第33話 春にしたい理由ができた

 動きがあったのはそれから一週間以上が経過した午後のことだった。近頃の天気予報では沖縄すら真冬の天気が続き、春一番が吹く気配すらないと伝えており、晴人の教室でも一向に暖かくならない異常気象が話題に上ることが多くなっていた。

 待機命令の中、晴人が仕方なく六限目の授業を受けていたときそれは起きた。ノックすらなく扉が勢いよく開かれたのだ。教師を含めクラス全員の視線を一身に受けた訪問者は白衣を纏った羽衣だった。

「……養護教諭が一体どうしました?」

 古典を担当する萩野教諭も十年に及ぶ教師生活の中、初めての珍事に戸惑いを隠せていない。

「授業の邪魔をしてごめんなさい、すぐに出ていきます」

 軽く頭を下げたが、羽衣の視線は萩野に向かっておらず、扉を開けてからずっと目標を見据えたままだ。「行くわよ」

 誰に言った? という教室のさまよう視線が集まる前に晴人は動き出していた。素早く席を立ち、机を縫って歩く。秀樹と奈緒を含め、教室中がポカンとした表情でその様子を眺める。

「待ちなさいっ、授業中ですよ?」

 状況に追いつけないながらも教師として口を挟んだ萩野に晴人は答えた。「体調不良なので保健室で横になります」

「後ほど説明があるかと思いますが、空野くんをお借りします」

 廊下に出て羽衣が扉を閉めたが教室の混乱はひしひしと伝わっていた。

「冬至郎さんの件ですよね?」

「詳しいことは夏芽ちゃんと一緒に話すわ」

 言うやいなや、羽衣は夏芽のいる教室の扉を勢いよく開いた。自分の姿が映れば不要な誤解が生まれる、そんなことに晴人の頭が回る前の出来事だった。

 半分以上は羽衣に対してだったが、夏芽の教室中から視線が突き刺さるのはいつかの夏芽を昼食に連れ出したとき以来だった。

「羽衣先生?」 

 養護教諭の闖入に対する反応はどの教師も同じだった。夏芽のクラスは現代文だったかと呑気な感想が晴人の頭に浮かぶ。

「すぐに済みます」

晴人の時と同じく淡々と、しかし有無を言わせない静かな迫力を備えた羽衣の口調。「夏芽さん、保健室まで来て」

 晴人と同じく夏芽も真面目に授業に取り組んでいたため反応は素早かった。「すみません、呼び出されたので失礼します」

「こういった呼び出し方はいかがなものですか?」

 席を立つ夏芽に目もくれず、現代文の杉原教諭は羽衣に対して戸惑いながらも非難した。闖入者による授業の中断、この混乱が落ち着くにはしばらく時間が掛かる。残りの時間、授業に身が入らなくなる生徒も多いだろうことを見越しての苦言だった。

「あとできちんと説明しますので」

 夏芽を招き、羽衣が扉を閉める。ざわめきは杉原の声で静まっていたが、晴人のクラス同様、六限目は台無しになることだろう。

「あの、放送での呼び出しじゃ駄目だったんですか?」

 夏芽の第一声は晴人と違いもっともな指摘からだった。

「……そっか」

 今思い付いたという表情、羽衣は身体が先に動くタイプらしい。

「……保健室から放送室に向かうよりもあなたたちの教室の方が近いから」

 苦しい言い訳の後、「とにかく保健室へ」と羽衣は歩調を早めた。彼女の後ろ姿に晴人は疲れと怒りを見た。冬至郎とは付き合いが長いとも聞いているし、晴人たちと違って昼夜問わず全てに優先して冬至郎を捜索していたに違いない。彼に対する不満は三人の中で一番強いのかもしれない。

 晴人と夏芽を保健室に入れた羽衣は後ろ手で扉を閉めて施錠した。「あの人がいるかもしれない場所が判明したわ」

羽衣は机に置かれて既に起動しているノートパソコンの画面をふたりに向けた。画面はリアルタイムの気象衛星画像が映し出されており、ふたりの目は釘付けになった。

「ここよ」

 羽衣が指差した場所は北海道東部。

「より具体的に言えば摩周湖周辺。この地域だけ気圧が異常に低いことが先ほど観測されたの。規模はそれほど大きくないから影響は出ていないけど、辰巳の受け売りで悪いんだけど自然界では発生するはずのない歪な状態だそうよ」

「……俺たちにしかできないこと」

 晴人のつぶやきに夏芽が続く。「冬至郎さんは何をするつもりでしょうか?」

「辰巳たちは冬の維持が目的と睨んでる。シベリア高気圧が弱体化しても、日本で低気圧を維持し続ければ気圧配置は変化しないから」

 羽衣の説明に晴人は生唾を飲んだ。冬至郎はたった一人で季節の移り変わりを阻止しようと本気で目論んでいる。そして、可能性を見いだしたからこそ実行しているのだろう。冬への執着、偏愛を見せつけられ、自分はこの男を退けて本当に春にできるのか疑問を持った。気後れしているのが分かる。

「しっかりして」

 丸くなりかけた背中を叩かれ、晴人の背筋が強制的にまっすぐ伸びる。叩いたのはもちろん夏芽だ。

「面と向かう前から怖じ気付いてどうするの? 本来の季節の流れはこちら側にあるんだし、季節の種が冬至郎さんの手にあったとしてもきっと負けない。負けっこない」

 夏芽に腕を引かれて晴人はベッドに横になる。

「夏芽」

 天井を見つめたまま晴人は隣のベッドで空に昇ろうとする夏芽を呼び止めた。

「何?」

「俺思った。春になったら夏芽と一緒のクラスになりたい」

「こんなときに突然どうしたの……、だけど私もその方がいいな、ふたりの方が居眠りの注目も減るし」

 夏芽の答えを聞いて晴人は目を閉じた。「春にしたい理由ができた」

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