第24話 空が見せてくれる表情全てが好き
――午後の訓練は色濃くなった晴人の風で再び行う気温上昇、夏芽曰く『風の箱詰め』、『季節の圧縮』に挑む。ところが、桜色の濃度が増したのは良いものの、始めのうちは風が各々勝手に泳いでしまい、晴人はコントロールに苦しんだ。浮ついた精神状態が原因であることは胸に手を当てて考えなくても明白で、夏芽のじと目が背中に刺さる。
失敗の回数を数えるのをやめてからさらに数十回の試みを越えたとき、晴人の風は根負けするように抵抗をやめた。春風が惹かれ合いながら互いの距離を縮め、春風が詰まった箱のような空間は当初の体積から半分程度に圧縮された。
「……できたのか?」
箱の形を維持させたまま晴人は夏芽に首だけ回して尋ねた。
「枝に重みを感じる?」と夏芽。
「重みはあるけど嫌な感じじゃない。蛇口から出る水を受け止めている感覚に似ているかな」
春の枝先が当たり引いた釣り竿のようにピクピクと揺れている。
「あの中、夏芽の時みたく季節が違うのか?」
「……実際に入ればわかること」
夏芽はゆっくりと春を圧縮した箱の中に近づいて行く。「お邪魔します」そう言って彼女は箱の中へその身を浸した。
箱の形状を維持しながら、桜色の風から見え隠れする夏芽の後ろ姿を晴人は固唾を呑んで見守る。春風が詰まっているだけあって中の風は強く、彼女の黒髪が左右にせわしなく踊る。
「どうかな……?」
晴人の問いに夏芽は振り返った。「地上(した)で上着を脱いでおけばよかった」
桜舞う中、ひまわりのような笑顔が咲いた。
箱の維持はまだ五分持たせるのがやっとだったが、晴人はその後もほぼ確実に箱を作れるようになった。
「残る課題は維持と拡大。最終目標は日本全土を覆い尽くすこと」
「全土!?」
途方もない目標が示され晴人から「ふひ」と気持ち悪い笑い声が漏れた。否定から入るのは好きではないが、あまりに無茶な要求ではやる気も起きない。
「今の状態でやれとは言わない。それは私だった無理。けどね、季節の種が晴人に宿ればそれも可能になる」
「季節の種、季節を担当する四季者だけが保有できるアレか」
秋葉から冬至郎に譲渡された瞬間を晴人は思い返す。輝く白銀は冬の世界を象徴しているかのように美しかった。
「俺はちゃんと受け取れるのかな」
「そのための今。晴人の中に土壌を作れたら季節の種は晴人に根付いて春色に染まってくれる」
「土壌がなかったら?」
「失敗することは仮定の話でも禁止!」
夏芽は枝で晴人の鼻先をぺちんと叩いた。流れてくる夏の匂いが鼻孔をくすぐる。
「晴人はしっかり春を引き継いで、私に夏を持ってきてくれたらいいの。余計な考えは禁止!」
季節は巡る。その循環がもし止まったら。その原因が自分になったとしたら。夏芽の忠告どおり失敗の話は考えない方がよさそうだ。
太陽が厚い雲の下に潜り、月が主役の交代だと主張を始めた頃、本日の訓練は終了となった。
「食事の話だけど、本当にお邪魔してもいいのか?」
地上に戻る前、晴人はおずおずと確認した。
「撤回はしない。晴人は私の家の住所知らないよね?」
待ち合わせ場所として夏芽は高校のほど近くにあるスーパーを指定した。
「今から一時間後、買い物は終わらせておくから晴人は荷物持ちってことでよろしく」
そう言い残し、夏芽はいそいそと地上へ降りていった。
雲の下は変わらず雨が振り続いていた。指定された時間にはまだ余裕があったが、部屋にいてもそわそわするだけなので晴人はビニール傘を広げてスーパーを目指した。
店の前にあるベンチで雨宿りをしながら夏芽を待つこと十分、果たして、時間どおりにスーパーの袋をぶら下げた夏芽が店から出てきた。
「おみごと、時間ぴったりだ」
「そっちこそ。待った?」
