第23話 風を自分色に
「始めから簡単にできるものじゃないから」
夏芽の励ましも晴人の落胆した肩を元に戻すことはできなかった。あれから何度挑戦しても晴人は風を箱に留めておくことができず、桜色の風はむなしく霧散するばかりだった。太陽はとっくの昔に地平線の彼方へ姿を隠し、空の主役は月に変わっていた。
最初に失敗した後の夏芽の助言を晴人は反芻する。
――風が重たいんだ。
――解決は簡単。重たく感じるのは風が抵抗しているから。だったら抵抗されなければいい。つまりね、風を味方につけるの。まぁそれでも重いことに変わりはないんだけど、抵抗は激減する。
――どうやったら味方になってくれるんだ?
――風を自分色に染め上げるの。
自分の色――桜色。春の息吹を感じ、風を染めることには成功したものの色はまだまだ淡い。芽が出たばかりで開花にはほど遠いのだ。
「今日はもうやめない? 下校時刻ぎりぎりだよ」
「あと一回!」
「駄目、失敗が目に見えてる。逆効果。疲れているときに無理をしてもいい結果は出ない」
「…………」
言い返せなかった。自分でもヤケクソになりつつあることはわかっていた。
「考えるだけなら地上(した)でもできるから」
夏芽との距離はとても遠い。晴人は知らずにため息をついた。
「悪い、こんな時間まで付き合わせて」下校途中、自動販売機の前で立ち止まり、適当に選んで買った紅茶を夏芽に差し出した。
「貰えないよ。私は晴人の指導役なんだから」
「いいから受け取ってくれよ。俺が飲みたいんだ。その付き合いで」
紅茶を夏芽に押しつけて晴人はもう一本甘々の缶コーヒーを選んだ。プルを開けて一口飲むと、疲弊した脳の隅々にまで糖分が沁みていく。
自販機に寄りかかりながら晴人は月を仰いだ。息が白い。自分の身体が冬の寒さを直に感じている。
「春までに間に合うかな」
吐露した弱音は月に届くはずもなく、足下に落ちていく。
「間に合う」
夏芽は地面に転がった晴人の弱音を蹴飛ばした。彼女の瞳をちらりと覗くと、そこに不安は微塵たりとも滲んでいなかった。
「どうして断言できるんだ?」
「晴人ならできると私が信じているから」
「本人が弱気なのに?」
「その分私が強気だから」
そう言って夏芽は喉を鳴らして紅茶を一気に流し込む。らしくない夏芽の姿を見て、晴人はようやく彼女も不安だということに気が付いた。自分ばかり凹んで夏芽のことを考えていなかった。二人三脚なのだ、夏芽にだって焦りはある。ましてやこれから先にある、為すべきことをわかっている分なおさらに。
俺は馬鹿だ。叱りつける代わりに晴人もまた熱い缶コーヒーを一気に喉に流し込む。
「……あっちぃ!」
「何やってるのさ?」
「気分の切り替え。――明日もみっちり頼む」
「明日は土曜か……。朝からいける?」
「夏芽らしくない質問だな。家のベッドから飛んでもいい?」
「もちろん。時間の節約にもなるし」
「秋葉さんが次に様子を見に来るのは月曜だったよな」
「うん、土日が勝負」
ちょうどいいかなと晴人は思う。「ご褒美の件……まだ生きてる?」
「どういうこと?」
「俺としては今日できなかったら駄目ってつもりでやったけど、延長を要請したい。本番……秋葉さんの前で上手く披露できたら、でどう?」
晴人の提案に夏芽はきょとんとしていた。
「駄目だった?」
「駄目じゃない、驚いただけ。まさか今日一日でできると思っていたなんて」
堪えきれずに夏芽が噴き出した。「一日でできたら私の立場がないよ。そうだね、そうしよう。秋葉さんが来るまでに上手くできるようになったら晴人たちのクリスマス会にありがたく参加させてもらう。駄目だったら晴人も不参加。それで決まり」
「俺まで不参加って条件が厳しくなってない?」
「その時点で上手くできていなかったら春までの余裕はいよいよないって証拠なんだから当然でしょ。休んでいる暇なんてそもそもないの。けれど、晴人が明日からの二日間で気温上昇を習得できるのなら一日くらい羽を伸ばす時間はひねり出せると思う」
夏芽が不参加だけならまだしも、晴人自身まで参加できないとなると秀樹と奈緒に顔向けできない。いつまでも続くとは思っていないからこそ今年で終わらせたくはない。
