第17話 保健室の羽衣養護教諭

 約束の一週間を迎えた十二月一日、四時限目が終わったと同時にそれぞれの教室から出た晴人と夏芽は保健室に向かって早足で廊下を歩いていた。

「休むって誰かに伝えた?」

 階段を先に降りる夏芽の後頭部に向けて晴人が声を飛ばすと、夏芽は振り向かないまま言った。「私が教室にいないときは自動的に保健室って扱いだから」

 あまりに寂しい返答に晴人は保健室に着くまで二の句が継げなかった。

 保健室には常に不在だった養護教諭、羽衣由美子が仕事椅子に腰掛け晴人たちを待ち構えていた。

「いらっしゃい」

 晴人は肘で夏芽を軽くつついた。「聞いてないけど、どうするんだ?」

「安心して」

夏芽が後ろ手で扉を閉める。「彼女は大丈夫だから」

「それじゃあやっぱり――」

晴人は養護教諭に視線を戻す。

「ご察しのとおり、私も辰巳と同じ立場の人間よ。お互いこの立場だと初めましてよね、空野くん」

 羽衣は回転椅子を左右に振りながら嬉しそうに自分の立場を明かした。三十歳を過ぎていると噂で聞くが、年齢の割に子供っぽい印象を受ける女性だ。

「どうしていつも不在にしていたんですか?」

 晴人はずっと思っていた早速疑問をぶつけた。

「準備をしていたの。今日のための」

「準備? 何の?」

「食べてる間に話すわ。お昼、まだなのでしょう?」

「羽衣さんは私たちだけじゃなくて、冬至郎さんや秋葉さんのことも診ているの」

サンドイッチを手に持ちながら夏芽が言った。

「今日までは冬至郎と秋葉ちゃんに付きっきりでね。挨拶が遅くなったのは謝るわ」

 大人に頭を下げられることに慣れていない晴人は慌てておにぎりを飲み込んだ。「別に責めているわけじゃないですからっ」

「だけど羽衣さんはここにいて大丈夫なんですか? 今日という日こそ秋葉さんたちのところにいた方がいいんじゃないですか?」

「ひとりでいた方が集中できるんですって。両方からフられたわ」

 指を目尻に運び泣き真似をするものの、悲しんでいるようにも憤っているようにも見えなかった。

「気象庁(あっち)にいてもつまらないし、この機会に挨拶を兼ねて空野くんを診ようと思ったわけ。あと、学校(ここ)の仕事も溜まってきたし?」

 よろしく、と差し出された羽衣の手を、晴人は制服で擦った手でおずおずと握り返した。

 ベッドに横になると、視界の隅で羽衣がこちらをじっと観ているのが気になったが、「集中」と夏芽の凛とした声が聞こえた途端、パブロフの犬よろしく晴人の意識は見慣れた天井を突き破っていた。

 自分の身体から離れてすぐに夏芽から声が掛けられた。「とりあえず晴人は私に付いて来て」

「メールに書いてあった座標に向かうんだよな?」

「そう。晴人はあの場所がどこか予習した?」

「一応。中央アルプスのどこかってだけ」

「上出来」

 夏芽は満足気に頷き、針路を北にとった。

 目的地には指示された十三時の五分前に到着した。山々の山頂は雪で白く覆われていたが、標高が下がるにつれてまだ黄色が大部分が占めていた。

「俺たちが最初かな」

 周囲を見渡し何気なく晴人が言うと、頭上から銀色に染まった風が降ってきた。

「どうやら違ったみたい」

 夏芽が空を仰いだ。彼女の視線の先、目を凝らすとかなり上空にぽつりと黒い点が見えた。黒点はゆっくりと高度を下げ、晴人も誰か認識できた。

「さすがに早いですね」

 夏芽がぺこりと冬至郎へ頭を下げる。少し遅れて晴人も続く。

「年甲斐もなくそわそわしてな。なんといっても今日からが俺にとっての本番だ」

「晴人のためにも暖冬にしてくれたらいいんですけど」

「俺がどうこうできるものじゃないが、善処するさ。それで晴人、お前の調子はどうだ?」

「順調……らしいです」

「らしいってお前なぁ。夏芽、実際のところは?」

「間に合わせます」

「本当に大丈夫かお前たち? 今日はくれぐれも頼むぞ?」

 冬至郎の言葉が晴人の耳に引っかかった。

「俺たちも今日何かするのか?」小声で夏芽に訊く。

「大丈夫、晴人は心配しなくていい」

 心配も何も、何をするのか教えて欲しい。そう夏芽に訴えようとするも、突如発生した紅の風が晴人の言葉をかき消した。

「みなさん早い到着ですね」

 紅い風をドレスのごとく身に纏わせた秋葉の姿は紅葉の美しさを凝縮したかのようだった。さながら秋の化身、美と力を兼ね備えた圧倒的な迫力に晴人は息を吞んだ。

「俺たちが早いんじゃない、秋葉が遅いんだ」

 しかし、気圧されているのは晴人だけで、冬至郎も夏芽も平然としたものだった。

「時間ぴったりですよ?」

 秋葉は秋のドレスを解きながら首を傾げると、冬至郎はため息で返した。

「冬至郎さんは五分前行動厳守の人なんだけど、秋葉さんはああだから」

 晴人に耳打ちした夏芽は、「不仲ではない」とも付け足した。

 秋葉が耳打ちするふたりに目を向ける。「お久しぶりです」

 今度は晴人も夏芽と同じタイミングで会釈し、そのまま晴人は訊かれるであろう質問を先に答えた。

「俺の方は順調です」

「期待していますね」

秋葉がひらひらと手を振ると、手の動きに合わせてドレスの残滓が左右に揺れた。

「聞け」

冬至郎の号令で全員の注目が彼に集まる。「晴人が加入したこのメンバーで行う最初の季節の引き継ぎだ。秋葉は自分のことに集中していればいい、夏芽、晴人の分も頼んだぞ」

「はいっ」

夏芽は力強く頷き、置いてけぼりの晴人に声を掛けた。「心配しなくていいから。晴人は引き継ぎの様子をよく見ていて」

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