第12話 5限目の数学は、空で。
昼休み終了の五分前、保健室を出た晴人は盛大にため息をついた。背中に掛けられる夏芽の「初めはみんなそうだから」という慰めも、愕然とした表情を見せられた後では既に手遅れだった。
……何度試しても、そよ風ひとつ起こせなかった。
俯いて歩いていると、いつの間にか教室の前に着いていた。振り向くと夏芽はもういなかった。自分の教室に戻ったらしい。呆れられたか……と意気消沈しながら教室の扉を開くと、すっかり頭から抜け落ちていた視線の集中砲火を再び浴びせられた。眠り姫として有名な夏芽に連れ去られた男子として再びクラスの注目の的だ。学園祭も終わり期末試験直前でもない中だるみの中、晴人はこれ以上ない話題提供者となってしまっていた。
チャイムが鳴ってからこそこそ入るべきだったと後悔しても後の祭り、さっそく軽口が色々と飛んでくる。
「見せつけてくれちゃって」
「どこ行っていたんだよ?」
「愛妻弁当か~?」
「いつからだ!? いつからなんだ!?」
四方八方から飛んでくる質問を苦笑いだけで受け流し、晴人は自分の席に着く。後ろの席に座る秀樹が「ご愁傷さま」と椅子を軽く蹴ってくる。
「別にみんなが期待しているようなことは起きてやいない」
身体を捻って弁明するも、
「仮にそうだとしても誤解させるような行動を取ったのは晴人たちだからな。自業自得」
そう言われてしまうと晴人は回答に窮してしまう。もし他の誰かが今日の自分のような行動をとれば、面白さと嫉妬で間違いなく冷やかす側に回っていたはずだ。
「まぁ存分に冷やかされるといいさ。その背中に貼られたラブレターと一緒にな」
「え?」
晴人が慌てて背中に手を回すと、指摘のとおり小さな紙が貼り付けられていた。メッセージから夏芽がやったことは明白だったが一体どこで? 古典的ないたずらにすら気づけないほど自分の動揺は激しかったらしい。
「どういう意味だ? 屋上ってこと?」
横から覗き見る秀樹にはわからなくて当然だろう。
『五限、空』
五限目の数学、晴人は着席と同時に机に突っ伏した。数学の小林はあまりつべこべ言うタイプではなく、聞く気がない生徒は放置する割り切った三十代前半の女教師だ。今の晴人にとっては都合が良い。
かなり早いスタートを切ったつもりだったが、夏芽は既に髪を揺らして空の上から昇ってくる晴人を見下ろしていた。
「授業始まったばかりだろ? 早すぎやしないか?」
「始まる前から準備してたから」夏芽はしれっと問題発言で返す。「手紙のとおりに来たんだね。正直、落ち込んで来ないかもって思ってた」
「失敗は嫌だけど、諦めるのはもっと嫌な性分でね」
晴人の言葉に夏芽は始め驚いた表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうなそれに変わった。
「昼休みの続きをしましょう」
漂う雲から先ほどより少し小さめのものを見繕い、晴人は再び枝を構えて大きく振り上げた。
――反応なし。
「駄目だ。手応えがまるでない」
昼休みと同じく枝は空しく空を切るだけだった。
「やみくもにやっては駄目。風の流れを見つけないと」
昼休みに何度も指摘された言葉だった。昼休みは当たり前のことがどうやら自分にはできないらしいと思った瞬間、晴人の頭を焦りが占拠してしまい、言葉の意味を考えることなくやみくもに枝を振り回すことしかできなくなったが、今は違う。反省を糧に落ち着いている。
「風の流れってどういう意味なんだ?」
「まずは深呼吸。…………いい? 目を凝らして。雲じゃなくて、流れる何かが見えてこない?」
夏芽に言われたとおり目を凝らす。凝らして、凝らして、十分が経とうとした頃、視線の先にある雲が揺らいだ。――違う、雲が揺らいだのではない。晴人と雲の間の空間に、水のカーテンらしきものが現れ、ゆっくりと晴人の前を右から左へ流れていた。
