第7話 気象庁での顔合わせ
電車を乗り継ぎ東京メトロ大手町駅、社会人ばかりのこの一帯で制服を着たふたりの高校生はあまりに場違いだった。
初めて降り立つ土地に晴人が左右を見渡していると、
「行くよ」
夏芽は慣れた様子で歩き出した。目的地は電車に揺られている合間に教えてもらえた。季節と気象を管理する場所、夏芽の口から出た目的地に晴人は久しぶりに疑うことなく納得できた。
気象庁。
晴人の目の前にそびえる建物が日本の気象を司っている。ニュースで流れる気象情報がこの場所に集約されているのだと思うと急に変哲のないビルが途端に威厳あるものに変貌していった。
正面入り口で一人の男性が晴人たちを出迎えた。上背があり、スーツがよく似合う、働き盛りの三十代、といった様相だ。
「辰巳さん」
夏芽が駆け寄ると、辰巳と呼ばれた男は軽く手を挙げて挨拶した。
「放課後にわざわざ出向いてもらって悪かったね」と一言詫びてから、辰巳は晴人に顔を向けた。「空野晴人くんだね」
「はい」
観察されているような視線に戸惑いながら晴人は会釈する。
「夏芽くんから僕の話は聞いているかな?」
「いいえ、特には……」
「そうか、僕は山本辰巳。この気象庁の職員、要は公務員だね。ささやかながら夏芽くんたちのサポートをさせてもらっているよ」
辰巳の自己紹介に晴人が隣に目を向けると、
「うん、辰巳さんは四季者じゃない。私たちの司令塔ってところかな」
夏芽はそう補足した。
「そいつは言い過ぎだよ」辰巳は苦笑する。「立ち話はこのへんにして上にあがろうか。他の仲間がお待ちかねだ」
「仲間って?」
辰巳の背中についてロビーを歩く晴人は同じく横を歩く夏芽に囁いた。
「日本には四季があるの」
当たり前の常識を口にして「あとはお楽しみ」と夏芽は口を噤んだ。
辰巳以下三名がエレベーターに乗り込むと、辰巳は『閉』ボタンを押すだけで目的階へのボタンを押す様子はない。代わりに胸ポケットから小さな鍵を取り出した。
「僕たちの行く階は特別でね」
晴人が疑問を口にする前に辰巳はそれに答え、手に持つ鍵を非常用ボタンのさらに上にある鍵穴に差し込んだ。鍵を押し回すと、一階から最上階まで、全てのボタンが点滅した。
晴人が点滅するボタンと辰巳を交互に見返していると、エレベーターがおもむろに上昇を始めた。
「何階に向かうんですか?」
晴人の不安声に辰巳はにこりと笑みを返す。
「……『本当の』最上階さ」
晴人にとって息苦しい沈黙の中、エレベーターは静かに上昇を続け、扉の上の数字に見たことがない『0』という数宇が踊った。同時に、到着を知らせる軽快な音が箱の中で小気味よく響いた。
扉が開き、晴人の目に最初に飛び込んできたのは、対面する壁一面に広がる巨大スクリーン。そこには日本列島、気象予報で誰もが目にする天気図のそれがリアルタイムで映し出されていた。しかし、良くも悪くもそれだけだった。教室一室分くらいの特徴のない会議室に長方形の長テーブル、背もたれの高いワーキングチェアがスクリーンに向かって並べられていた。ここが晴人たちを運んできたエレベーターの終着点。
「歓迎しよう、ようこそ特別気象管理室へ」
辰巳に背中を軽く押され、なんとなく肩すかしを食らったような気分で晴人はエレベーターから管理室へ一歩足を踏み出した。
「秘密基地みたいじゃなくてがっかりした?」
夏芽が隣で呟く。
「そういうわけじゃないけど、エレベーターがずいぶん派手な演出をしていたものだから……」
「予算が潤沢にあるわけでもないし、結局のところ、ここで何かできるわけでもない。これくらいがちょうどいいんだよ、きっと」
そんなものか、と晴人が首を捻りながら部屋の中へ進むと、
「君が晴人くん?」
夏芽ではない女性の声に晴人の足は止まった。椅子に誰か座っている。スクリーンに向かっていた椅子二つがくるりと回転し、晴人たちの方へと向いた。
椅子に座る主は辰巳より十は年長だろう男性と、晴人や夏芽よりいくらか年上だろう大学生くらいの女性だった。
「秋葉さんも来ていたんですか」
夏芽の声が心なしか弾んで聞こえた。
「新人くんとの顔合わせですもの、授業は自主休講にしてしまいました」
そう言って秋葉と呼ばれる女性は晴人に手を振った。「初めまして、じゃないですよ?」
