第14話 世界一贅沢な散歩

 太陽が半分地平線の彼方に潜り、夕日がふたりを赤く染める。

 放課後の練習を含めた総復習。晴人は枝を前に突き出し、そこからゆっくりと腕を掲げた。春の枝に従い幾筋かの風が紡がれ上空へ舞い上がっていく。風を目で追いながら晴人は手首を一、二度くるりと回すと、風は上昇を止めて宙に留まり、行先を見失ったかのように同じ場所をくるくると旋回した。

「せーのっ!」

そう叫ぶと同時に晴人は腕を勢いよく降り下ろした。枝の風切り音が合図となったかのように、旋回していた風は壁を伝う水のように静かに下降してきた。上昇時よりも速度が鈍いのは晴人の力量不足を現していたが、それでも風は下方にある雲に向かって着実に歩を進め、ついには雲とぶつかった。そして雲は、形を歪めてさらに落ちて行った。

「どう?」

 雲が形を歪めながら下降していく姿を見送りながら晴人は夏芽に感想を求めた。昼休みと比較すれば自分でも急成長している手応えがあった。結果、夏芽は笑みを返してくれた。嬉しさが込み上がり少しだけ高く浮かんでしまう。顔が熱く感じるが、夕焼けがごまかしてくれるはずだ。

「まだまだこれからだから」

 しかし、釘を刺されるのもずいぶん早かった。「まだやらなくちゃいけないことは山ほどあるよ。まずは風の速さと力強さを今の何十倍にもしなくちゃ始まらない」

 そして夏芽は締めくくる。「だけど、今日のところはお疲れさま。私の予想以上に晴人は進歩したよ。ゆっくり休んで明日に備えて」

 改めて見せた彼女の笑顔は、高度が下がりかけていた晴人をまた少し浮上させた。

「夏芽はいつも空にいるの?」

 晴人がそう聞いたのは太陽がとっぷりと沈んだ下校途中のことだった。途中まで帰り道が一緒という大義名分の下、晴人は早足の夏芽の隣を歩く。

「まぁ」

 肯定したものの、夏芽の視線は晴人に向かうことなく前だけを向いていた。興味のない話、そう突っぱねられたようだった。

「秋葉さんや冬至郎さんと一緒に?」

「ううん、基本的にはひとり。自分の受け持つ季節以外は必ずしも空に上がる必要はないし、夏は季節の管理で忙しいし」

「……寂しくない?」

「あまり思ったことない。私にしかできないことがあって、そのために必要なことをしているだけだから。それに……」

「それに?」

夏芽は空を見上げた。「好きなの。空が」

 また明日と言い残し、夏芽は分かれ道となる踏切を渡って行った。遮断機が下りるまで、晴人は立ち止まって彼女の凛とした後ろ姿を眺めていた。


「……明日って言ったのに」

 どうして、と夏芽の瞳は責めていた。

 呆れるのは勝手だが人のことは言えないだろうと晴人はじろりと彼女を見返した。

 夜の帳が降りた二十三時過ぎ、寝る前のおさらいとベッドに転がり空へ昇ると夏芽がいた。初めて夏芽と遭遇した夜に比べて月は欠けていたが、降り注ぐ月明かりを浴びた彼女に対して抱く印象は何も変わらない。

「反復が大切だって言ったのは夏芽だろ?」

「十分な睡眠も大切なの。目を瞑って横になっているとはいえ、私たちの意識は空(ここ)にある。体力回復どころかむしろ疲れが溜まる一方なんだよ?」

「わかった、復習は控えるよ。けどさ、夏芽は自分のことを棚上げしてないか?」

 空でひとり黙々と鍛錬している眠り姫の真実を知れば、周囲の目も少しは変わるのだろうか。

「私はいいの。もう習慣になっているから」

「理由になっていないような気がするけど」

 晴人の追求に夏芽は照れくさそうに月を見上げた。

「……こうやって月夜の散歩に出かけないと眠れないの」

 どこまでも空が好きななんだと晴人は感心する一方で、中毒者のようだと呆れる気持ちもどこかにあった。

 晴人は夏芽のいる高さに上昇する。

「一緒にいいかな?」

 世界一贅沢な散歩だ、楽しみ方を是非ともご教授願わねば。

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