空での夏芽はジャージにパーカーとラフな格好だった。外ではどうなのだろうと興味を抱いていたが、残念ながら夏芽はコートにすっぽりと包まれており、私服姿を拝むことは叶わなかった。
「いいや、着いたばかり」
夏芽から買い物袋を受け取り、晴人は再び傘を広げた。何を作ってくれるのか探りたくなかったので晴人は極力買い物袋の中身は見ないようにした。
「あらかじめ言っておくけど、私も立派な料理は作れないからあまり期待しないで」
「そうなの? 何となく夏芽は毎日自分で自炊しているイメージあるけど」
「普段はお母さんが作ってくれる。私だって高校生なんだから晴人と同じで親に頼るよ」
「期待云々はともかく誘ってくれて改めてありがとう。レトルトの食事を独り寂しく食べるより夏芽の手料理を一緒に食べられる方が数万倍嬉しい」
「ハードル上げないでって言ってるのに……」
傘を傾けられ、夏芽の横顔を伺うことはできなかった。
高校から徒歩圏内、変哲のないごく普通のマンションの一室が日野夏芽の住まいだった。孤高の存在というイメージが強い分、彼女が庶民的な生活をしていることは不思議な感じがした。
「お邪魔します……」
おっかなびっくり晴人は玄関で靴を脱ぐ。靴下が雨で染みていなくて良かったとつくづく安堵。
「袋はキッチンまでお願い」
夏芽に続いて廊下を進む。買い物袋のガサガサと擦れる音がやけに大きく聞こえる。空野家より一回り大きい冷蔵庫の中は、一瞬しか見なかったが買い物に出掛ける必要のないほど充実しているようだった。
「紅茶煎れるから適当にくつろいでいて」
初めての入った家でどうやって、と突っ込みたい気持ちを抑え、晴人はリビングのソファに浅く腰掛けた。勝手にテレビを点けるわけにもいかず、かといって他人の家、視線の置き場に困った晴人は仕方なく部屋の片隅に置かれた観葉植物をじっと見つめて待った。
「インスタントだけど」ソファデスクに紅茶を置き、「テレビでも見てて」リモコンを晴人の手元に置いて夏芽は再びキッチンへ戻っていった。空と同じジャージにパーカー姿の夏芽の背中を見て少し残念に思うのは欲張り過ぎか。
「俺も手伝うよ」
腰を浮かせて申し出たものの、「料理できないんでしょ?」この一言で呆気なく腰はソファに沈んだ。
「すぐ出来るから」
言葉どおり料理はすぐに出来上がった。調理中、音が途切れなかったのは手際がいい証拠だ。おかずは豚汁とオムレツだった。昨日のミートソースの残りを活かしたとは夏芽の談だ。
「召し上がれ」
夏芽から了が出て晴人は箸を伸ばした。感想を述べる前に二度、三度、晴人の箸は止まらない。身体は一日中ベッドの上で横たわっていただけのはずだが腹は減る。高校生としての特権なのか精神の消耗なのか。喉を鳴らして豚汁を飲み干し、晴人はようやく正面に座る夏芽に顔を向けた。
「もっと上手な例えができればいいんだろうけど……うまいって言葉以外見つからない。ごめん」
「その食べっぷりが何よりの感想だよ」
夏芽は苦笑して晴人のお椀を受け取った。「一杯目と同じでいい?」
「もう少し多めでもいいくらい」
たっぷりの豚汁とごはんを手に戻ってきた夏芽が口を開いた。「食べながらでいいから質問してもいい?」
「答えられることなら」
お言葉に甘えて晴人は豚汁を啜る。
「晴人は初めて空に昇ったときどう感じた?」
彼女の真剣な眼差しに、晴人は持ち上げていた茶碗を一旦戻して思い返す。「変な夢だと思った。授業中の居眠りで見た短い夢。何度か同じ夢を見て、秋葉さんに話かけられた時はすげえ驚いた」
こんな感じだと目を向けると、夏芽は困ったように首を振った。
「聞き方が悪かったね、そうじゃなくて、空の感覚について聞きたいの。初めて空に昇ったとき、どう感じた?」
