第35話 対 ヤマタノオロチ

 黒雲の中は墨汁の海を泳いでいるかのように前後不覚だった。晴人にできることは振り解かれないよう必死に枝を握り締めることだけだった。

 ジェットコースターのごとく身体を振り回されることしばらく、何かに衝突して晴人の目に火花が散った。

「こいつは驚いた」

 火花の名残を残しながら目を開くと、眼前に冬至郎が浮かんでいた。どうやら晴人は冬至郎が造り出した氷の壁にぶつかったらしい。

「よく俺の場所にたどり着けたな。どんな魔法だ? 晴人だけの力でこの黒雲の中を抜けられとは思えん。もっとも、秋葉や夏芽でも変わりはしないだろうが」

 じろりと射抜かれ、晴人はたじろぎながら馬鹿正直に答えた。「俺の力で来れた訳じゃありません。枝に連れて来られたんです」

 造反者に対する態度を晴人は示せなかった。目の前にいる冬至郎は雲隠れする以前と何ら変わりないように見えた。

「枝が意思を剥き出しにしたということか。珍しいこともあるものだ。……まぁ、俺のせいなのだろうがな」

「冬至郎さんが何かしたんですか?」

「俺がお前の枝に何かしたわけじゃあない。察するに――そいつは空腹なんだ。春の枝として生まれたそいつにしてみれば、春になるべき時期が到来したにも係わらず、宿主が季節の種を有していないことに不満なのさ。だから匂いなのか何なのか知らんが、何かを頼りにして自分から季節の種を持ち続ける俺の下にやってきた。そう考えるのが妥当だろう」

「……そこまで分かっているなら季節の種を譲ってください。毎年そうしていたんですよね? 引き継ぐ相手が俺みたいな未熟者なのは謝ります。でも、一生懸命やります。春を勤め上げて、きちんと夏芽に引き継いで、また冬至郎さんに冬を返しますから」

「先ほど答えたとおり返事はノーだ。俺はこのまま冬を継続させる。そのための低気圧――純白の雪を産む漆黒の雲だ」

 冬至郎の周囲で黒い靄が呼応するように舞い上がる。

「一年中冬にするなんて無謀です。そんなこと子供だってわかります。地球規模の現象なんですよ?」

「無謀なのは承知している。だが、やってみなければわからないこともある。北海道を中心に低気圧を停滞させ続けたらどうなる? 影響はゼロではあるまい? 少なくとも俺の生まれたこの土地は白い世界のままでいられる」

「そんなの……勝手過ぎます!」

 周囲で吠える風の音に負けじと晴人は叫ぶ。「他人に迷惑をかけたらいけないって教わらなかったんですか?」

「迷惑? それは晴人にとってだろう? 俺と同じく永久の冬を望む者だっているんじゃないのか? その者たちにとっては迷惑どころか歓迎すべきことなんじゃないのか?」

「いたとしてもごく少数です」

「そうやって少数の意見に耳を貸さないのがお前の意見か? 結局は自分の都合だろう? それに、晴人にとっても悪い話ではないんだぞ? 言っておくが、季節の管理は想像以上に大変だぞ? 本人の意思とは関係なく勝手に四季者に任命されて、割に合わないと思う日がいつか必ず訪れる。それを未然に防いでやると言っているんだ!」

 動揺しなかったと言えば嘘になる。晴人は揺れた。自分の立場だけの考えで意見していることを否定できなかった。加えてこれから先の四季者としての役目がどれほど困難なのか脅かされてしまっては無理からぬことだった。

「――でも」

 晴人は枝を握りなおした。春の枝は一転して大人しい。

「甘く考えているのかもしれませんが、俺は俺なりに春を受け持つこと覚悟してずっと夏芽たちから訓練を受けてきました。それを無駄にしたくない。何より、冬至郎さんが冬を好きみたいに俺だって春が好きなんです。勝手だって言われたらそれまでですけど、俺にだって春を迎えたい理由はあります。引くつもりはありません」

 論理的な説明なんかできやしない。こんなときは想いが強い方が勝つと相場は決まっている。晴人は冬至郎に対して枝を構えた。

「面白い、ひよっこがどこまで成長したのか試してやろう」

 冬至郎は口の端を吊り上げ、冬の枝を小さく振った。たったそれだけで晴人は後方に吹き飛ばされた。ようやく姿勢を立て直したときには冬至郎とかなりの距離が開けていた。晴人は戦慄する。ただでさえ経験値に圧倒的開きがあるというのに、相手は季節の種まで宿している。一対一では勝ち目がない。夏芽と秋葉の協力が必須だ。戦略的撤退が正解だと頭では早くも警鐘が鳴り始めたとき、

