第8話 お天道様に挨拶しよう

 豆電球に照らされた部屋は、六畳程度の和室だった。目を引くのは桜が描かれた油絵くらいで、それ以外にこれといって目立つものはなく、部屋の中心に敷かれた布団で眠るためだけを目的とした非常にシンプルな作りだった。畳のせいか、晴人はなんとなく祖父の家を思い出した。

「ベッド派なんだけどな」

 ぽつりとつぶやいて晴人は布団に仰向けに寝転がった。大の字に手足を伸ばす。天井の木目を見ると、ここが本当に気象庁なのかと疑わしくなってくる。

「天上の向こう側……」

 晴人は目を閉じる。暗い。当たり前だ。天井を通り越した先にある、視界一面に広がる空を想う。時間を考えると今はちょうど日没くらいだろう。黄昏の空に雲が浮かんでいる。その輪に加わるように自分も浮かぶ――。

 身体が羽のように軽い。身体の感覚が明らかに変わり、晴人は閉じていた目を恐る恐る開いてみた。天井は見えなかった。

 急上昇を続ける晴人の身体は薄雲をひとつ突き抜けたところでゆっくりと減速していった。

「できた……」

思わず安堵のため息が出る。深呼吸を一回、二回。昂った気持ちを落ち着かせ、ここはどこだろうと視線を下に向ける。目下には皇居とビル群が夕日に照らされオレンジに染まっていた。どうやら真っ直ぐ上昇していたらしい。

「晴人」

 上から声が降ってきた。普通では考えられない場所からの呼び声、何も知らなければ天国からの出迎えと勘違いするかもしれない。仰ぎ見ると、晴人以外の四季者三人は揃ってさらに高い空に浮遊していた。

