第20話 手のひらに落ちた雪の感触はもう残っていない
保健室で目を覚ますと、東京の空は晴れのままだった。手のひらに落ちた雪の感触はもう残っていない。幻かとも思ったが、
「あなたたちがいた場所、初雪を観測ですって」
スマホをいじる羽衣が現実であることを告げた。
「……ずっとそこにいたんですか?」
羽衣が腰掛けていた場所は机のある場所ではなく、晴人が寝ているベッドの傍だった。
「かわいい寝顔を堪能させてもらったわ。……嘘、辰巳から連絡があったの、そろそろ戻って来るって」
羽衣がスマホを軽く振る。
「どうやって知ったんだろう?」
「気象庁の観測」
答えたのは羽衣ではなく、隣のベッドで既に起き上がっている夏芽だった。
「観測? 俺たちって目に見えないはずじゃ?」
「私たちはね。でも気圧や雲の動きは実際に事象として起きているでしょう? それを観測して予測を立てる。そうですよね?」と夏芽は羽衣に振る。
「まぁそんなところ。ところで夏芽ちゃん、そんなに険しい表情していたらもったいないわよ? 寝顔は素直でかわいいんだから」
羽衣が自分の口角を指で上げると、夏芽は珍しく慌てた素振りで口元を覆った。
「冗談でもそういうこと言わないでくださいっ」
夏芽よりいつも遅れて目覚める晴人は未だ彼女の寝顔を拝めていない。今晴人は無性に見たくなった。邪な目標が生まれた。
「ごめんね、疲れているのにからかっちゃった。無事に季節が引き継がれたことに安心して浮かれちゃったみたい。――で、問題はあった?」
「いいえ、季節の種は秋葉さんから冬至郎さんに無事引き継がれました」
「それなら安心ね。それじゃあこっちもちゃちゃっと終わらせちゃいましょう」
羽衣は机に戻り、置かれた鞄から用意してきたものを取り出した――注射器だ。
「えっ、なんで」
思わず声を上げたのは晴人だけで、夏芽は勝手知ったる顔で制服をまくり細い腕を露わにしていた。
羽衣は手際よく夏芽の腕にアルコール消毒を施し注射針を刺した。夏芽の血液が静かに注射針から吸い上げられていく。
「季節の変化は少なからず他の四季者にも影響が生じるの。大丈夫、別にどうにかなるとかではないわ。あくまでもこちら側のデータ採集のためよ」
はいお疲れ、と羽衣は刺し跡にガーゼを押し当てた。
「次は空野くんの番、まさか注射が怖いとか言わないわよね?」
「怖くはないですけど、変化を知るためなら、あらかじめ採血しておいた方がよかったんじゃないですか?」
「気象庁に来てくれたときのこと? 実はね……怒らないでほしいのだけど、あのとき、あなたが空にいたうちに採血させてもらっているの」
一体いつの間に? 空にいたとき、肉体に違和感を感じた覚えはなかった。知らないうちに注射を打たれ、それに気がつくことができなかったことに晴人は衝撃を受けた。そしてもちろん気分のよい話でもなかった。
「好き勝手にされているんですね」
「黙っていたのは謝るわ。あのときは私と辰巳の判断で極力あなたに不安を与えないことを優先したの。」
「……悔しいけどそのとおりだと思うのでもういいです。ところで、採血するなら当事者の冬至郎さんと秋葉さんが最優先じゃないですか?」
「冬至郎さんはあらかじめ病院で待機、秋葉は辰巳が診ているわ。養護教諭の立場からすると、私があなたたちを診るのに都合がいい。オーケー?」
羽衣がウインクしながら注射器を構えた。晴人は制服の袖をまくって腕を差し出した。「……できれば痛くしないでください」
チクリとした痛みは予防接種以来だった。
採血が終わると、羽衣は検査に回すと言い残し足早に保健室を出て行った。いつも不在の理由は単純に多忙だからなのだろう。
時計の針は三時を回ったところ、今更教室に戻っても仕方がない時間だった。
「どうだった?」と夏芽が問う。
「相変わらず事前レクチャーがないから、感想は『驚き』がほとんど。あとは『不安』が少々。凄い光景で、俺で務まるのかって感じかな」
「疲れちゃった?」
「多少は。――でも、疲れた云々言うよりも、やりたいことがあるんだ」
期待した答えだったのだろう、夏芽が口元を緩ませる。
「作ってみたい?」
「ああ、俺にも作れるかな?」
「試してみなくちゃわからないね」
「それなら――」
晴人はもう一度ベッドに横たわる。夏芽が作った風の球、晴人は試してみたくてしょうがなかった。
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