「まさか女に助けを請うつもりか? まだ何もしていないのに? 男同士の喧嘩なのに?」

 冬至郎の挑発によって晴人の頭から『逃げ』の選択肢は消えた。

「舐めんな!」

 晴人は力任せに枝を振った。黒雲を切り裂きながら桜色の風が飛ぶ。

「なかなか力強い風だ」

晴人の操る風を見て冬至郎が感心の声を漏らす。「だが、まだまだ練度が足りん」

 冬至郎が杖を掲げると同時に頭上に白銀の風が渦を巻きながら現れた。例えるなら、とぐろを巻いた蛇。そして蛇はとぐろと解いて晴人の風に襲いかかった。桜色の風に巻き付いた蛇は風の勢いをみるみる殺し、冬至郎にたどり着く前に霧散させていた。

「どうした、そよ風すら届かないぞ?」

「うるさいっ! まだ終わりじゃない!」

 晴人は一心不乱に枝を振る――。


 晴人がどれだけ風を紡いでも、それらはことごとく白銀の蛇の餌食になっていた。

「もう諦めろ」

「嫌だ!」

 拒絶の意志を示す桜色の風は、悲しいかな、晴人の威勢に反して弱々しいものだった。夏芽との訓練でもここまで風を紡ぎ続けたことはなかった。集中力はとうに切れている。がむしゃらに枝を振り回すことしかできていなかった。

「しつこい男は嫌われるぞ」

 苛立つ冬至郎はとうとう晴人に直接風の塊をぶつけた。腹部に直撃。晴人はくの字に折り曲がったまま吹き飛ばされた。

 込み上げる吐き気にはなんとか堪えられたが、込み上げる『諦め』の気持ちには堪えられそうになかった。――もう駄目だ、諦めの感情に心が支配されかけたそのとき、晴人の背中に暖かな空気がぶつかり、そのまま後方に飛ばされた晴人を優しく包み込んだ。

