第6話 身体も連れて行くよ?
夏芽には二限目の終わりを告げる鐘の音と同時に起こされた。
「起きれそう? 目眩はしない?」
「……大丈夫」
息を呑んだ後、ようやく返せた一言は鐘の音が鳴り終えてしばらく経ってからだった。晴人を覗き込む夏芽の瞳が至近距離にあり、寝起きの晴人を覚醒させるには十分すぎる破壊力を備えていた。彼女の意識する他人との距離間は、一般人のそれよりはるかに近いらしい。
ベッドから降りて屈伸すると、晴人は身体にずっしりとした重みを感じた。片足ずつ上げてみると、床に引っ張られるような違和感を覚える。
「空を味わった後はみんながそう感じる」
晴人の違和感を見通す言葉を残して夏芽は先に保健室から出ていった。残された晴人は天井を見上げ、ぴょん、と軽く跳んでみた。
三限目が始まる直前を狙い晴人が教室に戻ると、予想どおりクラスメイト、特に男子からの嫉妬の視線にたっぷりとさらされた。しかし、冷やかそうにも眠り姫という名前だけが一人歩きしている夏芽の人物像を測りあぐねてか、露骨な冷やかしがなかったのは救いだった。良い身分だな、といったからかいを適当な言葉で濁し、晴人はため息と一緒に今日初めて自分の席に着いた。
「女を連れ出すなんて荒技かましやがって、おかげで授業の内容全く頭に入らなかったじゃねぇか」
秀樹が半笑いを浮かべて近寄ってきた。後ろにいる奈緒は「サボリは嫌い」と公言しているだけあって不機嫌そうだ。
「悪い。急ぎの件だったんだ」
「昨日は眠り姫なんて知らないって言ってたじゃない」
奈緒が疑惑の眼差しを晴人に向ける。
「えっと……」
学校から帰った夜に夢の中で知り合った。と仮に説明したとしても信じてもらえるはずはなく、ましてや一緒に空を飛んでいたと説明すればふざけるなと怒りを買うことも目に見えている。夏芽の説明したくてもできないもどかしさが今なら少し理解できる。
「あの子とは奈緒たちと別れてから偶然会って、知り合いになったんだ」
口からの出任せはなんとも苦しく、しかし、言った以上は貫くしかない。晴人は帰り道に立ち寄った本屋で夏芽と出会ったと説明した。
「探していた本が偶然一緒でさ。それがきっかけ」
「それが今朝に繋がるかぁ?」
納得できない様子で秀樹が首をひねる。
「本の話ができる奴がいなかったらしくて、嬉しくてついって言ってたよ」
根っこの部分で嘘は言っていないと晴人は心中で言い訳しながら友に詫びた。
「それじゃあさっきまでずっと……?」
奈緒の表情が呆れ顔に変わる。
「ああ、その話で盛り上がってた」
晴人の言葉に二人は盛大にため息をついた。
「授業さぼってまでしてやることか? 休み時間まで待てよ!」
「熱中すると止まらないタイプらしい」
「いつも寝ているのって単純に夜更かししているからなんだ」
奈緒は解釈を拡げ、眠り姫たる所以についても勝手に自己解決してしまった。「夜更かししても肌が綺麗なんてずるい!」
「お前だって十分綺麗じゃん」
秀樹が奈緒の顔をまじまじと観察すると、
「見るなっ」
奈緒の拳が秀樹の腹部に深々と突き刺さった。自業自得だ。
話が上手い具合に脱線しつつある。晴人はふたりのやりとりが途切れたタイミングを見計らい、
「そんなわけで授業サボった。もうしません」
がばっと額を机に擦り付けた。
「別に俺らに謝ることはないだろ、実害ないし」
「だけど授業はちゃんと出席しないと駄目だよ」
それだけ言うと、休み時間があと僅かということも手伝い、ふたりは各々自分の席へ戻っていった。
三、四限目は眠気にも襲われず淡々と時間は過ぎ、昼休み。夏芽から何かしらの接触があるのではと教室で五分ほど待機していた晴人だったが、結局夏芽は現れなかった。おかげで昼食は購買に残された味家のないパンだけだ。
パンをもてあそびながら教室に戻る帰りがけ、晴人は夏芽のクラスを覗いてみた。――いた。窓際の六つ並んだ机の四番目、夏芽自身の席で間違いないだろうその場所で彼女は机に突っ伏していた。寝た振り――ではないだろう。本当に眠っているか、それとも今も雲の上か。晴人は彼女からその先の窓の外を見やった。秋晴れの空は手を加える必要は一切ないような天気だ。だとすれば夏芽は本当に眠っているのだろう。浮かんでいただけの自分とは違い夏芽は雲を何らかの力で動かしていた。それが自分との眠気の差に繋がっているだろうことは晴人も理解できた。それにしても眠り姫とはなんと寂しい存在なのだろう。クラスメイトたちが談笑しながら昼食を食べている中――決して本意ではないだろう――ひとりぼっちで眠る彼女の姿は見ているこっちの心が痛んだ。そしてそう思ったときには晴人の身体は既に動いていた。
隣の教室に入ったのは初めてだった。教卓から机まで、全てが同じ配置なのに見知った顔がいない。別世界に迷い込んでしまったような錯覚。誰? という視線が談笑の隙間から目敏く飛んでくる。晴人は気づかぬ振りをして一直線に夏芽を目指し、彼女の肩を揺すった。
「ん」
くぐもった声を漏らしながら夏芽はおもむろに顔を上げ、晴人を見つけると意外そうな顔を見せた。
「晴人? どうしたの?」
「昼メシ食べた?」
彼女の質問には答えず、晴人は質問を重ねた。
「まだ。というか、もう昼休み?」
「いつから寝てた?」
「三限目の途中まで覚えてる」
四限目がすっぽりぬけ落ちている。教師公認、いや、見捨てられたというほうが正しいだろう。
