晴人が家に帰ってテレビを点けると、気象予報士が九州地方で春一番が吹いたと嬉しそうに告げていた。
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