第21話 第3章 気温


3 気温


 十二月に入り季節は本格的に冬に切り替わっていた。秋葉曰く「冬至郎さんが張り切っている」とのことだった。期末テストが近づいているというのに、晴人は勉強に全く手が付けられていない。というのも、授業中だろうとなんだろうと、次節の春に向けて昼夜問わず天候を管理するための猛特訓に励んでいた。主たる指導者が夏芽であることは今までと変わりはないが、アドバイザーと称する秋葉が加わり晴人に休息の時間はなかった。

「できるまでずっと挑戦です」

 穏やかな口調とは裏腹に秋葉の要求は厳しかった。

 課されたのは一時的な『気温上昇』。

 晴人は枝を掲げ、ゆっくりと気流を上下左右に回転させる。引き継ぎのときに夏芽が作った風の球をバスケットボール大程度にした縮小版。厚みを保ちながら気流の回転速度を上げていくと、球の内部は冷えた外気と隔絶される。あとは球の中に晴人独自の力である春の風を充満させれば気温は上昇する。説明を受けて理屈はわかった。しかし、晴人は肝心の春の力を未だ自分の中で見つけることができないでいた。

 春の力と呼ばれる何かを自分の中で探しているうちに晴人の集中力はいつも途切れてしまい、厚みが崩れた風の球は散り散りに避けて跡形もなく霧散した。

「くそっ」 

 晴人は本日何度目かの悪態をついた。

「それじゃあもう一度やってみましょう」

 笑みを絶やさない秋葉の指示を、「ちょっと待ってください」と夏芽が制止した。

「気温上昇はやっぱり晴人にはまだ早すぎます」

「たとえ早すぎるとしてもやらないといけない。時間がないことは夏芽ちゃんも承知しているはずでしょう?」

「わかっています。だけどいくらなんでも順序を飛ばしすぎです。晴人はまだ自分の中の春の息吹を感じてさえいないんですよ?」

 春の息吹、晴人にとって初めて聞く言葉だった。

「それは本当なの?」

 秋葉の視線に、晴人は困惑顔のまま頷いた。

「……うん、確かに早かったかもしれません。夏芽ちゃんも教えくれたら良かったのに」

「説明する暇もなく秋葉さんが進めちゃうからでしょう? 私のときもそうでしたけど、秋葉さんはもう少し歩幅を考えたほうがいいです」

「私はできましたよ?」

「それは秋葉さんだからできたんです!」

 夏芽が声を荒げた。珍しい光景だった。

「……晴人くん」

 突然水を向けられ晴人は戸惑った。「なんでしょう」

「春の息吹はあなたの中にあるわ。早く見つけてあげて」

「がんばります……」

「私はこれで失礼しますけど、春の息吹を見つけないとこの先どうしようもないのも事実。時間はないけれど、次に私が来るまでには必ず修得しておいてくださいね? あと……ごめんね夏芽ちゃん」

 秋葉が姿を消してからようやく夏芽はぽつりと言葉を返した。「別に怒っていません……」

「秋葉さんと何かあるのか?」

「別に何も……彼女は天才、私は凡人ってだけ」

夏芽はそこで話題を切った。「この話はおしまい。晴人は気にしなくていいから」

「……わかった」

 俺にも教えてほしい、そう踏み込むには彼女との距離はまだ遠い。

「――さて、秋葉さんから指示された春の息吹を自分の中から見つけ出す件だけど」

 切り替えたように夏芽は枝をぴんと弾いた。

「まずは春の息吹って言葉について解説を頼めるか?」

 夏芽はこくりと頷いた。「言うまでもないけど、四季者である私たち四人には、それぞれ春夏秋冬のうち、ひとつの力が宿っている。私だったら夏、秋葉さんは秋、晴人には当然――」

「春」

「そのとおり。息吹というのは、自分の中に宿った季節の力を見つけ、眠りから覚ますこと」

「俺の場合は春の力になるんだろうけど、眠りから覚ますとどうなるんだ?」

 晴人の質問に夏芽は言葉の代わりに枝を振った。普段よりも黄色の濃度が高い、黄金ともいえる風が晴人の頬を撫でた。

「何か感じた?」

「いつもより濃いというか……夏の匂い……むわっとする空気だった」

「その言われよう好きじゃないけど、夏だから当然ね。今の風には私の中にある夏の息吹をたっぷり練り込んだの」

「だけど今までは熱い冷たいって感じたことはなかったぞ?」

「意識しないとここまで温度は上げられないよ」

 今の時期、私の力は弱いから、と夏芽は寂しそうに枝で髪をくるくると巻いた。「他に感じたことは?」

「風の色が濃かった」

 単純かつ最も異なる点を挙げた。

「そう。息吹が練り込まれる量が多いほど風の色は濃くなる。普段の風に色が付いているのは、夏の力が私の中で既に芽吹いているから。そこが季節の息吹を自覚している者と自覚していない者の決定的な違い。晴人の風が無色なのはその証拠」

「……大体わかった。それで、俺はどうすればいい?」

「自分の胸に手を当ててゆっくり深呼吸してみて」

 言われるがまま晴人は枝を握ったままの右手を胸に当てた。

「ドクドクしてる」

「そのドクドクは晴人の鼓動じゃないってことはわかってる?」

「えっ?」

「当然でしょ? 晴人の身体はいまどこにある?」

「どこって――」

 ようやく晴人は自分の身体を保健室に置き去りにしていることを思い出した。「じゃあこの音は?」

「その鼓動こそ、晴人に結びついている春の息吹」

 手を伝わって聞こえる胸の鼓動が自分のものではない。意識すると不思議な感じだ。

「どうして俺は今日まで気づかなかったのだろう?」

「晴人が未熟なままだったら春の息吹は今も聞こえていないはず。息吹を感じられるのは成長の証。それじゃあ晴人、その鼓動を枝先に連れて来て。――そんな顔しないで。晴人ならできるから」

 夏芽に促され、晴人は胸に当てていた右手を前に突き出し目を瞑った。心臓の音――もとい春の息吹に耳を澄ます。

 トクトクとリズム良く身体の中を駆けている息吹を晴人は右腕――右手――指先へと意識を集中させていく。指先が熱を持つ。今や晴人の耳にはドクドクとうるさいくらいに息吹が鳴り響いている。

「枝も晴人の一部。自分の指の延長線上にあるものとイメージして」

 息吹の鼓動に夏芽の声が混じる。晴人は自分の指先と枝が溶け合い、境界線がなくなっていくイメージを頭に描く。指先の熱が枝に吸い取られ、ひんやりとしていた枝が熱を帯び始める。自分の指と枝の境界を見失い、息吹が指を駆け抜けていき――、

 そっと、手首をしならせて枝を振った。

 晴人が目を開くと、桜色に染まったそよ風がちょうど夏芽の髪を揺らしていた。

「暖かくて気持ちいい」

 前髪を直しながら夏芽が微笑んだ。

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