「……やってやるさ」
「これでも期待してるんだから」
静かな冬の夜道、ふたりは成功を祈念して空になった容器で乾杯をした。
明けて土曜日、早朝から厚い雲に覆われた地上は空から落ちる冷たい雨で濡れていたが、雨雲を越えた上空では、太陽は普段と変わらず晴人と夏芽を明るく照らす。北西からの微風、風の本流は穏やかに流れている。
「昼食まで休みなしで続けられる?」
「親は出かけるし、起こさないように念押しした。保健室のベッドより残した身体は快適だ」
晴人は返事と同時に枝を振った。桜色の風が足下で舞う。
「調子は良いみたいだね……それじゃあ始めよっか」
東の空、目線の高さにあった太陽が見上げる高さにまで位置を変えたところで、ようやく夏芽の口から「休憩」の言葉が発せられた。午前中は徹底して春の息吹――桜色の濃度を上げることだけに注力した。
「だいぶ鮮明になったんじゃないかな」
夏芽の視線の先、晴人の枝先で舞うつむじ風は、まるで本物の桜が舞っているかのように色濃いものだった。
「いけるかな?」
「試すのは午後、昼食を食べてから」
うずうずする晴人をたしなめ、ふたりは一旦地上へ戻った。
自室の天井なのに見慣れない気がするのは保健室のそれを見慣れた証だろうか。晴人はむくりと起き上がり、階段を下りてリビングへ。冷蔵庫の麦茶をコップに注いでごくりと一口。一息ついてから台所に常備しているカップ麺を手に取った。そういえば夏芽の好きな食べ物を知らないな……。ヤカンの水が沸騰するまでの間、晴人は夏芽の学校以外での生活を想像しながらぼんやりと待った。
「カップ麺? 手抜き過ぎ」
空に戻るなり晴人は食生活について夏芽から説教を受けた。「親がいないときくらい自分でなんとかしなきゃ」
「急いで空(こっち)に戻りたかったから……」
「言い訳無用!」
ぴしゃりと遮る。「一時間休憩って伝えたんだから休むときはしっかり休んで。それでしっかり食べて。でなきゃ午後に影響が出る」
「悪かった。だけど男子高校生にしっかり料理しろってのは無理じゃない?」
晴人の反論に、むぅ、と夏芽が口ごもる。
「そう言う夏芽は何食べたんだ?」
「私? サンドイッチだけど」
「ジャムだけ?」
「失礼な。ジャムだけじゃなくて卵とハム、トマトにレタス、食材たっぷりで美味しいやつ」
晴人の家の冷蔵庫に欠落していた食材を次々に並べられ、置いてきた身体では今頃腹が鳴っていることだろう。
「……晴人の今夜の食事は?」
「え?」
「だから今日の晩ごはんはきちんとした食事がとれるのかって聞いているの」
「両親が帰ってくるのは明日で……」
「明日で?」
口ごもる晴人に夏芽は追及を止めてくれない。
「レトルトカレーにするつもりでした」
晴人の料理スキルの低さに夏芽が盛大なため息を吐くと、息は小さな竜巻に変わって雲を吹き飛ばした。四季者の力はこんなくだらないことにさえ及ぶのか。
「今夜、家(うち)に来て」
竜巻に後に待っていたのは計測不能の突風だった。突然の提案に晴人の心は吹き飛ばされ、空っぽになった晴人は返事ができずにただポカンと浮いているだけだった。
「晴人?」
夏芽の小さな呼びかけに晴人は我に返った。心なしか彼女の顔が赤い。大胆な発言をしたという自覚はあるのだろう。ここで晴人が狼狽えてしまっては気まずい空気が一気に満ちる。晴人は動揺する鼓動を抑えつけ、「喜んでご相伴に預かります」
恭しくお辞儀した。
「だけど親御さんは平気なのか? 高校の友達って紹介するとしても、俺だって一応男なんだけど……」
「今夜はうちも親いないから」
「――!」
夏芽のご両親にどうご挨拶しようか、菓子折りを持参した方が良いのか、そんな親対策が頭に浮かんでいたが、本日二回目の突風が今度こそ何もかもを吹き飛ばした。言葉を失っている晴人を見て自身の発言が多大にまずいものだと悟った夏芽の顔が急激に赤く染まる。
「違うから!」
否定の悲鳴が空に響いた。
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