第15話 風にも色がある

 晴人の風の扱いは日を追うごとにみるみる上達していった。夏芽の適切なアドバイスと彼女の目を盗んで行った早朝の自主トレが上手く噛み合ったらしい。朝練を通じて晴人は自身が夜明けの瞬間に見せる空の表情が一番好きだと知った。遮る物が何もない空で見る夜明けは格別だった。

 約束の一週間まで一日残し、夏芽の目指した練度に晴人は達した。今や風は晴人の思うままに向きを変え、操る風の横幅は教室がすっぽり入ってしまうまで拡がり、地上に気づかれてしまう規模の雲も容易く動かせるほど強力になっていた。

晴人が操る緩急のついた風の舞いを見て夏芽は舌を巻いた。「求めていたことだけど、まさかできるようになるとは思わなかった……素直に褒めたい」

「夏芽コーチのおかげです」

 恭しく頭を下げた晴人は数日前から胸の内に秘めていた計画を提案することにした。「ところで、これで一日余裕ができたってことだよな? 思い切って明日は休みにしないか?」

 晴人の提案に夏芽は――予想していたことだが――全く乗ってこなかった。

「基本のキを覚えただけだよ? 反復練習は怠ったら駄目だし、何より晴人はまだ風を自分色に染められていないのだから」

 痛いところを突かれた。そうなのだ、この六日間、晴人が本流から紡ぐ風には、一度として夏芽の風のように色に染まって現れることはなかった。

「色なぁ……まさかの無色ってことは?」

「それはない」

 夏芽はあっさりと却下する。

「色は必ず現れる。風に色が付かないのは晴人がまだ一人前じゃない証拠」

「そっか……」

 がくりとうなだれた晴人に夏芽は少し慌てた様子で距離を縮める。

「ごめん、ちょっと意地悪言った。そもそも今の段階で色が付くはずないの。だからそんなに気落ちしないで」

「それなら……明日は一日休みにしても平気か……?」

 凹んだままの晴人を見慣れていないせいだろう、夏芽は指を組んで少しばかり悩んでいたが「……明日だけなら」とついに折れた。「……もしかして結構疲れてる?」

下に回り込んで晴人の顔色を伺った夏芽は、彼の表情を確認した途端に吠えた。「――騙したね!」

顔を上げた晴人の顔には笑顔が張り付いていた。

「聞いたぞ。明日は休みって」

 睡眠時間を削ってまで努力した理由の一つはその台詞を聞くためだった。顔がにやけるのも無理はない。ただこれから聞くことについてこの表情は適さない。晴人は頬を叩いて強引に笑みを消す。

「突然だけど」晴人は切り出す。「夏芽は授業に付いていけているか? 授業のノートを見せてくれる奴とか、いる?」

 四季者とは直接関係のない、踏み込んだ質問をしているとは晴人も自覚している。しかし、ずっと聞きたいことだった。幸い晴人には秀樹と奈緒という心強い友人がいる。文句を垂れながらも晴人が書きとれなかったノートを提供してくれる。

「余計なお世話だと思わない?」

 ぼそっと夏芽が呟く。

「おせっかいだとはわかってる。けどさ、実は辰巳さんからも頼まれているんだ」

 辰巳の件は事実だった。先日、晴人が夏芽の勉強のことを心配していた矢先に辰巳から連絡があり、学生としてのフォローをしてやってほしいと頼まれたのだ。

「余計なことを……」

 舌を鳴らす夏芽に構うことなく晴人はぐいと顔を寄せると、その分彼女が後退りして距離を保つ。

「どうなんだ?」

「……赤点は取ってないもん」

 顔を赤らめ夏芽は白状した。

「明日は勉強会。俺もだけど、遅れた分を取り戻そう」

 晴人の提案に夏芽はしぶしぶ頷いた。自分の成績がまずいことは承知しているのだろう。

「晴人も……覚悟してるんだよね?」

 夏芽が自分の枝を軽くしならせた。黄色のつむじ風が周囲に巻き起こる。

「……何を?」

「明日の分を含めて今日は徹底的にしごいてあげる」

「……お手柔らかに」

「聞く耳は持たない。――晴人だって待ってくれないんだからお相子だよね?」

 授業中、席の後ろで晴人の突っ伏す姿を見慣れてきた秀樹だったが、晴人の身体が小刻みに跳ねるのを見たのはこれが初めてだった。

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