第25話 俺、けっこう頑張りました

 明日の空の集合時間を確認し、晴人は夏芽の家を出た。雨粒を弾く晴人の傘は、くるくると機嫌良く回っていた。

 翌朝、夏芽が空に昇ると、冬に似つかない暖かな空気が頬を撫でた。

「早いんじゃない?」

 呆れたように夏芽はため息をつく。まだ集合時間には一時間以上の余裕がある。

「そっちこそ。だけど早く来てくれて助かった、教えてほしいことがあるんだ。箱を拡張したときの圧縮なんだけど……」

 ちゃんと寝たのか、朝食はしっかりと摂ったのか、問いただしたいことはいくつもあるが、日曜の朝、夏芽は晴人の疑問に答えることから始めることにした。

 予期せぬ来客があったのはそろそろ昼食のために一旦地上に戻ろうかと話していた時だった。

「調子はどうですか?」

 秋葉の来訪は夏芽も聞いていなかったらしく、「来るなら事前に言ってください」と不満顔だった。

「私だって彼のことは気にしているんです。来たら駄目なんて辰巳さんからも言われていませんし」

「そうですけど……」

 夏芽が口ごもると秋葉は晴人に水を向けた。「ところで晴人くん」

「なんですか?」

「私が出した課題――気温上昇はできましたか?」

 いたずら顔で秋葉は訊いてきた。

「期限は明日までと言われた覚えがありますけど」

「そうでしたっけ? ですけど今日も明日も大した違いはないですよね? 今の晴人くんの力を見せてもらえると嬉しいな」  

 秋葉を意地悪と評した夏芽の気持ちが晴人もわかったような気がした。秋葉を指導役とした夏芽は相当苦労したことだろう。晴人はちらりと夏芽に目を向けた。晴人の視線に気づき、助けを求めたものと受け取ったのだろう秋葉は「構いませんよね?」と夏芽に投げかけた。

 夏芽は「もちろんです」力を込めて許可を出した。

「……いつもだったら横暴だって怒るのに」

 自信満々な夏芽の態度が予想外だったか秋葉の表情は驚きと嬉しさが混じっていた。

「秋葉さんが期日前に抜き打ちに来ることは予想していました。過去、それで何度も泣かされましたからね。あらかじめ今日を期限に設定していて正解でした」

 そうなの!? 初耳だった晴人の驚嘆は無視して夏芽は続ける。「晴人が私を見たのは困ったからじゃありません。披露していいのか許可を取りたかったからです。……晴人、いいよ」

 夏芽の許可を得た晴人は枝を握った。

「秋葉さん、俺、けっこう頑張りました」

 晴人は枝を振りかざした。周囲は既に桜色に染まった風が幾重にも絡まりながら主の合図を待ち構えている。手首をしならせ枝を一振り――桜色の風一筋一筋が蛇のごとく空を這い、ある一か所を目指して次々と雪崩れ込む。周囲の風を桜色に染め上げながら一か所に集中させ続けていくと、風は、もはや風とは呼べない直径数十メートルはある雲にも似た巨大な塊に姿を変えた。そして晴人は操作を変えた。指揮棒(タクト)のごとく春の枝が上下左右に細かく振れる。塊の中で絡み合う風が一筋、また一筋と解れ始め、塊の中でめちゃくちゃに暴れ回っていた風たちが秩序を持ち始める。動きが整然となり、いびつな形状をしていた塊が、立方体に姿を変えた。

「綺麗な形……」

秋葉がぽつりと感想をこぼす。「問題はここからですね」

 箱に閉じ込められた風はまさに春風そのものだが、冬の空気が混じってしまえばすぐ冷たくなってしまう代物だ。主となる季節には到底敵わない。それでは負けないためにはどうすればいいのか? 答え、冬の空気が混じらなければいい。周囲の冬に負けることなく箱の中の気温を上昇させるには、箱の中からどれだけ冬の空気を追い出し、混じり気なしの春風で満たせられるかに懸かっている。気温上昇における最大の肝。

「ここからの晴人は結構すごいですよ」

いつの間にか秋葉の隣に並んでいた夏芽が得意げに言った。「今朝コツを掴んだと思ったらあとは駆け足でした」

「そんなに?」

「そんなにです」

 冬の空気を追い出すコツは、箱の中を泳ぐ春風の密度を均一にした上で、瞬時に圧縮させることにある。一筋一筋の風の速度は一定ではなく、箱の中では風が重なる箇所、隙間が空いてしまう箇所が発生するため密度は異なっている。密度が均一でなければ、圧縮時に冷たい空気が隙間に逃げて冷気が残ってしまう。また一方で、圧縮する速度が遅いと冬の空気を追い出しきれない。両方の問題を解決させたとき、箱の中は春で満たされる。

「晴人は風の密度を見極める嗅覚、一瞬の爆発力、どちらも持ち合わせていました」

 晴人が再び枝を天に掲げた。四季者の命に従いそれぞれの春風が呼吸を合わせて箱の中を行進する。そして各々の歩幅が揃い、一つの大きな風の流れが出来上がった瞬間、晴人は枝を前に突き出した。刹那、桜色をした風の塊は最初の五分の一程度、十メートル四方の箱に圧縮された。

「驚きました……!」

春が詰まっているだろう箱を前に、秋葉は驚きを口にした。「これは本当に予想外です」

「悪いんですが、箱に入るなら早くしてもらっていいですか? そんなに長くは持たないんで」

 杖をだけでなく身体全体を震えさせながら晴人が懇願していた。

「維持についてはまだまだです」

「そのようですね」

 夏芽の厳しい意見に秋葉はこれだけでも十分なのにと思わず苦笑した。

 箱の中に足を踏み入れると、そこは桜咲く四月を通り越した緑生い茂る空気で満ちていた。

「夏芽ちゃんの季節顔負けね」

「笑えない冗談です」

 春が詰まった空気が霧散するのに時間はかからなかった。晴人の消耗は激しく、膝に手を付いたまま顔を上げていられなかった。晴人の視界で豆粒の町並みが揺れる。 

「お疲れさま」

 頭上からの夏芽の労いに顔を下げたまま晴人は親指を立てて返した。「あれが今の俺の全開です。どうでしたか?」

「本人はああ言っていますが、秋葉さん、採点をお願いします」

 秋葉が前に来たのを感じて晴人が顔を上げようとすると、

「そのままでいいです」と秋葉が制した。「疲れたときに無理すれば本人の意思に関係なく地上に引っ張られてしまいますから無理は禁物です」

 だからそのままで、と言われたかと思うと、晴人の視線の先にポツポツと紅い風が発生した。

「無茶な注文を出したつもりだったのに、正直驚かされました」

 三本の赤い風がひらひらと踊り、それぞれが独立して形を作った。

1 0 0

「凄いよ晴人! 百点なんて私だって数えるくらいしか貰ったことない」

 興奮気味に夏芽が言う。

ようやく顔を上げた晴人には、会心の笑みが浮かんでいた。

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