第11話 第2章 風を紡ぐ

 翌朝、予想どおりの秋晴れの下晴人が登校すると、教室に入るなり秀樹に絡まれた。奈緒は女子グループの中で談笑しているが、ちらりと向けた視線は探るようなそれだ。

「お前はいつの間に眠り姫と一緒に下校するほど親密な関係になったんだ?」

「なんで知ってるんだ?」

 窓際に位置する自分の席で鞄から教科書を出す手を止めて晴人はぐるんと勢いよく首を回した。そしてすぐさま自分の不用意な発言に後悔した。してやったりという秀樹の満面の笑み――カマを掛けられていた。

「俺が直接見た訳じゃないんだけど、やっぱりマジだったのか! しかも親密とは……!」

「一緒に学校を出たのは事実だけど、別に親密じゃねーよ」

 勝手に決めつけ始めた秀樹の暴走を慌てて制止する。この手の噂は尾ヒレ背ヒレが付いて瞬く間に学校を泳ぎ回るため、釘を刺すのは早めに限る。

「それならどうして一緒に帰ったんだ? 保険室の一件から、お前ら相当怪しいぞ」

「…………」

 説明が難しくて晴人は返す言葉に詰まる。一緒に空を飛ぶ仲ですと言った途端、可哀想な目を向けられるのは必至だ。

「沈黙は肯定と受け取るぞ?」

 ん? と秀樹は何がそんなに嬉しいのか、晴人の肩に腕を回す。朝からこのテンションには付き合いきれない。どうやってはぐらかそうかと思案していると、

「いや、マジ顔で悩まれても困るんだけど……」

秀樹の方が勝手に困惑していた。「何? マジで朝から言えない感じなことしちゃったの? 俺らから一歩先に進んじゃった感じなの?」

「だからそんな関係じゃないって。えっとな……知り合いの仕事を手伝うことになったんだけど、そこに彼女がいた。だから知り合いになった」

 嘘にならない境界線を手探りしながら説明してみたが、よい出来じゃないか?

「仕事って?」

 困った、さっそく詰まる。仕事……どこまで説明してよいものか、事前に夏芽と相談しておけばよかったと晴人は後悔した。

 晴人が言い淀んでいると、願ってもないタイミングで予鈴が鳴った。

「また後でな」

 晴人は秀樹を押し返し、自分の席について大きく息をついた。教室の窓から見える空はどこまでも青く、晴人の悩みなど些細なものだと言っているかのようだった。

 さすがの秀樹も授業の合間の貴重な休み時間を削ってまで追求するつもりはないのか、それとも追及しきれないと悟ったのか、夏芽に関する話題には一切触れなかった。昼休みに一気に話をするつもりだったのだろう。しかし、そんな秀樹の思惑はあっさり頓挫することになる。昼休みを告げる鐘が鳴り止んで早々、まだクラスの全員がいる状態で、昨日の宣言どおり、夏芽が晴人の教室に姿を現した。

「晴人」

 夏芽の透き通った声が教室の廊下側から窓側の晴人の席まで一直線に駆け抜け、呼び声と同時に教室中から遠慮のない興味本位の視線が晴人に突き刺さった。普段それほど目立つ行動をとらない晴人にとって、この注目のされ具合は異常事態だ。身体が硬直するのがわかる。さっさと席から離れて夏芽のもとへ向かえばいいのに腰が上がらない。

 晴人が動かないのを不思議がりながら、夏芽は周囲の視線をまるで意に介さずにすたすたと晴人の席へ向かう。

「晴人の席まで出迎える必要はないと思うけど?」

「その……悪い」

 夏芽が諫めるように腰に手を当て、向けられた周囲の視線の盾になってくれたおかげで、晴人はようやく立ち上がれた。情けないが、今は彼女にすがるしかなかった。

 寄ってきた秀樹と奈緒の時が止まっているのをよそに晴人は鞄を引っ掴んでいそいそと教室を後にした。

 夏芽に連れてこられた場所は予想どおり保健室だった。偶然なのか故意なのかは不明だが、養護教諭もいなければ体調を崩した生徒もおらず、保健室は晴人と夏芽の二人だけだった。

「お昼食べた?」

 消毒液の臭いが微かに漂う場所に似つかわしくない夏芽の質問に、晴人は首を横に振る。

「チャイムと同時に現れた夏芽がそれを言う?」

「宣言どおりだったでしょ? 私もお昼はまだなの。さっさと食べましょう」

 夏芽は養護教諭の机に弁当を広げた。晴人の胃袋を半分も満足させないだろう、女の子らしいこじんまりとした弁当箱だった。

「今日は食べるんだ」

 ベッドの横にあったパイプ椅子を引っ張り晴人は夏芽の横に付く。

「私は食べなくても平気だけど、晴人は無理でしょ?」

「合わせてくれたのか……。サンキューな」

「食べた方が健康に良いことは事実だし」

 夏芽は弁当に視線を落とし、ぱくりと一口おかずを口に含んだ。

「そっか」

 照れ臭さを隠すように、晴人も朝のうちにコンビニで買っておいた焼きそばパンの封を開き、大きく一口頬張った。

 黙々と食べ続け、昼食は十分足らずで済んでしまった。昼休みはまだ三十分以上残っている。てきぱきと弁当箱を片づけた夏芽は、「時間もあまりないし、さっさと始めましょう」と食べたばかりだというのにベッドに横になった。「晴人も早く」

 急かされ晴人もいそいそともう一つのベッドにごろりと仰向けに寝転がる。

「今更だけどさ」

 晴人は首だけ捻って天井から隣のベッドに視線を移す。

「どうしたの?」

 身体ごとこちらを向いていた夏芽の姿にどきりとしたが、煩悩はどうにか抑えつけた。「保健室にいつも俺たち以外いないのは偶然なのか? 夏芽は今日も躊躇いなくここまで来たけど、もし誰かがいたら代わりの場所ってあるのか?」

