第13話 教師と空 行ったり来たり

 夏芽は風で固めた雲の椅子からパッと立ち上がり晴人の手を掴みそのまま一気に急下降を開始した。

「一体どうしたんだよ?」

「たぶん晴人は教室で先生に起こされてる。忘れていない? 今は授業中、起こされる可能性は十分にある」

「別に無視すればいいんじゃないか?」

「声を掛けられただけで次の生徒を当ててくれたら問題はない。だけどもし仮に強引に起こされていて、それでも晴人が目を覚まさないとしたら――」

 ようやく察した。「すぐ戻る」

 晴人は地上にある校舎に意識を集中させて目を瞑った。

 顔を上げると、案の定というべきか、怒りを越えて何事かと心配した表情の小林と目が合った。

「空野さん、大丈夫なの?」

 今日何度目になるのか、クラス中から視線を浴びていた。自分は何度起こされていたのだろう。振り向き、後ろの秀樹にそっと聞く。

「俺、どうなっていた?」

「……どうしたってこっちの台詞だよ。いくら揺すっても反応しないし、マジで平気なのか?」

 秀樹の青ざめた表情が冗談でないことを物語っていた。夏芽は今までどうやってくぐり抜けてきたのだと疑問が浮かぶが、今はこの異様な空気をなんとかするのが先決だ。

 晴人は起立し、「すみません。失礼な話ですが寝ていただけです。体調に問題はありません」

 失礼しました、と頭を思い切り下げ、再び席に着いた。

「そうなの? それならいいけど……つらくなったら遠慮しないで?」

 はい、と晴人がきちんと受け答えしていることに安堵したのか、小林教諭は特に注意をするわけでもなく、何事もなかったかのように授業を再開した。夏芽の言うとおりだ。少なくともこの授業中に空にあがることはできない。晴人は真っ白なノートに無駄とわかりながらも途中の板書を写し始めた。

 授業が終わり、すぐに空へ戻り夏芽に途中退場を詫びるつもりだったが、晴人の腹積もりは奈緒によって阻止されてしまった。心配面を引っ提げて晴人の机に勢いよく両手をついた。

「どうしたの? 居眠りなんて秀樹の役割でしょ? 本当は調子悪いんじゃないの?」

「ひでぇ言いようだな」と後ろから秀樹がぼやく。「だけどマジな話、大丈夫なのか? 一瞬だけど死んでるのかと思った」

「午前中は普段どおりだったのに。昼休みに何かあった?」

 奈緒の必要のない鋭さに晴人はぐっと詰まる。彼女の想像する内容とは違うだろうが、何かあった……というより、ずっと何かしていたことが原因であることに違いはない。

「ちょっと慣れないことがあって疲れただけ。それだけだよ」

 嘘は言っていない。空から戻ってきてぐったりと身体が重いのは本当だ。

「眠り姫と何かあったの?」

 奈緒の言葉の端には棘があった。

「ナニしてたんだよ?」

 秀樹の言葉には卑猥な含みがあった。

「昼飯を一緒に食べていただけだよ」と奈緒に答え、秀樹には「バカ」と打ち返した。

「晴人はいつから眠り姫とそんな関係になったの? やっぱり保健室の一件のときにはもう知り合いだったの?」

 保健室で眠っていた晴人を傍らで夏芽が見下ろしていたときのことを指していた。あのときはまだ空でしか遭遇していなかった。晴人は奈緒に対して秀樹の時と同様の説明をした。

「ああ。最近なんだけど、知り合い仕事を手伝うことになって、そこに彼女がいたんだ。それで知ったんだけど、あの子、昼休みも寝てばかりらしくてさ。寝るくらいならと思って今日は昼飯を誘ってみたんだ」

「ふぅん。それにしては随分と積極的に見えたけど」

 奈緒は信じたのかどうか微妙な頷きをした。

「つまりこういうことか?」秀樹が晴人の眠りについて話を戻す。「晴人は眠り姫を誘って昼飯を食ったはいいが奈緒以外の女の子に慣れてなくて緊張してしまった。その結果、授業では緊張の糸が切れて眠気に襲われた、と」

「そんな感じ。昨日夜更かししたっていうのも理由の一つだけど」

「なんか釈然としないが、そういうことにしておいてやろう。それにしても小林にスルーされないとはツイてなかったな。なんかあったのかな?」

 しれっと秀樹が話題の方向転換をしてくれた。晴人が言いづらそうにしていることを察してくれたのだろう。中学一年生からの付き合いはこういったとき助かる。同じ付き合いの奈緒も恋愛のあれこれは興味ある話題だろうに、今は関心なさそうにしてくれていてありがたかった。