「しつこいの、私は嫌いじゃないよ」

 暖かいのは空気の層だけではなかった。太陽の日差しにも似た温かな夏芽の手が晴人の背中をぐっと押した。

「時間が掛かってごめん」

 夏芽がいてくれることが今の晴人にはどうしようもなく嬉しかった。仲間が傍にる。それだけで大部分を占めていた諦めの感情が一瞬にして消え失せる。

「よくこの雲の中に入ることができたな」

 冬至郎が半ば呆れながら言った。「さぞ苦労しただろう」

「晴人にできて私たちにできないわけがないじゃないですか」

 さも当然とばかりに夏芽は答えたが、肩で息をする彼女の顔には疲労が色濃く滲んでいた。

「まぁ視界ゼロには苦労しました。目くらましですか?」

「それもある。が、気温を下げるには日光は邪魔でな。暗闇は都合が良いんだ」

「そうですか……、でもそれは私たちにも好都合でした」

「……『私たち』と言ったが、秋葉はどうした」

「当然一緒です。準備をしているだけです」

 夏芽の一言に冬至郎から余裕の笑みが消えた。そして冬至郎は枝を左右に振り、自ら周囲の黒雲を縦に引き裂いた。

「これって……!」

 声をあげたのは晴人だった。見覚えのある光景が黒雲の先に広がっていた。前回とは色が異なり紅色だが、まさしく季節引継の場となる球体が晴人たちを包んでいた。

「あらら、見つかってしまいましたか」

 頭上に秋葉が見えた。「これだけ大がかりな仕事をしていたのに気が付かないなんて、晴人くんに夢中になりすぎですよ?」

 冬至郎が舌打ちする。

秋葉が頭上から晴人に微笑みかけた。「晴人くんがしつこく粘ったおかげです」

 夏芽に肩を叩かれる。「お膳立ては整った。あとは晴人次第だよ」

「わかった。どうすればいい?」

 即座に反応されて夏芽は目をぱちくりさせる。「意外……疲れてないの?」

「めちゃくちゃ疲れてるに決まってるだろ。保健室に戻った瞬間に寝る自信がある。だけど、今が正念場だ。俺が春にする」

「上出来」

 晴人の意気込みに夏芽は微笑んだ。「晴人はとにかく冬至郎さんにできる限り接近して。そして『来い』と強く想うだけでいい。そしたらあとは晴人の枝が助けてくれる」

「……近づくって言ったって至難の技だろ」

 晴人はちらりと冬至郎の様子を伺う。白銀の蛇がいつでも迎撃可能とばかりに晴人たちを睨みつけながら主の身体を這っている。

「晴人ひとりなら無理。でも私たちがいる。だから絶対できる」

 夏芽は断言した。

 彼女の瞳を見ていると、不思議と晴人もできる気がしてきた。「了解。行ってくる」

「私が合図したら思いっきり飛んで……三……二……」

 晴人は両足にあらん限りの力を込める。

「一……飛べえ!」

 晴人は空を蹴り、冬至郎に向かって一直線に飛ぶ。

「季節の種は渡せないねえ!」

 蛇が咢を広げ晴人に襲いかかる。急降下。蛇と掠った髪が凍る。蛇はすぐさま軌道修正して晴人を追う。晴人の飛ぶ速度は音に近いにも係わらず蛇はそれを凌駕する。足に氷の牙が掛かる――その瞬間、蛇の脇腹に黄金色の風が突き刺さった。蛇の牙は宙を噛む。

 咄嗟に振り返ると夏芽が冬至郎に枝先を向けていた。「私が相手です」

 晴人はすぐさま冬至郎に突進するべく軌道を修正する。

 しかし、目の前にまた別の蛇が姿を見せていた。

「季節の種を持てばこんなこともできる」

 冬至郎の足下で八本の風が蠢いていた。その姿はさながらヤマタノオロチ。 

「晴人よ、掻い潜ることができるか? 夏芽、フォローはどこまでできる? ――いくぞ」

 困難は先ほどの比ではなかった。前方から襲ってくる二本を避けることができても、後方から襲ってきた三本目への対応が遅れ、晴人は叩き落とされた。一方の夏芽もさすがに冬至郎と同等の風を八本同時に操ることはできなかった。冬至郎に対抗できる風を紡ぐとなると三本が限界だった。

「最初の威勢はどこにいった? あれだけの気勢を吐いたんだ。退屈させてくれるなよ」

「晴人、なんとかならない?」

「こっちが言いたい。正直五本は厳しい」

 スタート位置まで戻された晴人、『来い』と想うどころではない。しかし、諦めるわけにはいかない。

「何度も叩き落とされておかげで慣れてきた。次は三本までなら躱せると思う」

「こっちは四本までなら紡げそう。だけど一回きりしかできないと思う」

 三足す四であと一本。季節の引き継ぎのために巨大な球体を練り続けている秋葉に頼るのは無理だとわかっていたが、ふたりは頭上にいる彼女を見上げずにはいられなかった。

「四本目は俺がなんとかする」

 晴人が決心して言った。

「冬至郎さんの紡げる数の上限が八本とは限らないけど……」

「考え出したらきりがない。とにかくあの八本を掻い潜ることだけに集中しよう」

 ふたりの表情を見て冬至郎は枝を掲げた。「腹を括ったようだな」

 冬至郎が枝でふたりを招く。

「いくよ」

「おう」

 晴人が飛び出し、その周囲を夏芽が紡いだ黄金色の風四本が追走する。

 八首の蛇が空を這い晴人に向かう。一、二、三、四、夏芽の風が晴人を追い越し四首の蛇に杭を打つ。晴人に向かう白銀の蛇は残り四首。真正面から襲い来る蛇、晴人は衝突する直前に身を翻して躱す。気流の変化を感じ取って急上昇。左右から迫った二首を何とか躱す。あと一首。どこにいるのか見失った。時間が惜しい。晴人は見失ったまま冬至郎に向かって急降下する。

「右!」

 夏芽の叫び声が蛇の牙より先に晴人に届いた。目視せず勘、目一杯の力を込めて枝を振る。悲鳴に似た風切り音が晴人の耳を掠めていく。

 八首の蛇すべてを躱した晴人は冬至郎との距離を一気に縮めた。

「驚いたぞ」

 未だに冬至郎が余裕を見せていることが気に掛かったが、晴人はそのまま強く想った。

――来いっ!

 晴人が躱しきった姿を認めてから夏芽は秋葉のいる場所に飛んだ。「任せきりにしてすみません」

「平気。こっちこそ手伝えなくてごめんなさい。それと早速だけど夏芽ちゃんも球を練るのに協力して。よっぽど強靱に練り込まないとたぶん持ちません」

 二人は中心にいる晴人たちに視線を注いだ。銀色と桜色の光が空に滲んでいる。冬から春へ、引き継ぎの始まりだ。

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