 晴人の疑問に夏芽はふふっと不敵な笑みを浮かべた。どうやら愚問だったらしい。

「この学校にも私たちのことを知っている人がいるの。ベッドの空き具体はその人から連絡をもらってる。ふたりきりになるのはただの偶然でしょう。そんなことより、枝はちゃんと持ってきた?」

 強引に話を逸らされたような気もするが、学校にいる仲間については後々教えてもらえることだろう。晴人は頭を切り替え、制服の内ポケットに手を突っ込んだ。

「肌身離さず持って歩いているよ。だけど……」

 今朝確認したときに驚いた。春の枝は、昨晩に比べて大幅に縮み、今では手のひら程度の長さになっていた。「こんなに縮んじゃって……俺、なんかやらかした?」

 不安げに夏芽を見ると、彼女は何を思ったか制服の襟をぐいと開き、自身の胸元に手を突っ込んだ。そして取り出したのは、晴人の枝よりも一回り小さい小指一本分くらいの夏の枝が首飾りのように紐からぶら下がっていた。

「慣れたら晴人もこのくらいの大きさにまで操作できる……って、どうしたの?」 

 きょとんとする夏芽を晴人は見ていなかった。白い天井を凝視しながら落ち着けと心の中で繰り返す。夏芽が無防備、というか無頓着であることはわかっていたが、突然肌を大きく露出させるのはどうかと思う。しかも一瞬だが下着らしき白いものまで見えてしまった。嬉しいことに変わりはないのだが、保健室というシチュエーションが煩悩を膨らまし、嬉しい以上の何かを抑えつけるのに必死だった。

「大丈夫そうだってことはわかった! さっさと空に行こう!」

 気を紛らわせようと晴人は叫び、ぎゅっと目を瞑った。「フライングだ」と文句が聞こえたような気がしたが、晴人の意識は既に地上の声が届かない距離にまで急上昇していた。

 地上から見えていたとおり、晴人は見渡す限りの青空に囲まれ、隣では雲が気持ち良さそうに浮かんでいる。

 ベッドの上から握っていた春の枝は、まるで籠から放たれた鳥が羽を伸ばすように、みるみる成長していき五十センチ程度の長さで止まった。大樹から折れたときと同じ大きさだ。

「空に戻ったら勝手に元通りになるって説明しようとしたのに。……自分から質問したんだから話は最後まで聞くこと」

 背中に不機嫌そうな声をぶつけられた。晴人が振り向くと、夏芽が成長させた枝を突き付けていた。

「えっと……ごめん」

 君の胸元が見えたからいう間抜けな言い訳はしないで晴人は素直に頭を下げた。視線が下に向き、遥か下方に点となった校舎が見える。

「私は指導役。晴人はしっかり話を聞く務めがあるの」

「肝に銘じます」

 女子としての迂闊さに気づく気配すらない夏芽は、晴人の反省具合に満足したのかその後はぐちぐちと引きずることなく「付いてきて」と晴人を先導し始めた。

 夏芽の背中を追って数十秒、晴人は比較的大きめの綿雲の前に立たされた。いくつか浮かぶ綿雲の中ではどうやら一番大きいようだ。

「この程度の大きさなら下にも気づかれないし、ちょうどいい練習台になりそう」

「俺はこいつを相手に何をすればいいんだ?」

 枝で綿雲をつつきながら晴人は訊いた。

「最初に晴人に覚えてもらうことは、風を紡ぐこと」

「紡ぐ?」

「簡単に言ってしまえば風を操るの。――さて、晴人くんは風がどうして発生するのか知っていますか?」

 夏芽が教師よろしく質問を投げかけてきたため、晴人は反射的に挙手をしてしまった。

「高気圧から低気圧に向かって分子が均一になろうと移動することによって発生する……だったかな」

「正解。風は気圧の差で発生し、その差が大きい分だけ強くなる。これは自然の法則。だけど、私たちはその法則から外れることができる。見ていて――」

 晴人に注意を促し、夏芽は綿雲と向かい合った。そして静かに枝を振り上げる。すると、岩石にも似た白い塊がゆっくりと、だが確実に上昇を始めた。夏芽が枝を下げると、綿雲はまたゆっくりと下降し、再び晴人たちの目の前に横たわった。

「見えた?」

 くるりとターンした夏芽に向かって晴人は黙って頷いた。一瞬たりとも見逃すまいと瞬きすら惜しんだ眼に映ったのは、向日葵のように黄色く染まった風だった。夏芽が枝を振り上げたとき、彼女の足下から黄色い筋状の気流が生まれ、枝に従い上昇し、ぶつかった雲を悠々と押し上げていった。

「あの黄色い奴は、夏芽が作ったのか?」

「そう。ちなみに黄色いのは私が夏の四季者だから。夏の力が弱っている今だけど、このくらいなら簡単だよ」

「昨日は色なんて見えなかったのに」

「四季の大樹に触れたでしょ?」

 夏芽曰く、それがきっかけになるとのことだ。

「俺は春だから、やっぱり夏芽とは違う色が出るんだ?」

「試してみるのが一番じゃない?」

 夏芽は綿雲の前から一歩後退して晴人に譲った。

 晴人は自身の枝を見つめた。心なしか暖かく、優しい空気が頬を撫でたような気がした。

「コツってある?」

「とにかく数をこなすこと」

「了解」

 先ほどの夏芽の動きを頭に思い描き、晴人は枝を振り上げた。

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