「空の感覚? そうだな……浮かぶ気持ち良さもあったけど、羽のように軽い身体はどこまでも行けそうって感じが強かった。……初めての感覚としてはそんな感じだな」
「ずいぶんポジティブな感覚だったんだ」
「そりゃあ……特に夏芽と出会った時なんて月に照らされた雲は綺麗だったし、まさに夢心地ってやつ? 覚えている感覚はそのくらい。あとはご存じのとおり目が回るほどの急展開で覚えていることは少ないかな」
ふーん、と夏芽の納得したのかしていないのか分からない曖昧な返事に対して晴人は内心謝罪した。覚えていることが少ないというのは嘘だ。はっきり覚えていることだってある。でも言えなかった。なぜか、理由は単純、記憶の大半は夏芽と出会った瞬間一コマ一コマで占められている。君のことしか覚えていないなんて本人には恥ずかしくて絶対に言えない。月明かりに照らされた姿を天女と信じたあの瞬間、晴人は生涯忘れられないだろう。その天女とふたりきりで夕食をとっている。意識しないようにしていたが、天女本人に記憶を呼び起こされてしまってはもう無理だ。晴人は夏芽から目を逸らした。
「どうかした?」
「別に」
ご飯をかきこみ晴人は誤魔化す。「夏芽はどうだった? 俺が言ったんだか夏芽も教えてよ」
「私? 三年前だしあんまり覚えてない」
「嘘だ、俺に訊いたってことは自分と比較したかったんだろう?」
「……笑わない?」
「まさか」
真面目な表情を作り夏芽を促す。晴人としても興味がある。夏芽は三年前から四季者になったと言っていた。中学生の夏芽はどんな女の子だったのだろう。
「私が初めて空に昇ったのは中学一年生のとき、秋の初め。日が暮れるタイミングと重なって空が真っ赤に燃えているみたいで……大泣きした」
「泣いた?」
予想外の答えだった。
「笑わないって言ったのに」
夏芽が口を尖らせ恨むような視線を晴人に向ける。
「笑ってない」
「鏡を見るといい。にやけ顔になってる」
指摘されて晴人は手で頬を押さえつけた。我慢できていると思ったのに。
「ごめん。だけどどうして泣いたんだ?」
「単純に死んでしまったと思ったの。しかも空が燃えているでしょ? 地獄行きかなって。 反抗期で親とも喧嘩していたから罰が当たったんだって」
「俺みたいに出迎えてくれた人はいなかったのか?」
「いた。だけどこれまた失礼な話でね。出会ってさらに大泣きした。私を出迎えてくれたのは晴人の前任の春を管理していた人で、おじいちゃんだったの。それでますます、ね」
いつも冷静な夏芽が取り乱す姿は秋葉との絡み以外でなかなか想像できるものではなかったが、かわいらしい時代があったことには違いない。ときどき覗く彼女の熱い感情はその名残なのだろうか。
「今も夕暮れって苦手なのか?」
「まさか。今は空が見せてくれる表情全てが好き」
その後夏芽は春の前任者にひたすら詫びたこと、未だに冬至郎にその一件でからかわれて困っていることを話し、一通り話し終えたときには食器洗いまで済んでいた。
「そろそろ帰るよ。今日はありがとう。食事は美味かったし夏芽の話をいろいろ聞けて楽しかった」
「私、話し過ぎじゃなかった? こういう話をできる人って限られているから調子に乗ったかも……」
玄関でしょんぼりする表情は初めて見るそれだ。夏芽には悪いがなんだか晴人は嬉しくなった。
「そんなことない。むしろ普通じゃないか? 夏芽はもっと自分のことを話していいと思う。ちなみに俺は夏芽の話をもっと聴きたい。できれば夏芽の料理付きで」
どう? と冗談めいて聞いてみると、
「……つまらなくても知らないから」
夏芽は捻くれた肯定を示してくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます