第30話 季節引継

「綺麗でした」

 様々な言葉が浮かんだが、結局全部その一語の言い換えに過ぎなかった。陳腐な表現に気を悪くされるかもしれないと晴人は身構えたが、冬至郎には十分だったようで、自慢の宝物を披露できた少年のように満足そうだった。

「冬も捨てたものじゃないだろう?」

 そう言い残して冬至郎は気象庁を後にした。背中に寂しさが滲んで見えるのは今年の冬も後半戦に入ってしまったからだろうか。

「男ふたりで空の旅は面白かった?」

 帰り道、喫茶店で待っていてくれた夏芽の口ぶりに若干の棘が混じっているのは冬至郎に独占していると指摘されたことに拗ねているからなのか。

「ダイヤモンドダストを見せてもらえたんだ。冬の良さもたっぷり教えてもらった。冬も――」

 ――良いものだ。そう言おうとした矢先、一変して表情を硬くした夏芽が晴人の肩をがっしりと掴んだ。

「晴人、それだけは絶対に思っては駄目。あなたは春の一部なの。春以外に思いを馳せてはいけないの。特に冬については極力良い面を見たら駄目。別に悪く思えとは言わない。だけど、冬について好意的な発言をすることは控えて」

 切迫した空気に晴人の声はうわずった。「わかったけど、どうしてそこまで……?」

「春を望んだとき、春は君に宿る。春を拒んだとき、春は永遠に訪れない」

「格言?」

「みたいなもの。四季者に受け継がれている言葉」

「それじゃあもし俺が春の到来を拒んだら?」

「春は来ない――かもしれない。実際そんなことが起きた例はないしね。だけど、あり得ないとは言い切れない。だからこう言ってしまったら逆効果かもしれないけど、晴人は春のことだけを想っていて」

「すぐに信じられるかと言われると首を捻るくらいトンデモな話だけど、わかった、春以外に浮気はしない」

「約束だから」

 随分強引な約束だったが、夏芽はようやく晴人の肩から手を離した。しかし、彼女の頭から疑問は依然として消えなかった。なぜ冬至郎は晴人に冬の魅力を語ったりしたのか、晴人に良くない影響を及ぼすことは自明だというのに。冬至郎を責め立てたい一方で、夏芽にも思うところはあった。夏がいかに素晴らしい季節であるか、夏真っ盛りのときに説明を自重できる自信は正直ない。愛する夏、「無理かも」夏芽は自嘲気味に呟いた。


 二限目の授業中に晴人の携帯が震えた。冬至郎の一件以降は特に問題も起きず、ひたすら基礎と応用を繰り返しながら練度を高める毎日を過ごしてきたが、ついに来た。久々に教師の話に耳を傾けていたが、もう晴人の耳には届かない。

 携帯を震わせた辰巳からのメールには左のとおり必要最小限の連絡事項が並んでいた。

 ・季節引継

 ・日時、二月二十七日 正午

 ・場所、緯度××経度○○

 あと一週間――。

雑音と化した授業が終わり、晴人が教室から飛び出すと、隣のクラスから夏芽も同時に飛び出してきた。

「さっきのメールだけど――」

「晴人なら平気」

 即座に夏芽は断言した。気休めかもしれない、それでも晴人にとっては救いの言葉だった。肩の力がすっと抜け、喉をせり上がっていた不安の言葉たちも大人しく腹の底に引き返していく。

「……今回も夏芽の言葉を信じる。で、これから俺はどうすればいい?」

「どうするも何も、今から新しいことをできるわけでもないし、普段どおり反復練習あるのみね」

 割と覚悟して訊いた言葉に対して随分と拍子抜けする答えだった。

「それだけでいいのか?」

「今までの練習が駄目だったとでも?」

「めっそうもない」

 槍のように鋭い視線に晴人は即答する。

「辰巳さんには私から返事を出しておくから。晴人は先に空で待っていて」

 これから一週間先まで勉強は諦めよう、晴人は空とは真逆に地面を這う成績を想い、小さなため息をついた。 

 それからの七日間、晴人は空に生きた。晴人の居眠りにすっかり慣れた教室では特に心配する様子もなく、秀樹と奈緒から「お前は眠り姫って柄じゃない」と小言を言われる毎日だった。

 冬から春へ、引き継ぎの当日。晴人と夏芽は学校を休み気象庁の前にいた。入り口の自動ドアを潜ると辰巳だけでなく秋葉、羽衣が並んでいてふたりを出迎えた。

「冬至郎さんはもう上に?」

「いいや、彼は落ち着ける環境で集中したいと言ってここには来ない」

 そういうものか、と勝手を知らない晴人は辰巳の言葉を鵜呑みにしたが、夏芽は「晴人は初めてなのだから合わせてくれてもいいのに」と不満そうだった。

「今更文句を言っても仕方がない。それに彼が来ないことがプラスに働く面もある。晴人くんだけを集中して診ていられるからね」

 大人たちに不敵な笑みを向けられ、晴人は下手くそな笑顔を返すことしかできなかった。初回ということで、隣で羽衣が常時モニタリングするとは聞かされていたが、寝顔を見られるのには変わらず抵抗がある。

「緊張しなくていい」

 晴人の心情を察して隣に並ぶ夏芽にぽんと肩を叩かれた。

「いつもと何ら変わらない。むしろフォローが多いと思えばいい。地上で辰巳さんと羽衣さん、空では秋葉さん、そして私が付いている」

「……緊張はしてる。だけど心配はしてない」

 強がりではなかった。晴人は夏芽の目を見て力強く頷いた。

 エレベーターで特別階まで昇る。春の部屋、畳の匂いが鼻をくすぐるのは前回入室したときと変わらないが、今回は布団の横に病院の手術室に置かれているような機材がゴテゴテと並んでおり、羽衣がせっせと準備を始めていた。

「邪魔にならないよう努力するから」

「たぶん大丈夫です。採血のときもそうでしたけど、空に昇れば地上のことはよっぽど揺り動かされでもしない限り気になることはありませんから」

「本当? なら良かった」

 そう言うと羽衣は心電図のケーブルの先を晴人に差し出した。「胸と脇の下、左右二カ所ずつお願い」

 横になった晴人の脈拍がモニターに映し出される。若干早い気もするが、羽衣曰く許容範囲内で問題ないとのことだった。

「もう空に上がってもいいですか?」

 晴人の質問から少しの沈黙。そして、「――いいわ」

 ようやく承認されて晴人の心が弾む。これから先に待ち受ける一大行事に対する心配よりも、空に昇りたい気持ちの方が待ち時間の間に上回ってしまっていた。モニターにも如実に現れたのだろう、羽衣はくすりと微笑んだ。

「それでは行ってきますっ」

 自分の感情が丸裸にされているようで恥ずかしい。晴人は逃げるようにぎゅっと目を瞑った。「いってらっしゃい」羽衣の穏やかな声が耳をくすぐったのを最後に、地上の音は晴人の耳から急激に遠ざかる。

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