 晴人は存在するはずのない足場を蹴って飛び上がる。誰かに教わったわけではない、できそうな感じがしたのだ。

 夏芽たちのいる高度に到着すると、

「初心者にしては良い動きだ」

 冬至郎が感心しながら晴人の頭をくしゃりとなでた。

 親戚の叔父のような距離間に戸惑うも、嫌な感じはしなかった。

「見た目は無愛想ですが、以外と面倒見がいいんですよ」

 秋葉が楽しそうに微笑む。

「無愛想ってところは否定しないが、面倒見がいいってのはどうかな」

「あとツンデレです」

「おい」

 冬至郎が苦々しい顔をすると、秋葉はきゃあと面白そうに悲鳴をあげて晴人の背中に隠れた。このメンバーで一番無邪気な人らしい。

「ほらほら、目的地は遠いんですよ。早く出発しましょう」

 夏芽が呆れた様子で手を叩く。

「遠いって、どこかに行くのか?」

「辰巳さんが言ったでしょ? ――挨拶に行くの」

 空に昇れた嬉しさですっかり目的を忘れていた。「まだ教えてもらっていないけど、挨拶って誰にするんだ?」

「誰だと思う?」

 秋葉が質問に質問で返す。どうやら周りも助けるつもりはないらしい。

「……ボスみたいな人?」

「半分正解。ボスまでは正解なんだけど」

「ヒトじゃない?」

 非現実的な世界にいることはわかっているつもりだったが、人外と言われるとは予想の斜め上だった。

「びびらなくていい、要するに神様へお披露目の挨拶、お参りだ」

 冬至郎が口添えする。

「神様、ですか?」

「そうだ、いわゆるお天道様ってやつだ」

「八百万の神っていうでしょ?」夏芽が続く。「季節を司っているのも八百万の神様の一柱、私たちはその季節を管理する手伝いを任されているの」

 夏芽の説明はまたしても晴人の理解を置き去りにした。

「よくわからないけど、参拝だったら別に空に来なくてもよかったんじゃないのか?」

「駄目」夏芽が首を横に振る。「この姿にならないと、見えないもの」

 見えない? 晴人の貧弱な想像力ではいよいよ及びもつかない。

「……もう何も聞かない。俺は言われるがまま付いていくよ」

 百聞は一見にしかず。行きあたりばったり、上等じゃないか。

「目的地は出雲だ」

 出雲――つまり島根県。

「距離はあるが、俺たちが全力で飛べばそれほど時間はかからん。問題は晴人、お前が俺たちに付いてこられるかどうかだ」

「スピードはね、下り坂で自転車を漕ぐイメージです。怖がらないでブレーキを掛けなければペダルはいくらでも軽く、速く回ります」

 秋葉のアドバイスに晴人は考え込む。

「……秋葉さん、速く飛べる方法について、もう少し詳しく教えてもらってもいいですか?」

「あらっ、出雲に行くこと自体につっこみはないんですね」

 反応に以外だったのか、秋葉がきょとんと晴人を見つめる。

「つっこみたいことは挙げればきりがないですが、自分の常識では測れない世界に飛び込んだことだけはわかりましたから」

「もう少し狼狽えてくれたほうが面白いんですけど」 

 順応が早くてつまらないです、と秋葉は口を尖らせた。

「それで、具体的にどうイメージすればいいんですか?」

「実際に飛びながら教えてあげます」

 そう言って秋葉は西に向かって飛び始めた。水中遊泳する人魚のように秋葉が空を泳ぐ。

「ほら、秋葉さんに続かなきゃ」

 夏芽が晴人の手をきゅっと握る。肉体は地上に置いてきているはずなのに、夏芽の体温が伝わってくるのは不思議な感覚だった。手を握られるのは二回目だったが、慣れるものではない。内心狼狽えていたが、冬至郎の生優しいしい視線が気になりひたすら無表情に努める。

「しんがりは俺が務めよう。遅かったら尻を蹴飛ばしてやるから真面目にやれよ」

 冬至郎の激励を背中で聞きながら、すでにかなり小さくなってしまった秋葉を目指して晴人は飛んだ。

「秋葉さんが言っていた下り坂の自転車ってイメージだけど、結構わかりやすいと思う」

 晴人から手を離した夏芽が、懸命に飛ぶ晴人の周りで地球を周回する月のようにくるくると螺旋を描きながら飛ぶ。その姿は余力どころか暇を持て余してすらいた。

「要するに怖がったら負けということ。平気。ぶつかる障害物はここには何もないから怪我をする心配はない。あとは自分がこんなに速く飛べるはずがないっていう常識さえ壊してしまうだけ」

「これでもっ! だいぶ……速いと思うんだけどな」

 自転車が出せる速度はとっくに越えている。体感速度は高速を走る自動車のそれと遜色ない。

「ううん、まだ頭のどこかで怖がってる。それは晴人がこれ以上速い風切り音を聞いたことがないから」

「それじゃあどうしろと。聞いたことがなかったら想像もできない」

「実際に体感するのが手っ取り早いんだけど……」

 夏芽はチラリと後ろを飛ぶ冬至郎に目をやった。「いいですか?」

「構わん。晴人の時間のこともあるしな。ただ……、その役目は夏芽には回ってこないようだぞ?」

 え? と夏芽が気づいた時には遅かった。晴人たちが飛ぶ空よりさらに高々度から、秋葉が晴人めがけて一直線に急降下し、獲物を捕らえる鷹のごとく晴人の腕を捉えて飛び去っていった。

 余りに一瞬の出来事で晴人は声を出す暇さえなかった。視界の端を群青色に染まった雲々が瞬く間に過ぎ去っていく。秋葉に腕を捕まれ、猛烈な速さで晴人は空を割いていた。自分たちが飛んだ跡には雲が引かれている。

「いつまで待っても追いついてくれないから待ちくたびれちゃいました」

 秋葉はにっこりと微笑んだ。「音の壁、越えてみましょうか――」

 時間にしてみれば数秒足らず、それでも確かに音速の世界を晴人は知った

「どうでした? まぁこんな速度を出すことはまずありませんけど、これで晴人くんも『速い』がどういうものなのか身を持って理解できたでしょう?」

 空中で止まった秋葉が満足そうに感想を求めたが、晴人は衝撃に声が出せず、かくかくと頷くことしかできなかった。

「秋葉さん!」

 追いついた夏芽の第一声は少し怒気を孕んでいた。

「勝手に晴人を連れて行かないでください。指導役はあくまでも、『私』です」

「待ちきれなかったんです。それに、夏芽ちゃんの指導役は私だったんですから、私が晴人くんを指導したって別にいいんじゃないですか?」

「それじゃあルールも何もないじゃないですか」

 目上に対して怒り切れない夏芽が唸る。言い返せないのが口惜しそうだ。

「あの」

仲介しようと晴人が声を上げた。「秋葉さんのおかげでたぶん俺もそれなりの速さで飛べると思う。だけどコントロールの仕方がわからないんだ。……夏芽に教えてもらってもいい?」

「…………そうね、ただ速いだけじゃ駄目なんだから」

 まんざらでもない様子で夏芽はさっそく晴人にコツを教えるべく秋葉に向けていた矛を収めた。揉め事に発展せず晴人は胸を撫で下ろす。夏芽の後ろに回った秋葉を見ると、ウインクを返された。面白半分で夏芽をからかうのがどうやらお好きなご様子だ。

 秋葉の音速体験コースで恐怖を取り払えたのか、晴人の飛行速度は目を見張る勢いで加速していった。精神体である晴人たちは空気の壁を意に介さない。空気と同化している自分を改めて認識し、晴人はコツをしっかりと掴んだ。

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