いたずらっぽくその人は笑う。
「あっ」
晴人の口から間抜けな声が漏れた。そうだ、俺はこの人を知っている。教室で居眠りしていた昨日の昼間、晴人は確かにこの人と出会っていた。
「夢で……」
「覚えていてくれて嬉しいわ」
「ちょっと、どういうことですか?」
夏芽が困惑顔気味にふたりの会話に割り込む。
「実は昨日のお昼に晴人くんとは会っていたの。もちろん彼は夢だったと思っていたのでしょうけど」
「私の役目なのに。反則じゃないですか」
「ちょっとくらいならセーフじゃない?」
悪びれる様子もなく秋葉は不敵に笑う。淑女然とした見た目とは少しばかり違う内面の持ち主なのかもしれない。晴人は背筋に寒気を感じた。
「最初の案内は私の務めなのに……」
常に凛とした態度で先輩かと錯覚してしまいそうなこともあったが、口を尖らせて拗ねる夏芽の態度は晴人と同じ高校一年生のそれだった。
「お前たち、じゃれあうのは後だ。見ろ、晴人くんがうろたえている」
男の落ち着き払った声に秋葉と呼ばれた女性も夏芽もすぐに黙った。年長者だからというわけでない、誰もが彼を認めているといった雰囲気が伺えた。
「それじゃあまずは自己紹介だ」
間を空けずに辰巳が言うと、晴人に向かい、秋葉、冬至郎の名前をホワイトボードに書き、簡単に紹介した。その姿は、司令塔というよりも調整役と呼んだ方が似合うかもしれない。
「夏芽くん、晴人くんにはどこまで教えた?」
「ほとんどまだです。四季者って言葉くらい」
「そうか、ではそこから始めよう。晴人くん、四季者は天候を操り未然に災害を防ぐのが仕事だ」
「全てを防げるわけではないがな」
冬至郎が肩をすくめる。
「確かに全てではない。元よりこの人数だ。晴人くんを含めて四人。いくらなんでも限界がある」
「増やせばいいじゃないですか」
当たり前の疑問が晴人から出る。
「できないんだよ。資格を持つ人物は四人。こればかりは変えることができない」
四、この数字で夏芽の言っていたことがようやく繋がった。
「季節、――四季に関わっているんですか」
「ご明察。ここにいる彼らはそれぞれ別の季節を受け持っている。日野くんは夏、山名くんは秋、桐谷さんは冬。そして晴人くん、君が春だ」
あれ? 晴人はふと疑問に思う。他の三人の名前には季節が組み込まれているのに自分にはない。
「俺の名前に『春』の文字は入っていませんよ?」
「疑問に思うのは当然だ。それぞれの名前に関連性がないとはこちらも考えていない」
「だったら――」
「晴人にもあるじゃない」夏芽が説明役を買って出る。「季節関係なしに私たちに最も必要な『晴れ』の一文字が」
「俺って……もしかして名前だけで選ばれたんですか?」
晴人が茫然と自身を指差すと、
「案外そうかもしれん。ま、神の思し召しってやつだ」
冬至郎が晴人の肩をポンと叩いた。
「正直な話、ここにいる全員どうして自分が選ばれたのかなんて理由は知らん。偶然かもしれんし必然かもしれん。だがな、この場所に嫌々立っている奴はいない。むしろ選ばれたことに感謝しているよ」
冬至郎の言葉に夏芽、秋葉が頷いた。
「空、楽しかったでしょ?」
秋葉の問いに晴人は迷うことなく首を縦に振る。
「幸運と考えるべきですよ。大空を翔るなんて夢みたいな話を私たちは実現できるのだから」
「ラッキーですか」
「ええ、宝くじの一等よりも、ね」
「ところで晴人くん」
冬至郎がずいと一歩晴人に近づいた。
「君は既に春の四季者に選ばれてしまった。選ばれてしまったからには拒否はできん。泣こうが喚こうが、他の誰かが代わると申し出ても代わることは叶わない。他の誰でもない君にしかできないことだ。覚悟はできているか?」
意志確認をする冬至郎の迫力に晴人は危うく気後れしそうになったがなんとか踏み留まった。
「何も知らないまま無責任にできるなんて簡単には断言できません。けど、やるからにはきちんと務めを果たしたい」
覚悟があるわけではない。今日知った話だ、これから自分が何をしなければならないのか想像すらできない。ただ流れに身を任せた発言だったかもしれない。それでも、自分にしかできないと言われ、高揚しないわけがない。
「男らしい子ですね」
