第9話 雲に生える大樹 春の一振り

 太陽が西の空に姿を消し、空の主役が月に交代した頃、

「そろそろ見えてくる」

 隣を飛ぶ夏芽が前方を指差した。

「なんだあれ……?」

 遙か前方、晴人も視認した。

 晴れた空に、まるで大地でもあるかのように微動だにしない積雲がひとつ浮いている。だが、晴人が異常に感じたのはその点ではなかった。

 ――雲に大樹が生えている。

 太い根の数本は土壌となっている雲からはみ出しで空中にぶら下がっている。幹は太く、枝には秋も終盤だというのに青々とした葉を茂らせ、その一枚一枚が月明かりに照らされ銀色に輝いていた。

「あれが俺たちの守り神、『四季の大樹』であらせられる」

 いつの間にか晴人の頭上を飛んでいた冬至郎が恭しく言った。

「あの木もやっぱり俺たちと同じなんですか?」

「ああ、あの雲からして普通の眼には映らない。俺たちと同じ精神的な存在だ」

 あと、と冬至郎は続けた。「あの木、なんて言っては失礼だ。罰が当たるぞ」

 遠目からでも巨大だとわかる大樹は、近づくにつれてその迫力を増し、幹の前に降り立ってみるとその大きさは尋常ではなかった。頭上の空は大樹の枝葉ですっぽりと隠れている。

 晴人はおずおずと幹に右手を伸ばす。「……触っても平気かな?」

「試してみたら?」

 夏芽の言葉を了承と受け取り、晴人はごくりと唾を飲み込み恐る恐る大樹に触れた。

 ――ドクン、異様な感覚が右手に流れ込み、晴人は思わず手を離した。

「どうでした?」

 目を剥いた晴人の反応を予想していたのか、楽しむ様子で秋葉が訊く。

「脈打ってます。……だけど変な感じです。熱湯と氷水を同時に触ったような、まったく別のものが同時に存在しているような違和感がありました」

「それはね、この御神木が日本の四季を司っているからなの。春夏秋冬、四季の大樹は全ての季節を同時にその身に宿しているの」

「もう一度、今度は出来るだけ長く触ってみろ」冬至郎が言った。「お前の身体に宿った春の欠片が御神木と同調するのを待つんだ」

 言葉の意味はわからなかったが、晴人は言われたとおり四季の大樹に両手を押し当て、ゆっくりと目を閉じた。

 大樹の脈動が両手を通じて晴人の身体に流れ込み、晴人の鼓動と混じり溶けていく。熱く、冷たい幹の手触りはいつしか晴人にとって心地良い、ほんのりと温かいものへと変わっていく。そして、唐突に聞こえた。

――春を貴方に――

 とびきり大きな脈動が晴人の身体を突き抜けた。

 不意の衝撃にたたらを踏んだ晴人の背中を夏芽が支える。

「大丈夫?」

 大樹から感じとった何かが自分の中にもいるような気がして晴人は自身の手のひらと大樹を交互に凝視する。しかし、いくら凝視しても正体はつかめず、木の葉が擦れ合うさざめきだけが耳に響く。

「この木――御神木から、声が聞こえたんです」

 大樹から視線をはずし、晴人は見守る三人に向けて信じられない様子で訴えた。大樹の脈動は未だ身体の中で脈打ち、自分の鼓動なのか大樹のそれなのか晴人には判別がつかなかった。