「見えた?」
晴人の反応を見て夏芽が訊いた。
「水のカーテン……川のせせらぎのようなものが見える」
「それじゃあ、それに枝の先を当ててみて」
晴人は腕を伸ばし、枝先を慎重に水の中に漬けてみた。すると、質感とともに枝先が左に傾いた。
「なんだこれ……?」
「慌てないで。晴人が触れたのは水じゃなくて風の本流。晴人の枝は今、風と交わってる。紡ぐというのはその流れの一部を変えること。今なら晴人にもきっとできる」
「でもどうやって」
仕切り直しと晴人が枝を流れから引き抜こうとすると、一部の風が枝に絡みつき、均一だった流れに乱れが生じた。
「今っ! 一気に引き上げて!」
夏芽の言葉に反応して晴人は腕を振り上げる。夏芽が操った時とは比べものにならないくらい小規模だったが、風の本流から幾筋かの白い支流が生じ、小さな風となった。
「……初めて風を紡いだ感想は?」
晴人は昇っていく綿雲を見上げるだけで、夏芽の質問に答えることができなかった。雲は晴人が紡いだ風に抵抗する様子もなくゆっくりと上昇を続けていったが、速度はだんだんと遅くなり、最後にはまた止まって何事もなかったように悠然と浮かんでいた。
雲を見上げる晴人の頭に疑問が浮かんだ。「……夏芽はどうやって持ち上げた雲をまた元の高さに戻したんだ?」
昼休み、夏芽は雲を上昇させるだけでなく、意のまま下降もさせていた。
「ちょっとした応用。上昇より少しだけ難易度上がるかも」
言いながら夏芽は晴人の隣に並んで風の本流に枝先を浸した。そして遥か頭上に向かって彼女が高々と枝を掲げると、水しぶきをあげるようにして黄色に染まった風の支流が舞い上がり、一瞬のうちに晴人が持ち上げた雲を追い越した。
「私の枝、それからすぐに風を見て」
オーダーどおり晴人はすぐさま視線を彼女の指先に移す。それを確認した夏芽は、手首をくるりと一回転させてから枝先を垂らした。はっと見上げると、風は夏芽の動きに従いくるりと縦に一回転して風向きを変えた。見上げる晴人の顔に届くほどの風圧により、雲は重しを乗せられたかのように急降下してきた。
「お手本としてはこんな感じ」
夏芽は下からも風を起こし、雲は晴人の前に戻ってきた。
「冬至郎さんと秋葉さんと合流する一週間、まずは風の操作を完璧にする。……できそう?」
不安そうな夏芽の表情はむしろ晴人を奮い立たせた。
「できないと春に間に合わないんだろ? やってみせるさ」
「その答え方、好きだな」
夏芽は笑った。虚勢と見透かしての微笑みだったかもしれない。それでも晴人にとっては笑顔を向けてくれたことが重要だった。
しかし、思った以上に難易度は高かった。枝を浸して、風の本流から幾筋の支流を紡ぐことはできるのだが、力強さはなく、すぐに霧散してしまう。そもそも、夏芽のような色が付かない。
「がむしゃらでもいいからとにかく数をこなして。残念だけど近道はないと思う。反復あるのみだよ」
実体験を通じた夏芽のアドバイスはコツの類ではなく、繰り返しの重要性を説くものばかりだった。
二十八回目、風の支流が上空へと昇ったが、方向転換させる暇なく力なく霧散していく。ため息はまだ口の中で堪えている。二十九回目――と、そこで晴人は自分の身体が揺れていることに気がついた。
「なんだ?」
自分の身体が勝手に左右に揺れている。夏芽は……問題なさそうだ。
「どうかした?」
晴人の手が止まったことに夏芽が首を傾げる。
「いや……なんだが揺れている気がするんだ」
晴人の言葉に合点がいったのか、「教室に戻って。今すぐに」
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