「話を戻すけど、昼メシ食べていないなら、ちょっと出よう」
「どこに?」
「ここじゃなければどこでもいい」
先ほどから晴人たちは注目の的だ。興味津々な視線が注がれる中、平気な顔をして食事ができるほど晴人の神経は太くない。
「決まってないの? それなら私に付いて来て」
夏芽は寝起きとは思えないきびきびとした動きで立ち上がり歩き出した。背中に視線が突き刺さるのを感じながら、晴人は彼女に付いて教室を後にした。
夏芽に案内されたのは屋上だった。出入口は施錠されて生徒は入れないはずなのに、夏芽は当然のようにスカートのポケットから鍵を取り出し閉じられた扉をいとも容易く開いてしまった。
屋上に足を踏み入れると、秋も後半だというのに日差しのおかげでほのかに暖かかった。
「どうして鍵を?」
「特別だから、かな。合鍵あるから今度あげる」
答えにならない答えを言って、夏芽は屋上の比較的綺麗な場所に腰を下ろした。「お昼、食べるんでしょ?」
疑問・質問、夏芽と話すと聞きたいことが次々と浮かんでくるが、いちいち聞いていれば日が暮れる。腹の虫が騒いでいることもあって、今は何も聞くまいと晴人は夏芽の隣にあぐらを組み、一つひとつ袋詰めされたパンを地面に並べた。「どれ食べる?」
夏芽はしげしげと眺めるだけで、手に取ることを躊躇っていた。
「……もしかして弁当用意してた?」
だとしたら大失敗だ。また教室に戻るとなると、食事に充てる時間はほとんど残らない。
「違うの」夏芽は首を横に振った。「お昼は用意してない、だから助かるんだけど、こういうのってあまり慣れてなくて」
夏芽が机に突っ伏していた姿を晴人は思い出す。友人関係については触れるべきじゃないだろう。
「本当にもらってもいいの?」
パンを見つめたまま夏芽が確認する。
「遠慮しなくていいってば。君を教室から連れ出したのは俺で、そのせいでパンを買う時間がなくなったんだから」
「きっと昼休み中も起きなかったよ」
自嘲気味に夏芽は笑い、クリームパンを手に取った。
「夏芽は……、仕事って言えばいいのかな、嫌にならないの? その、今日の今日でわからないことばかりだけど、学校生活がめちゃくちゃだろ」
「嫌になんてならない。なるはずがない」
パンを飲み込み夏芽は断言した。
「確かに私には友達がいない。おまけに眠ってばかりで授業もさっぱり。晴人が私を見て同情するのもわかる」
「なら――」
「晴人も知ってしまったでしょ?」
晴人が口を挟む余地もなく夏芽は続けた。
「あの空を知って、晴人はやめられる?」
彼女の視線に釣られて晴人も空を仰いだ。見渡す限り青い空。その中で自由に飛び回っていたことを思い出し、全身の毛が逆立った。
「私には無理。責任重大で大変だけど、それ以上に楽しいから」
空を見上げたまま夏芽は立ち上がり、スカートを軽く払った。
「パンごちそうさま。ごめんね、学校生活での悪い面を見せすぎた。みんながみんな私みたいに眠りこけているわけじゃないから晴人もそこまで悲観しないで。放課後になったら迎えに行くから教室で待っていて」
用件だけ伝えた夏芽は屋上の鍵を晴人に手渡し、保健室の時と同様ひとりでさっさと戻ってしまった。みんなって誰だ、放課後にまた何かするのか。夏芽と話すとやはり疑問ばかりが増えていく。だが、空を見上げればどれも大したことではないような気分になってくる。自分も空に魅入られているのかもしれない。晴人は仰向けに寝転がり、アンパンをかじった。
放課後になり、部活に参加する者、家路に着く者それぞれの目的のため生徒たちは次々に教室から出払っていく。十分を経たずして教室は雑談が終わらない女子三人と晴人しか残らない閑散とした状態に様変わりしていた。
――教室で待っていて。
秀樹たちを先に帰らせ、屋上で受けた夏芽の言い付けを律儀に守っていた晴人だったがどうにも落ち着かない。
そわそわしていると、
「空野くん今日はどうしたの?」
普段は早々に教室から姿を消す晴人が残っていることに女子たちが質問を投げ込んできた。
「ちょっとな」
「眠り姫とお約束?」
「いいだろ別に、興味本位の質問は悪趣味だぞ。散れ散れ」
追い払うように手を振ると、
「がんばってね~」
面白がっていることを隠すことなく女子たちは笑い、晴人に声援を送りながら教室を出ていった。すると彼女たちが教卓側の扉から出て行ったのとほぼ同じタイミングで教室後方の扉から夏芽が入ってきた。
「……寝坊?」
晴人は鞄を手に取り立ち上がった。
「午後はちゃんと起きてた」夏芽は口を尖らせる。「遅れてきたのは周りの目があったから。気になるんでしょ?」
私は気にしないのに、と聞こえてきそうな雰囲気だった。今日一連の出来事で晴人は眠り姫を目覚めさせたと一躍有名人だ。
「手遅れの感は否めないけどね……。それで、これからどうするの?」
また保健室から空に昇るのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「時間ある?」
「時間? 帰宅部にそれを聞く?」
「よかった、連れて行きたい場所があるの」
「空じゃなくて?」
晴人の問いに夏芽はこくりと頷いた。「今回は身体も連れて行くよ」
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