「誰も晴人が嘘をついているとは思ってないよ」

 夏芽が小さく笑いかけた。「ここにいるみんなが体験してる」

 夏芽に続き、冬至郎、秋葉が頷いた。

「それで、どんな声が聞こえた?」

 冬至郎の問いに、晴人は手のひらを通じて聞こえた声をそのまま伝えた。

「……挨拶は済んだようだな」

 冬至郎が満足気に頷いた。どうやら『挨拶』とは先ほどの晴人の行為そのものを指していたらしい。

「それじゃあこれで目的は達成ですか?」

「いいや、まだ大切なことが残っている」

 付いてこい。そう言って冬至郎はゆっくりと上昇を始め、秋葉、夏芽が後に続く。晴人は幹に向かってぺこりと頭を下げ、三人を追って跳ね上がった。

 大小様々な無数の枝を縫いながら上昇を進めていくと、濃密に絡み合う枝葉が月明かりを隠し、周囲は暗闇に包まれていった。

「このあたりでいいか」

 先頭を飛ぶ冬至郎が上昇を止めた。

「あの、どうして止まったんですか? 暗くてよくわかりませんけど、何かあるんですか?」

 特に何かが見えたわけでもなく、晴人は疑問を口にする。くるりと一回転してみても、それらしいものはやはり見当たらない。

「枝に触れてみて」

 晴人の手を掴んだ夏芽が言った。

「枝に?」

「うん、そうしたらきっと見える」

 暗くても夏芽の瞳はくっきりとわかった。その一直線な眼差しは、晴人に陰った不安を晴らす力強いものだった。

 夏芽に手を添えてもらったまま、晴人はちょうど顔の高さにあった枝に手を当ててみた。トクン、トクン……幹と枝の違いなのか、脈動は少し弱く感じられ。

「さて、晴人くんのはどこにあるのかしら?」

 秋葉が空中を舞いながら一面を見渡す。

どうしたのだろう……? 秋葉に釣られて晴人も周囲に目を配らせ――気がついた。晴人の視線の先に、月明かりではない輝く何かがあった。

「あれは……?」

「晴人の一振り」

 夏芽がぽつりと呟いた。

「ここは私たちに任せていってらっしゃい」

 秋葉と冬至郎が、晴人が触れている枝に手を添える。

「俺たちが触れている限り光は消えん。夏芽に案内してもらえ」

「行くよ」

 晴人の手を掴んだまま、夏芽は輝く何かに向かって飛び立った。

 枝葉を縫って進むうちに、それが何なのか晴人にもわかってきた。

「……枝?」

 幹と直接繋がる太い枝からさらにいくつも枝分かれした中の一つ、細くしなやかな若い枝が自ら光を放っている。

 近づくにつれてその輝きは一層鮮明になり、目の前にすると眩しくて直視すらできない。五十センチ程度の枝が、太陽のように燦々と輝いている。

「私が持つ枝があるでしょ? これはそれと同じもの。私もこうしてこの四季の枝を授かったの。私のは夏の一振り、夏の枝」

 夏芽は先般晴人の前で雲を操った自身の枝を取り出した。淡く黄色に輝く夏芽の枝は、彼女の顔を明るく照らし出す。

「晴人も受け取って。春の一振り――春の枝を」

「受け取るって、どうすればいいんだ?」

「折って」

「折っちゃうの?」

 あまりに単純な回答に晴人は思わず聞き返す。

「パキッって? 御神木じゃないのか?」

「そのためにさっき挨拶をしたの。声が聞こえたでしょ?」

 幹に手をあてたときに聞こえた声、あれで――?

「あれで許可を得たことになったのか?」

「大丈夫」

夏芽は握っていた晴人の手を枝に促し、自身は彼から手を離した。

 枝の発光に目を細めながら、晴人は枝に向かって手を伸ばし、根本を掴んだ。

「失礼します」

 断りを入れ、晴人は手首をぐいっと捻った。

 乾燥した音が鳴り、光が晴人の手の中に収まる。次第に輝きは弱まっていき、仄かに白く灯る程度で落ち着いた。熱を帯びているのか、握る手がほんのりと温かい。

「これが……春の枝」

 軽く振ってみると、枝は軽くたわみ、周囲の葉をさざめかせた。

「晴人だけの、晴人にしか扱えない一振り。大切にしてあげて」

「うん」

晴人は四季の大樹に向かって頭を下げた。「確かに受け取りました。未熟者ですが、よろしくお願いします」

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