冬至郎とは反対に数歩退いていた秋葉が夏芽に囁いた。「気に入っちゃいました」
「これからのことを何も知らないから言えているんでしょうけど……あの気概は買います」
根性がありそうで良かった、と夏芽の口元も少し緩んだ。
晴人の返事から数秒、冬至郎はじっと晴人の瞳を見据えたままでいたが、
「辰巳さん。彼なら大丈夫そうだ」
そう言ってようやく晴人から視線をはずした。蛇睨みから解放され、晴人の肺から固くなってしまった空気が溶け出していく。
「それは良かった。では御神木のほうも?」
「ああ、御神木も彼に枝を与えてくださるだろう」
「何の話ですか?」
たまらず晴人は辰巳に質問を飛ばす。
「認めてくれそうってことさ」
「?」
「四季者の最初の仕事はね、――挨拶なんだ」
「……?」
「僕の説明を聞くより、みんなと空に昇った方が早い。実際のところは僕も知らないのだから」
説明の趣旨を全く掴めないまま、晴人は空へ昇る準備をするように促された。
「ここで眠るんですか?」
会議室で眠りにつくにも、用意されているのは椅子くらいだ。晴人や夏芽なら学校で慣れているからいいとしても、秋葉や冬至郎もこの場所で眠るというのか。
「心配には及ばない。君たちのための環境はしっかり整えさせてもらっている」
辰巳が言うと、会議室の壁一面を覆っていた天気図が、幕が上がるように静かに持ち上がっていった。露わになった白い壁には、春夏秋冬それぞれの一字が刻まれた四つの扉が均等に並んでいた。
「空で集合だ」
冬至郎の言葉を皮切りにして、四季者と呼ばれる面々はそれぞれが担っている季節の文字が刻まれた扉に向かい歩き出す。
「晴人くんはもちろん春だ」
辰巳に軽く肩を叩かれ、三人に少し遅れて晴人も続く。四つ並んだ扉の一番左側、『春』に近づくと、扉は春という文字をちょうど縦に半分切って自動ドアよろしく左右に割れた。
予想外の展開、独りで意識して空に昇るのは初めてだ。「どうしよう」、「できるのか」不安を表す言葉の数々が勝手に湧き、晴人の足は入室を躊躇う。
「晴人」
不安で頭が白くなりかけたとき、夏芽の声が晴人のマイナス思考を引き留めた。「天上の向こう側を想像しながら目を瞑ってみて。大丈夫、次の瞬間晴人は空にいる」
アドバイスにしては感覚論に近いことを言い残して夏芽は夏の部屋に入っていった。
夏芽を見送ったままでいると、夏の次、秋の部屋の前にいる秋葉ににっこりと微笑みかけられた。
「夏芽ちゃんの言葉に嘘はないわ。大丈夫、目を瞑ればころり、ですよ」
秋葉の後、やはりというべきか、冬至郎が待っていた。
「独りで不安になるのも無理はないが、百聞は一見にしかず、実際に試してみれば存外簡単だ」
「だけど、自覚して試してみたことはないんです」
「大丈夫だ。お前には加護がある」
「加護? 加護ってなんですか?」
晴人の質問に答えることなく、にやりと笑い冬至郎も部屋の中へ消えていった。
大丈夫と連呼されたが、晴人にはむしろプレッシャーだった。これで万が一空へ昇れなかったら……不安が首をもたげる。先ほどまでの四季者を務めたいという前向きな気持ちが嘘みたいに萎んでいく。
「晴人くん、僕は君に何も教えてあげることができない。加護という言葉だって知識として知っていても、四季者でない僕は本当の意味を理解できていない」
辰巳が気遣うようにして後ろから声をかけてくれた。「しかし、みんな君にプレッシャーをかけようとしているわけじゃない。気楽にやればいい、失敗したって別に死ぬわけじゃない。ちなみに僕はそう言い聞かせて受験に望んでいたよ。それに今から行うことはセンター試験でも期末テストでもない。小テストみたいなものだ」
「テストには変わりないじゃないですか……」
「平気さ。僕は小テストじゃいつも補習ぎりぎりの最低点だった。それでも定期テストは一番だった」
辰巳のよく伝わらない励ましに晴人は力んでいた肩の力が少しだけ抜けたように感じた。
「それって自慢ですよね」自然と頬が緩む。「赤点とったら夏芽に補習をお願いすることにします」
「その意気だ」
辰巳に見送られ、晴人は薄暗い春の部屋へ入って行った。
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