 六時限目、本日最後のコマである現代文。晴人は十分ごとに戻るルールを自分に課し、早々に机に突っ伏した。

 当然というべきか、夏芽はやはり空で雲を弄びながら晴人を待っていた。

「途中で抜けてごめん」

「学生の本分は勉強にある――辰巳さんならきっとそう言うはずだから」

 気にしていない。そういう意味なのだろう。

「夏芽は起こされないのか? 俺よりずっと長く空にいるだろうに」

 参考にするつもりで聞いた晴人に対し、夏芽は口角を上げておかしそうに質問で返した。「私のあだ名、知らないわけじゃないでしょ?」

「……眠り姫」

「最初は我慢比べ。教師を諦めさせたら勝ち。それに、昼にも言ったけど私たちには協力者がいるからそっちの草の根活動でも次第に晴人の居眠りは許容されるようになると思う」

「聞きそびれていたけど、それってやっぱり羽衣先生なのか?」

 候補として最初に思い浮かぶのは、やはり学校の養護教諭だ。

「内緒。近いうちに会えるだろうから楽しみにしていて。でも、学校に限らず私たちを見守ってくれている人って結構いるみたい。自分で言うのはおこがましいけど、私たちって公にすらできない凄い重要人物なの。四人しかいないし、一つの季節に対してはその人限り。見えないところで大事にされてる」

「誰がそうなのかは教えてもらっているのか?」

「変な話だけど、私も限られた人しか知らない。知る必要もないって辰巳さんが判断しているんじゃないかな。

話が逸れてきちゃった。とにかく今は晴人が風を上手に操れるようになることが最優先。守られるに値する人物になれ――冬至郎さんからの受け売りだけど、晴人も早く一人前の四季者になれるように努力して」

 今のふがいない姿を冬至郎たちに見られようものなら……と嫌な想像はここまでにして晴人はさっそく枝を手にとった。

 十分で教室に戻るつもりが気づけばその倍の時間が過ぎていた。

「六時限目は一端戻る。放課後になったら保健室に行くから」

 慌てて教室の身体へ戻っていく晴人を見送った夏芽は束ねていた髪を解き、より高い空に向かってほっと息をついた。「なんとか間に合いそう」

 夏芽の視線の先、晴人が紡いだ風は、微かではあるが、確かに雲を押し下げていた。

 意識を教室に戻した晴人は周囲の様子を伺いながらゆっくりと頭を上げる。どうやら授業は滞りなく進んでいるらしい、胸を撫で下ろすと不意に背中をつつかれた。授業中なので振り返るわけにもいかないでいると、現代文の田中が板書するタイミングを見計らい後ろから晴人の机に紙屑が投げ込まれた。皺だらけの紙を広げると、秀樹の綺麗と言い難い字が走り書きされていた。『まだ当てられてない。大丈夫か?』

 晴人は背中に手をまわして親指を立てることで秀樹への返事とし、そのあとは真面目に授業を受け――られなかった。上手くいった感覚を忘れないよう頭の中でひたすら反復練習するばかりだった。

 放課後、秀樹と奈緒にはとにかく早く帰って寝ろ、と厳命されて教室を追い出された晴人だったが、その足は保健室へ向かった。見慣れた光景と言うにはまだ早いかもしれないが、保健室にはやはり養護教諭の姿はなく、夏芽がひとりベッドに腰掛けていた。

「三十分ぶり」

 晴人は隣のベッドの足側に鞄を放り、枕側に腰を降ろす。

「教室はどうだった?」

「教師から睨まれることはなかったけど、友達には怪しまれてる。今だって帰って寝ろって教室から追い出されたばかりだ」

「良い友達だね……」

 夏芽がぽつりと言葉を落とす。しまった、と晴人は瞬間後悔した。眠り姫と言えば聞こえはいいが、要はクラスで浮いているということだ。友人関係の話は彼女の前でするべきではなかった。

「さっきの俺、どうだった?」慌てて話題を変えてみる、そもそも本題はこちらだ。「下向きの風、あれでよかったかな」

 晴人の質問に夏芽も頭を切り替えることができたようで、曇りの表情が晴れていく。

「うん、晴人は飲み込みが早い。最初は冷や冷やしたけど、昨日の今日で上下に風を操れるなんて凄いと思う」

 自分が辿ってきた道を振り返り、夏芽は素直に晴人を褒めた。「おさらいする?」

「もちろん。そのための保健室だ」

 夏芽を待たずに晴人は嬉しそうに大の字に寝そべった。せっかちだなぁと苦笑しつつ、後に続いて夏芽も枕に頭を置いた。

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